不思議な玉手箱Ⅱルワンダ編・その4  by もりぞのとしこ

2012年2月9日
ひときわ声高の「キーッキーッ」という鳥の鳴き声で目を覚ました。
友人の邸宅は、紛争のときに海外に流出し他国で成功したルワンダ人(こういう人たちのことを『ディ
アスボラ』という)に借りている家である。
私たちに用意してもらった部屋には、中央に大きなベッドがあり、天井から蚊帳のような白い網布が
ベッドを覆うために下がっている。
その布には、蚊や虫を防ぐために防虫薬が含ませてあるのだそう。
 (註)ディアスボラとは独立後に迫害を逃れて世界各地に散らばった離散者という意。この人たちが
現在のルワンダの発展の原動力となっている。その発展ぶりは「アフリカの奇跡」とも言われている。
(NHK番組「ルワンダの奇跡」より)

午後、友人の車を借りて(もちろんショーファー付き)、さっそく街の様子を見に出る。さすがに「千の丘
の国」と言われるだけあって、首都、キガリは小高い丘が幾重にも連なって形成された美しい街だ。
気温は赤道近くにありながら、高度があるため、1年を通して25度くらいまでしか上がらないので比較
的過ごしやすい。
街の中心部には人が多い。歩く人、立ち止まってしゃべっている人、バイクの人、車に乗る人、どこを
見渡してもお祭りのように人がいるという感じ。
それもそのはず。ここはアフリカで1番人口密度が高い国なのだ。
街なかの交通手段として、普通車のタクシーもあるが、バイクタクシーが多く、ヘルメットを2つ持って営
業している。もちろん1つは客用だ。
アフリカ風の不思議な柄のブラウス、スカートを着た人、スーツ姿の女性、ブラックスーツにおしゃれな
ネクタイのビジネスマンなど、人々の服装はまったく多種多様である。他人がどんな格好をしても気に
しないようだ。日本ではファッションが自己表現だと思っているが、こちらの方がもっと自己表現に徹し
ているのではないかと思った。人の価値観に左右されない服装という意味合いにおいて。
多くの人が携帯を手にしている。この国はIT産業国家として、今後の発展を期待されているとのことだ。
携帯電話の会社も3社あると聞いた。

キガリで1番大きいという、インド人が経営するスーパーマーケットに行ってみた。英国エディンバラで
も、経営者がインド人のマーケットが流行っていた。彼らの商才は世界のどこにあっても卓越している
ということか。入り口のセキュリティは厳しい。きっちりと制服を着込んだセキュリティーガード嬢にバッ
グを開いて見せる。
ここは本当にアフリカなのだろうかと、入るなり売り場の品揃えの多彩さに驚いた。
特にルワンダ産のコーヒーと紅茶のパッケージの種類の多さにはびっくり。さらにそれが何段もの棚に
整然と並べてあるのに驚いた。このマーケットの日用品はシャンプー、石鹸に至るまで、すべて輸入品
だ。国産品はローカルマーケットで、安価で入手することができるらしい。
野菜、果物、精肉、鮮魚、パン、調味料などが、それぞれのコーナーで豊富に並べられている。
パンやクッキーを店内で焼いているらしく、キャラメルのような甘い香りが漂ってきた。

2月10日
友人の「ルワンダに来たら、まずあそこに行ってください!!」という強い勧めがあり、半ばしぶしぶと
(あまり見たくなかったので)、キガリの街なかにあるジェノサイド記念センターを訪ねる。
「ジェノサイド」=「大虐殺」・・・この国にいる限り、この言葉を無視して過ごすことはできない。いつも、
その言葉が人々の頭の片隅にあるかのようだ。街なかのいろんなところでこの文字を見たり、耳にし
たりする。
美しい丘の連なりを眺めても、喧噪のなかにもおっとりした雰囲気を持つ人々の様子を見ても、ジェノ
サイドという言葉はあまりにも似つかわしくないのだが。
人々の心の中ではまだ終わっていないのだ。

『そもそもなぜそのような出来事が起きたのか?』
という素朴な疑問があったので、インターネットで文献や資料などを調べてみた。

ルワンダ紛争の経緯
1885年、ドイツ領東アフリカの一部となり、その後、第一次世界大戦後、ドイツの敗戦によりベルギー
の委任統治下に置かれた。
ベルギーは階級集団であるツチ(Tutsi)に属する人と、 フツ(Hutu)に属する人を間接統治した。
ツチの中の牛10頭以上持つ者が支配者になり、その他持たない者は被支配者となった。そのため両
者には教育や経済のうえで差別が生じることになった。
ベルギーはその社会形態を利用して、はじめはツチを優遇していたが、かれらに独立の兆しが見え始
めると、フツとの同盟に動いた。そして階級集団が部族集団へと変えられていったといわれる。
最後の国王、ルダヒグワ王が死亡後、ツチへの虐待が激化し、あちこちの村で暴動が起きはじめる。
1961年、選挙により、最初の首相にフツのカイバンダが選出された。フツの解放を叫ぶパルメフツ党
(フツ解放運動党)を結成。
1962年、ルワンダ独立。
ツチ族を排除する「エスニック・クレンジング」(民族浄化)がますます激化していく。
1973年、フツ族のハビャリマナ大統領によるファシスト政策強化。
1987年、ウガンダに逃亡したツチ難民によるルワンダ愛国戦線(RPF )が結成される。
1990年、政府とRPFとの間でルワンダ紛争が激しくなる。この間、フランス政府はハビャリマナ政権に
資金を貸与し、武器購入を援助したといわれている。
1993年、ルワンダ政府とRPF 間の「アルーシャ和平協定」が取り決められたことを受けて、国連安全
保障理事会決議により、国際連合ルワンダ支援団が設立される。
1994年、ハビャリマナ大統領が暗殺されたのを機に、政府とフツによるツチへの暴力、殺害がさらに
激化、
このとき、民兵集団、インテラハムウェはツチ族の「デスリスト(Death List)」を作成しており、それに基
づいて、家から家を回り殺戮を繰り返した。

虐殺はキガリで始まったが、またたく間に地方に広がっていった。
国際連合ルワンダ支援団は事態の収拾は不可能とし、一部のボランティア兵を残して引き上げる。
国連無介入状態のなか、ツチ族と穏健派フツ族への大量虐殺の悲劇がさらに広がり、100日間のうち
には100万人以上の犠牲者が出たとみなされている。
国連安全保障理事会は国際連合ルワンダ支援団に派遣を求め、フランス軍と多国籍軍が派遣され、
1996年、紛争の終結、解散となる

Rwanda was dead (ルワンダは死んだ)

ジェノサイド記念センターの冊子には、当時の様子を上のように書いてある。

1994年11月、国連安全保障理事会決議955により設置された国際司法機関として‘ルワンダ国際戦
犯法廷’、ICTR(International Criminal Tribunal for Rwanda)がタンザニアのアルーシャに設置される。
目的は「ルワンダ領域内で行われた国際人道法の重大な違反において、責任を有する個人を訴追、
処罰する」ことである。
虐殺の首謀者らは今も国際指名手配中である。

一般人は「市民裁判」(ガチャチャ裁判という)にかけられ、罰せられる

(武内進一氏のレポート「ガチャチャの開始」より)
「ガチャチャ裁判とは、地域レベルで民衆の意見に基づいて実施される、ジェノサイド罪容疑者に対す
る裁判。10万人を超えるという容疑者(各地で実際に殺害や暴行を行なったもの)が審理対象となる。
手続きは法的に細かく決められている。住民のなかから選出された判事団(9名と補助5名)が容疑の
確定を行う。」
ガチャチャ裁判で確定された容疑者は囚人服を身に着けて、田畑などで強制労働をさせられている。
私たちはキガリ郊外の田畑で強制労働をしている、囚人服を着た人たちをたびたび見かけた。
あれから16年たった今、人々は、表面的には何事もなかったかのように振舞い、淡々と日常生活を送
っているかのようだ。
隣人同士が加害者であったり、または被害者だったりする状況のなかで、憎しみや怒りなどの感情を
忘れ去ることは決してできないであろうと思う。
しかし、ルワンダという国を1つの成熟した国家として成り立たせるためには、国民一人一人に宗教者
にも似た努力が強いられているのではないかと思う。

センター内の展示場で、当時の証言や現場写真などの展示物を見たあと、記念センターを出た私たち
は、しばらくベンチに座って心の中の泡立ちが治まるのを待った。
センター内部の展示物の残酷さとは裏腹に、敷地内に植えられた花や灌木の美しさ、空の青さ、平和
な日常の騒音などを肌で感じながら考えた。
『今はこんなに平和そうに見える街の、これらの人々のどこに、かつてそれほどまでに強い憎しみが宿
ったのか、それはとても恐ろしいこと。加害者も被害者も血の地獄を見た人々なのだ。そして、かれら
はその事実をこれからも背負い続けなければならない。この国の人々の苦悩は、想像を絶する悲しさ
のなかにある』と思った。そしてまた、そのトラウマから立ち上がろうとする人々の心の強さを思うと、
自分がそのようにできるかどうかは分からないが、人間の、再生しようという願いは素晴らしいと思った。

午後から キガリからキブエ、そしてキヴ湖に行く予定。