インドへの旅立ち・No.14  もりぞのとしこ(文・イラスト

7月16日
 朝から太陽がギラギラと輝き、暑い。冷房の部屋から出ると、
とたんに汗が吹き出してくる。ことに台所がすごい。
 午前中、ダスさんが来る。こんどはユネスコとナショナル・
ブックトラストの共同作業として、島崎藤村の「破戒」をヒン
ディー語に訳し出版するという企画、それにトヨタ・ファンデ
ーションが資金的な面で一役買うらしい。
 「翻訳文が、デリー大学のある日本語科の教授によって完成
したが、その訳文に問題があることが解った。藤村の文体ある
いは文章に忠実ではないということを、始めの出だしだけでい
いから説明してほしい」と。わたしはオリジナル書と英訳書を
見て説明しながら始めの数行を読み進んだ。照らし合わせてみ
ると、翻訳されたヒンディー語の方にはあきらかに余分な言葉
が挿入されている。
 翻訳するに当たって常に訳者が留意しなければならないこと
は、行間の意味合いをうまく言葉に織り込んだ上で、オリジナ
ルにどこまで近づけるか、である。
 その原則からいうとこの人の訳文は横暴である。日本の名作
中の名作である「破戒」であればこそ、細心の注意をして翻訳
してほしいものだ。それにしても「破戒」をインドに紹介する
のは良い発想だと思う。日本の江戸時代の頃からあったという、
非人という身分差別は、ちょうどインドのカースト制度のアン
タッチャブルや少数部族へのそれに匹敵するからだ。
 インドはこの身分差別制度に、今も悩み苦しんでいる。イン
ドの人口の約7分の1を占めるこの人たちの一部にも、平等に
就学、就職の権利を与えようという運動が起き(「リザベーシ
ョン」といわれている)実施されているが、このことにより新
たな逆差別(一般の人々の就学、就職の枠が狭められるという
反作用)とそれに対する大きな不満が生まれたのだ。この国の
差別問題はこれからどういう解決をなされていくのだろうか。

7月20日
 デリー駅近くの騒然とした古い商店街の一角に、古めかしい
香水店をやっと見つけた。店の中に足を一歩踏み入れると、種
々の化粧品と香水のびんが所狭しと並べてある。インドで生成
された香油(パヒュームオイル)と輸出、加工されて、ヨーロ
ッパやアメリカで素敵な名前を付けられ、高価な値段で売られ
ている。たとえばジョイ、シャネル5番、ポワゾンなど。
 この店の商品はまだアルコールが加えられていない香油や練
り香水でプリミティブだが、エスニックな図柄のボトルや入れ
物に入れて売られている。サンダルウッド(白檀)、ジャスミ
ン、バラ、百合、フリージアなど数十種類の花のエキスから香
油が生まれるのだ。いろんな匂いを嗅いで鼻がおかしくなるほ
どだった。ローズウォーターという、バラの花びらから抽出し
た液体は、女性用化粧水として使われているだけでなく、意外
にもインド料理にも使われている。
 帰りにオールド・デリーの「モティ・マハール」という有名
なタンドリーチキンの店で昼食をとる。小さな地鶏を串刺しに
して、タンドールという壺様の釜でじっくり焼き上げたスパイ
シーなインド式焼き鳥だ。焼き上がった裸の鶏が、皿の上にボ
ンと乗せられて出てくる。味も良いが、ワイルドさも店のムー
ドに合って良かった。

8月4日
 スブラマニヤン夫妻の家から食事の招待を受ける。政府の住
宅はとても近代的とはいえなかったが、小ざっぱりと整えられ
た家の中には好感が持てた。オードブルと飲物で延々としゃべ
り、10時頃になってやっと食事。これがインドスタイルだ。
ミーナ婦人の手料理は客を心からもてなす気持ちに溢れていた。
その気持ちさえあれば、文化も習慣も違う国の人とも解り合え
るのだという確信を深めた。

8月17日 
 ラクシャ・バンダーンの日。女性が自分の兄弟に、絹糸で編
んだ紐をお守りとして手首に結わえてあげるというお祭りの日
だ。ドライバーから、嫁いだお姉さんが帰ってくるから半日休
ませてほしいと申し出があった。午後から出てきた彼の右腕に、
真新しい絹の紐が結ばれていた。なかなかほほえましい姉弟愛
だ。
(続く)