インドへの旅立ち・No.18  もりぞのとしこ(文・イラスト

10月26日
 デリーの冬の訪れはあまりにせっかちだ。夜中はタオルケッ
トにくるまって眠るほどに。オビーも今まで長々と伸びて眠っ
ていたのに、丸く小さく縮こまっている。

10月29日
 「ディワリ」の日だ。ラーマ王子の凱旋を祝うのが「デュセ
ラ」の祭り、そしてその戴冠を祝って「ディワリ」へと続くの
だ。ディワリは、春の「ホーリー」が「色の祭り」であるのに
対して、「光の祭り」といわれる。家々では、素焼きの器に入
ったそうそくや油に火を灯してあちらこちらに置き、賑やかに
祝うのだ。
 ディワリの前後何日間は、道路、公園などがいたるところで、
花火と爆竹の音がすさまじい。なにしろ1万連発の爆竹なんか
があったりするのだ。インド製の花火は粗悪なものが多いので、
ディワリのあと新聞には必ず「花火のため死傷者138名」な
どと出たりする。
 わが家の息子もこの時とばかりに、花火、爆竹をごっそりと
買い込み、友達と、庭や公園で毎日バンバンやっている。「腕
が吹っ飛んだらどうするの!」と恐がらせても、ワイルドな魅
力の前では親の意見も無力である。全くインド人の大人でさえ、
生半可な楽しみ方ではないのである。考えてみれば、彼らがこ
の時とばかりに、花火や爆竹をぶっとばす気持ちもわからない
でもない。日頃の不条理な不満を忘れ、酒におぼれ、花火で爆
死というのも悪くはないと思う人もいるだろうか。否。そこま
で思い詰めた人はいないだろうし、インドの歴史はそんなにあ
まいものモノではないのだ。

11月9日
 アショカホテルでのパーティーの帰途、ファミリードライバ
ーのビジェイの妹の結婚式に顔を出した。夫となる人はブラー
マンの階級の出で、その下の階級のクシャトリアの妻では身分
に不足があると親戚縁者から反対されたと聞いていた。ブラー
マンとはいえ、さほどリッチな家庭ではないらしく、小さな会
場を借りてのささやかなパーティーを催していた。壇上に花嫁
花婿が並んで座り、客が次々と二人に祝いの言葉を告げていた。
 ビジェイの姓はチャオドリーといって、ジャンムー・カシミ
ール州のクシャトリアの出である。父親が早くに亡くなり、今
は零落して家族でデリーに住んでいるが、そのプライドは高く、
なかなか使い辛いところがある。しかし、他の使用人とは違っ
た育ちの良さが感じられる好青年だ。貧しいけれど、家族がい
たわり合い寄り添って暮らしているビジェイ一家の様子を垣間
見て、ここにも家族愛というものが在ることを感じ、暖かいも
のを抱いて家に帰って来た。

11月18日
 とうとういつも恐れていることが現実になってしまった。ラ
ジャスターンからの帰路、日本から来印中のO氏と夫が交通事
故に遭ったのだ。昨夜、「飛行機がキャンセルになったが、理
事がどうしても明日の大臣との会議に出席したいからというの
で、これから車で帰ってくるらしい」とY氏からの電話。いや
な予感がした。真夜中にトラックの多い幹線道路を走ることは
自殺行為に等しい。トラックの運転手のほとんどは、睡魔を断
つためにドラッグをやっているらしいから、何をか言わんやだ。
しかも、O氏はかつてデリーに駐在したことのある人なのに、
その辺の事情を知らない人のような傍若無人ぶりには驚いた。
 朝から何となく落ち着かない気持ちで待っていたら、朝9時
頃、大使館の医務官の先生より電話があり、「ご主人が事故に
遭われたそうですが、どこの病院に収容されていますか」と聞
かれる。凝然として言葉もない。夫のオフィスなど、心当たり
に問い合わせるが詳細がわからず。とりあえず入院の仕度をす
る。日本から持ってきていた注射器の、大・中・小と大きさの
違うのを何本かを鞄に入れ、Sさんに連絡して、「ともかく一
緒に来てほしい」と頼む。二人で急ぎオベロイへ。(オベロイ
ホテルに帰ってくる予定であった。)ロビーの女性へ訊ねると、
ホリー・ファミリー・ホスピタルに行ったという。慌てて病院
に駆けつけた。彼は放心したように車椅子に座って治療を受け
ていた。幸いにも左足の打撲と傷、粉々にくだけたガラスが刺
さった、頬の数ヶ所の傷だけですんだらしい。足の打ち身は大
きく腫れていて、見た目にも痛々しいが、「それだけで良かっ
た」と心から安堵の溜息をついたのだった。
 事故が起きたのは、ラジャスターンからジャイプールまでの
幹線道路でだったらしい。運転手の居眠りと、折悪しく左前方
に黒いトラックが止まっていたための事故であった。左側が衝
突したため、後方左座席に座っていた夫が、破損したウインド
ウグラスを頭からかぶり、膝を前方座席に打ちつけたのだ。あ
の「鉄の塊」アンバサダーの車軸が曲がり、ドアが外れた。そ
のままで走行を続けるのは危ぶまれたが、車輪をパールで引っ
張り、外れたドアを縄で結わえて、ノロノロ運転でジャイブー
ルまでやっとの思いでたどり着いた。ジャイブールからはタク
シーを雇った。
 そうしてまた何時間もかけて、オベロイホテルまで帰って来
た、と夫から話を聞き、「一歩間違えば母子家庭になっていた
のね」と安堵と怒りが交々にこみ上げてくるのを隠せないわた
しだった。
 O氏はかねての予定通り、わが家で夕食をとられた。みえる
なり、「申し訳ないことをしました」と大いに恐縮され、大き
な身体を畳み込むようにソファに沈めていらっしゃるのを見て、
気の毒にも思った。明日には帰国されるO氏の身に何事もなく
済んだことは、不幸中の幸いだったのかもしれない・・・。
 こういう国では、一歩間違えば「死」と隣合わせの危険が潜
んでいる、と改めて恐怖を感じた。

11月23日
 サウス・エクステンションの「ヘリテージ」に行く。サウス
エクステンションは日本人の間で「デリーの原宿」として通っ
ているが、その違いはあまりにも大きい。
 ヘリテージは、デリーではちょっと名の知れた高級ブティッ
クである。今日の目的は、インドの遺品と言われる「シャトゥ
ーシュ」を見ることであった。
 「シャ」は王様、「トゥーシュ」は衣服を意味する。標高3
千メートルあり、マイナス40度にもなる冬を迎えるというヒ
マラヤ地方に生息する、野生の山羊の胸毛で織りあげてある。
カシミールの少数民族が、岩場や木に引っかかった毛を丹念に
集め、長い時間をかけて一枚のショールに手織っていくのだ。
それだけでも十分驚嘆に値するのに、この縦1メートル横2メ
ートルのショールは指輪の輪の中を通るほど、薄く柔らかな織
物なのである。別名「リング・ショール」といわれるのはその
ためである。たたむとバッグの中に楽々入ってしまうくらい小
さい。
 これほど柔らかいものがこの世にあろうかと思うほど手触り
が優しく、肩に巻き付けてみるとその軽さと暖かさは信じられ
ないほどだ。わたしはすっかりその魅力の虜となってしまった。
 インドの女性が身につけているのは自然色の明るいカフェ・
オ・レ色のものが多い。近ごろは様々な色に染めたものも出て
きたらしい。より高級なものになってくると、細かな刺繍が施
してあり(繊細なものなので腕のたつ職人が一品物として、何
ヶ月もかけて丹念に作り上げる)、大変な価値のある芸術品で
ある。日本のある有名デザイナーのブティックでは、あろうこ
とか2百万円の値で売られているそうだ。(インドの値の5−
6倍。)
 この「シャトゥーシュ」に出会ったことで、ますますインド
という国が、わたしには「不思議な玉手箱」のように思えてき
た。

12月28日
 今日でインド滞在丸一年となった。あの暗い雑踏の中へ飛行
機から降り立ったときから、わたしの好奇心はアンテナをフル
回転させて不思議なもの、面白いもの、珍しいものを漁り始め
たようだ。
 日々の驚き、不安、悲しみ、怒りなどのボルテージがかなり
上がって、生来の性格の激しさに拍車を掛けることになったの
は残念だが、わが好奇心を掻き立ててくれる不思議の国インド
に、今在ることを嬉しく思っているのは事実だ。
 この1年間はわたしの生きてきた半生のなかで、とても重み
のある日々だったと思う。とりわけ1年前に死の宣告を受け心
理的には一度死んだ身であるわたしには、「生きていること」
そのものが「感謝」であり「喜び」であった。そういうわたし
が、インドのもう一つの顔である「生と死の融合する精神世界」
のなかで暮らしたことは、神の計らいだったのではないか、と
さえ思えてくるのだ。
(完)