インドへの旅立ち・No.2 もりぞのとしこ(文・イラスト)
1989年1月1日
子供たちは初日の出を拝もうと早起きをしている。早朝から、
合唱してマントラを唱える声が遠く低く響いてくる。
庭の樹々の隙間から何条もの光線がまっすぐわたしたちを射
抜くように差し込んできた。「宇宙的」という言葉が頭をかす
める。マントラと、朝靄と、樹々と、光・・・。いよいよ、わ
たしたちのインド体験が始まろうとしている。
小鳥たちがブーゲンビリアの繁みの中で激しくさえずり合っ
ている。一日中引っ越し作業。夜、S家にておせち料理のご馳
走をいただく。
1月2日
今日も夥しい数のダンボールと格闘。
「今のこの瞬間に、生きているのだ。」と実感しては、神に感
謝の気持ちを捧げる。
シェパードがわが家の一員になる。生後6週間の赤ちゃん犬。
子供たちは大喜び。」
1月7日
昭和天皇ご崩御の知らせを受ける。
朝からの雨g降り続いている。ひとたび雨が降ると、排水設
備の欠陥からか道路一面が水浸しになる。しんしんと冷え込む。
摂氏5度くらいか。停電が続く。
1月9日
絵理と剛樹が日本人学校の中1と小4に転入。学校は家から
歩いて3分のところ。一般の家屋を学校に仕立てただけの小さ
な寺子屋風で、子供たちは少々驚いた様子であった。
始業式のあとで対面式があり、絵理も剛樹もマリーゴールド
のレイを首にかけてもらって恥ずかしそうにしていた。全生徒
素80数名。みんな元気一杯で、年上の子も下の子も仲良く野
球などをやっている。
I・N・Aマーケットに行く。小さな店がひしめき合って、
映画でみたヤミ市を彷ふつとさせる。行き来する人の姿は様々
だ。
白い木綿服を着た男たち、サリーを纏った長い髪の女性たち
(豊かな黒髪を大きな縄のように結わえている)、クーリーと
呼ばれる荷物の運び屋(ほとんどが子供たち。買い物客の荷物
を車まで運んで、2、3ルピーの駄賃を稼いでいる)。またド
ーティーという腰巻き姿で、ござの上に座りこんでいる果物屋
の親父さん、通りすがりの人々からお恵みを頂戴しては、ペコ
ペコと頭を下げている老婆、ダルマのように両足がなく、冷た
い地面に座ったまま物乞いをしている男・・・・、そういう人
々の様子に圧倒されて、ただ息を呑むばかりだった。細い通路
は紙屑やパーン(口中清涼剤として男たちがしじゅう噛んでい
るビンロウ樹の実)を噛んで吐き出した赤い唾液などが、あた
りかまわず散らばっていて見るからに不潔そう。
一歩踏み込むには勇気がいる。あたりに漂う揚げ油の臭いにも
我慢ならない。
魚屋にたどり着くまでの通路の両側には、直系1メートルも
あろうかという大鍋でサモサを揚げている店、カレー粉やター
メリックパウダーなど、数十種類のスパイスを山状に
盛り上げて売っている店、こぎれいな日用雑貨店(ここでは免
税品おビール、ワイン、ウイスキーをヤミで売っているそうだ)、
そして果物屋、八百屋などが続いている。
通路の行き止まりにやっと魚屋をみつけた。氷りに埋まった
海老を1尾ずつ取り出しては鮮度を調べ2キロ買う。アジら
しきもの、サヨリ、サワラ、マナカツオなどがあり、冬場はこ
ういう魚でとうにかやっていけそうだ。
店の人に頼むと、刃先が手前に向いている刀身50センチ、
幅10センチ位の垂直に立った大包丁で、たちまちのうちに皮
を剥ぎ、身をさ3枚におろしてくれる。「所変われば品変わる」
というけれど、このまがまがしい大包丁には驚いた。アラビア
ンナイトの世界のようだと感じたのはあながち当て推量ではな
いはずだ。この国はその昔、西方からの侵入者によって侵略さ
れた歴史を持つのだから。
斜向かいの鶏屋では、鶏が次から次へと首をはねられ、毛を
むしられ、店頭の板の上に並べられていた。
(続く)