6/20 2007掲載

 ザクセンの輝き プロイセンの栄光(グロリア)  [返信] [引用]

編集長、先日は伝言板から手早く今月号のページへ転載して頂き、びっくりしました。有り難うございます。それから表紙が替わると気分一新、これもときどき良いですね。

> 結婚契約書を作成することを王は受け入れた」とありますが、
> それは即王妃になるということではなかったのでしょうか。
> フランスのブルボン王朝の公式の寵妃のようなものでしょうか。

<楽しい歴史秘話>のk.mitiko さん、コメント有り難うございます。
ご質問に答えるため、幾つかサイトを閲覧していたので、返事が遅くなりました。

「結婚契約書」は「結婚誓約書」がより正しい訳です。その内容は正室が死去した際には正室王妃に迎えるというものでした。それは公にされたものではなく、秘密裏に交わされたものでした。しかしこの誓約書に固執したことがコゼル伯爵夫人の命取りになったのです。長く考えた末王は彼女の要求を受け入れたと私は書きましたが、実は躊躇という言葉が使ってあります。「えらく自分を高く売りつける女だわい」と、王は思ったのでしょうね。

画像はコゼル伯爵夫人


 
v. K. als DSK  ++.. 2007/06/18(月) 22:50 [9560]

 
王はアンナ・コンスタンティナを側室に迎えるに当たり、神聖ローマ帝国皇帝の勅許を得て帝国女性伯爵フォン・コゼルの名称を与えています。というと厳格な審査を経てたいへん厄介な手続きをしたように思われますが、実際には届け出か登録程度のことではなかったでしょうか。その当時爵位は人にではなく領地に対し与えられたので、王がコゼルという何処かの領地を彼女に与えたのでしょう。

コゼル伯爵夫人がベルリンへ逐電したのは、従兄に預けておいた例の結婚誓約書を取り戻すためでした。そしてアウグスト王に、今一度約束を思い出させるつもりだったのでしょう。しかしなぜか誓約書は失われていました。

伯爵夫人に対するザクセン官房の非難は、国家のポーランド政策に私的に意見を差し挟み、国政を混乱させたというものでした。しかしコゼル伯爵夫人の前の愛妾を、アウグスト王はスウェーデンとの戦争終結交渉に当たらせています。これは失敗し、その愛妾は身を引くことになるのですが、賞味期限の切れた愛妾を追い出す、王の策略だったかもしれません。


画像は狩猟の宮殿に飾られているアウグスト王の絵

v. K. als DSK  ++.. 2007/06/18(月) 22:52 [9561] [引用]

 

シュトルペン要塞では丁寧に遇されたと書きましたが、新たに読んだ資料では当初伯爵夫人は要塞から一歩も外へ出ることは許されなかった、現金を持つことは許されなかった、要塞の兵士達は夫人に話しかけることは禁じられていたとありましたので、これでは幽閉ですね。愛妾側室はどの国でも掃いて捨てるほどいましたので、コゼル伯爵夫人が後世に名を残したのは49年にわたる軟禁生活という悲劇性によるものでしょう。

アウグスト王の死後もなぜ軟禁が続いたのか、定かではありません。世捨て人となった元愛妾に何の価値もないはずです。当時はザクセン王国は財政的には火の車で、不要な出費はどんどん削らなけねばならなかったのですから。当時の実質的ザクセン王国支配者はブリュール伯爵でした。この人は手腕に長けた人で、先日手打ち庵さんが散策したエルベ河畔の「ブリュールのテラス」に名を残しています。ブリュール伯の美術コレクションから400枚ほどの絵画を、後年ロシアのエカテリーナ2世が購入しています。こういう意外なところでこの話、エルミタージュ美術館につながりが出てくるんですが。

画像はザクセン王国宰相ブリュール伯爵

v. K. als DSK  ++.. 2007/06/18(月) 22:54 [9562] [引用]

 

最初は厳しかったコゼル伯爵夫人監視の目も、次第に緩いものになったでしょう。1756年に始まった七年戦争ではドレスデンはプロイセン軍に占領され、ブリュール伯爵もドレスデンを脱出してポーランドに逃げたのですから、コゼル伯爵夫人がシュトルペン要塞を逃げ出すチャンスはいくらでもあったのです。それなのに逃げ出さなかったのは何故か?歴史の謎として残っているそうです。最愛の息子がアウグスト王から大切に育てられ、ドレスデン王宮の側に隣接してコゼル宮殿を与えられたのですから、母親としてはそれで満足だったというのも、あるのではないでしょうか?

七年戦争というのは一方にプロイセンとイギリスの同盟、もう一方はオーストリア、フランス、ロシア、ザクセンなどが手を組んだ、18世紀の世界大戦でした。インドやアメリカ大陸にも波及し、アメリカ大陸ではフレンチ−インディアン戦争と呼ばれ、ミシシッピ川流域ルイジアナやカナダのケベックの帰属がフランスからイギリスに移り、しかしイギリスが東部植民地の住人にも戦費供出を強いたことが、アメリカ合衆国を独立させることになりました。そういうことがあるのでフランスはアメリカに自由の女神像を贈ったのでしょう。


画像は王宮厩舎中庭(手打ち庵さんの写真にあります)で行われる中世騎士の馬術試合

v. K. als DSK  ++.. 2007/06/18(月) 22:56 [9563] [引用]

 
アウグスト強王とコゼル伯爵夫人がいた当時のドレスデンに人口は僅か3万人。それでも当時はヴィーンやプラハ、ミュンヘンに次ぐ神聖ローマ帝国屈指の花の都だったのでしょう。現在ドレスデンの人口は50万人余りです。

私達がドイツに住んでいた頃「ザクセンの輝き・プロイセンの栄光」というテレビ時代劇があっていました。面白そうだけど私の語学力ではとてもついて行けず、見ませんでしたが、実はこれがアウグスト強王−コゼル伯爵夫人の時代から七年戦争までの、1700年代を描いたものだと気付いたのは、ずっと後になってからです。プロイセンのフリートリヒ大王なども出てきたようです。

制作は旧東ドイツ国営テレビです。結構な人気番組だったようです。プロイセンもザクセンも大部分旧東ドイツ領でしたので、これは自国の歴史賛美、国威発揚、国策映画だったのでしょう。まるで風林火山と太平記と大奥物を一つにしたような面白いドラマだったろうと、残念です。

画像は廃墟だったタッシェンベルク宮殿と、再建された華麗な外観

v. K. als DSK  ++.. 2007/06/18(月) 23:09 [9564] [引用]


6/15 2007掲載

 ドレスデン外伝 タッシェンベルク宮殿秘話  [返信] [引用]


実は外伝でも秘話でもない、観光ガイドブックにも書いてあることですが、ザクセン王宮別棟タッシェンベルク宮殿について読んでみると、なかなか面白かったので紹介します。

http://www.dresden-und-sachsen.de/dresden/taschenbergpalais.htm
   

 
v. K. als DSK  ++.. 2007/06/15(金) 00:59 [9537]

 


後年コゼル伯爵夫人と呼ばれるアンナ・コンスタンティンが、北ドイツからザクセン王国の首都ドレスデンに着た時、彼女は24才。輝くような美しさに誰もが見とれた。しかし実際はこの時彼女は前年結婚した夫に失望し、悲しみに沈んでいた。舞踏会でアウグスト強王は美しく、才知に長けた彼女に一目惚れし、自分の側室になるよう願い出た。アウグスト強王の女好きは有名である。王妃がいて、側室もいる。彼女はためらい、結婚契約書を作成することを王に要求した。長く考えた末王は彼女の要求を受け入れた。王は彼女に王国伯爵フォン・コゼルの称号を与え、王宮別棟タッシェンベルク宮殿を大々的に増築改装し、彼女をそこに住ませることにした。エルベ川沿いの夏の離宮ピルニッツ宮殿も彼女に与えた。1706年のことであった。王は王妃を離婚し、それまでいた側室は身を引くことになった。

日本語ガイドブックではコゼル伯爵夫人となっているが、これでは伯爵の妻と解釈され、正しくない。より正確には女性伯爵と言うべきであろう。ここでは慣用に従って伯爵夫人とします。
  

v. K. als DSK  ++.. 2007/06/15(金) 01:02 [9538] [引用]

 


宮中は権謀術数渦巻くところである。コゼル伯爵夫人は高慢と非難され、「まるで正室気取りだわい」と陰口を叩かれ、敵は数知れなかった。しかし一方では彼女は官僚の不忠や汚職を暴き、王のために献身的に働いた。

王は彼女を愛し、3人の子供を授けた。しかし蜜月は長く続かなかった。アウグスト強王の生きた時代はロシアのピョートル大帝の時代と完全に一致する。どちらも1670年頃生まれ、ピョートルは1725年まで生き、アウグスト強王は1733年まで生きた。当時はスウェーデンが絡んだ北方戦争の真っ最中で、王は一度失ったポーランド王の座を取り戻すのに全精力を傾けていた。ポーランド貴族の支持を得るため、プロテスタントのアウグストはカトリックのポーランド貴族の娘との結婚を画策した。潔癖で曲がったことの嫌いなコゼル女性伯は強硬にアウグスト王のこのやり方に反対した。王と伯爵夫人は次第に離反していった。
  

v. K. als DSK  ++.. 2007/06/15(金) 01:05 [9539] [引用]

 


1715年王はカトリック貴族との結婚に踏み切った。その直後伯爵夫人は王に何も告げず隣国プロイセンの首都ベルリンへ去った。王の再三にわたる帰還命令に屈せず彼女はベルリンへ留まったが、ザクセン宮廷では彼女の行為は国家反逆罪と見なされた。その後外交交渉が重ねられ、彼女は捕虜交換の形でザクセンへ送還されることとなった。帰還したコゼルをアウグスト王は許す訳にはいかなかった。伯爵夫人は以前交わした結婚契約を履行するよう王に迫ったが、もはや王に、それは出来ない話だった。王は伯爵夫人をドレスデン近郊のシュトルペン要塞に軟禁した。1716年のことであった。

まだまだ斬首刑が盛んに行われていた時代である。伯爵夫人の首がドレスデンの旧マルクト広場で石畳の上に転がり落ちることも、無いことではなかったろう。が、夫人はシュトルペン要塞で丁寧に遇された。
  

v. K. als DSK  ++.. 2007/06/15(金) 01:06 [9540] [引用]

 
結局この要塞でコゼル伯爵夫人はその後死ぬまでの49年間を過ごすことになる。1733年アウグスト強王が没したのちも彼女は要塞に留まった。自発的に留まったのか、赦免されたのか定かでない。インターネットサイトを2,3読んだが記載は一致していない。あるサイトでは夫人は赦免され、自由に出入りするようになった説明してあるが、別のサイトではアウグスト王の死後彼女が要塞を脱出するチャンスは何度かあったのに脱出しなかったのは不思議であると書いてある。

明らかなのはアウグスト王が夫人との間に出来た二人の娘と一人の息子を、数多い非嫡出子の中では格段の扱いで大切に育てたことである。とりわけ3番目に出来た息子をいつくしみ、現在の聖母教会のすぐ近くに宮殿を建ててコゼル宮殿と名付け、そこに住まわせた。

国王であるが故に選ばねばならない道があった。しかしアウグスト強王はアンナ・コンスタンティン・フォン・コゼルを忘れることはなかった。コゼル伯爵夫人にもそれは痛いほど解っていた。宮廷の陰謀の渦を離れた田舎の要塞で夫人は王と二人の楽しかった日々を思い、王の死後はひっそりと王の菩提を弔ったのであろう。
   
完  (写真はシュトルペン要塞 コゼル夫人の塔と部屋)
  

v. K. als DSK  ++.. 2007/06/15(金) 01:18 [9541] [引用]

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