11/13 2003掲載

ハナパパの

中国旅行記

 

10月11日より24日まで中国を回ってきました。初めての中国旅行でした。東南アジア大好きの私にとって、どうしても旅行してみたい国ではなく、予定を立ててもそんなに気分が盛り上がりませんでした。それでも行こうと思った理由は二つ、一つは貯まった全日空のマイレージの有効期限が12月までで、東南アジアには足らなかった事。もう一つは現在面倒を見ている福岡女学院の学生の一人が大連の外語大(中国語の勉強)に来年1月まで留学中で、彼女を訪ねると言う約束を果たすためでした。問い合わせると一都市単純往復でなくて良いと言う事で大連IN、上海OUTと言う事にして、いつものように「地球の歩き方」を買ってきて予定を立てました。最初は北京、西安、上海の定番三都市を回ってくる予定を立てましたが、中学時代からの憧れの敦煌にも行ってみたいと言う欲が出てきて、大連、上海の日程を削り、汽車での移動をを飛行機に変えて、なんとか日程を組む事が出来ました。以下が今回の日程です。

10日 11日の10:05発の大連行きに乗るため大阪に移動。

11日 関空発 大連に。

12日 大連発夜行寝台で北京に

13日 早朝北京着、ホテルに荷物を置いて北京市内観光。

14日 万里の長城見物。

15日 早朝の飛行機で敦煌へ移動、

16日 憧れの莫高窟見物

17日 出来れば、陽関、玉門関見物

18日 飛行機で西安に移動。

19日 西安観光

20日 西安観光

21日 西安観光

22日 早朝上海に移動

23日 上海観光

24日 上海発成田経由福岡へ

途中引っかかりもっかかりしながらも、この通りの日程で旅行する事が出来ました。

この旅行が何とか完結できたのは、大連在住のA子のサポートがあったおかげで、それ無しでは移動の手配等に時間を取られて、観光どころではなかったと思います。

しかしながら、言葉の壁が立ちはだかり今までの旅行の中で一番しんどい旅行でした.よく無事日程どうりに行動でき予定していた観光も出来た幸運に感謝しています。福岡に帰り着いたときは、20日に西安でひいた風邪の影響もあり、心身ともに疲労困憊でした。

 

10日 3時ごろ自宅を出て大阪へ、6時過ぎに伊丹着、リワキーノが迎えに来てくれました。電車で梅田に移動、宿の近所の居酒屋で歓談、リワキーノに会うのは2年ぶり、大阪に来たのは前回一緒に北アルプスに行った時の6年前でした。久しぶりの再会に話がはずみ、閉店の10時過ぎまでがあっという間でした。

11日 大阪駅に行くと、阪和線踏切事故のため、天王寺に移動するように放送があり、いささかあせりましたが、何とか無事大連行きに乗る事が出来ました。大連ではA子が迎えに来てくれており、今晩の宿、大連外大の学生寮に向かいました。しかし生憎の雨、気温は13度とひどい天気でした。昼食を美味しいと評判の餃子屋に連れて行ってもらいました。その後街中を少し歩きましたが近代的な街で日本の中規模の都会と言う感じです。雨にもかかわらず人が多いのには驚きました。夕食はA子の中国人の友人二人を誘い4人で行きました。
<大連での学生達との夕食>
メニューを見ても判らないので彼女達に注文を任せましたが、遠慮してかごく普通の料理で、後で生簀に行ってみるとシャコや珍しい蟹等が泳いでいて、食べ損なって残念でした。彼女達の学生生活の話等を聞いたり、旅行のレクチャーを受けたりしていると10時を回っていました。中国人用の学生寮は門限が10時と言う事で急いで帰りましたが、外国人用の寮と中国人用のそれとは随分差があり門限の有無、のほか、共同シャワーも無いとのこと、彼女達は週に一二度町の銭湯みたいな処に行くそうです。洗足洗浴という看板を見かけましたがそこが日本の銭湯みたいなようです。僕も寮に帰りました。寮は我々の学生時代のそれと大差が無く鉄筋5階建てのビルで一部屋1
0畳くらいの二人用で、部屋の左右の壁に沿って木製の作り付けのロッカー、勉強机、シングルベッドが並び魔法瓶、蛍光灯スタンド、ベッドマット、シーツ、枕、毛布、布団が備品で置かれていました。トイレ、シャワーは共同。一応温水ヒーターの設備がありますが11月にならないとはいらないとか、外は10度以下にさがっていて室内は寒々としていましたが布団をかぶって熟睡できました。

12 8時半にチャーターしたタクシーに乗り大連滞在中訪れたいと思っていた203高地に向かいました。大連に行く事を決めてから読み直した司馬遼太郎の「坂の上の雲」で一日に3万人以上の戦死者を出したという戦場を自分の目で見てみたかったのですが、今日は昨日に増しての荒天で気温は7度横殴りの風雨、駐車場で車を降りて傘を広げた途端骨がバラバラになるような状況ではせっかく1時間以上かけて来ましたが、あきらめざるを得ませんでした。「水師営」には寄って来ましたが、、、残念でした。
<水師営>
帰り道運転手が気を利かせて景色が良いといわれる海岸線の道を通ってくれましたが、低くたれこめた雲、と灰色の荒れた海が続くだけの黄海でした。昼頃大連の街に戻り昼食後、大連駅の裏手にある大きな卸売り市場みたいな所に連れて行ってもらいましたが、生憎の天気で露天の生鮮食品のコーナーはほとんど閉まっていて、室内にある日用雑貨、工具その他もろもろの所をうろつきました。品質はお世辞にも良いとはいえませんが、豊富でした。中華包丁とまな板が欲しかったです。間口
23メートルほどの小さな店が品物別に各棟に分かれ、おそらく数千店の規模で有ったと思います。観光地以外では市場を見て歩くのが私は一番好きです。繁華街まで戻り夜行列車の時間までデパ地下みたいな所や、スーパーを覗いたり、疲れたらお茶しながら旅行のレクチャーを受けたりしながら過ごしました。A子は今大学4年を一年間休学して、大学の紹介で大連外大に来ています。SARS騒動の時は大学から帰国要請があったにも関らず、残って夏休みには友人の実家を訪ねて1ッ月以上旅行をしてきたという猛者です。
<大連駅前にて、風が強くて帽子が飛ばされた>
こんかいの旅行を色々心配してくれて、北京までの寝台車、北京の宿、敦煌までの飛行機と宿、西安までの飛行機を取っておいてくれました。これでどれだけ旅行が楽になった事かわかりません。列車に乗り込むまで色々と心配して世話を焼いてくれました。多謝、多謝!
<北京行き寝台列車の車掌さんと>
寝台車は日本の2等寝台と同じで一区画6個の寝台があり、おおきな違いはカーテンがついてなくて全部丸見えです、また上、中、下で値段が違い(下が一番高い)10時の消灯までは勝手に下段に座り込んでいるので、寝られません。たまたま寝台券が取れずに乗り込んできたドイツのサッカー雑誌の記者が同じ車両にいたので彼の旅程の立案の手伝いをしながら時間を過ごしました。彼は中国語は全く出来ず、それでも中国各地で行われているサッカーの試合を観戦しながら回っているという事です。漢字がわかる事だけでも私の方がかなり楽なはずです、彼に会って勇気づけられ北京までグッスリ寝ることが出来ました。

13日 10時間の列車の旅を終えて北京駅に着いたのが朝6時でしたが、駅前は全国各地から到着する人々で混雑していました。
<早朝の北京駅>
アドバイスどうりまずバスルートまで入っている地図を買い、駅前の広場で座り込んで住所を頼りに宿を捜して見ますが

中国漢字で書かれているためさっぱり判りません、あきらめてタクシーに乗りましたが全く言葉も通じず、見せる住所は日本語漢字で運転手には理解できないらしく、結局書いてある電話番号に運転手が携帯TELをしてくれて、ホテルに着く事が出来ました。前門と言う繁華街の近くで、結構便利なロケーションでした。フロントに一人英語が判る娘がいて彼女から情報を仕入れ観光に出かけました。まず15日の早朝の北京空港へのリムジンバスの時間とバス停の確認に地図を片手に西単と言う所へ行きました。宿からは徒歩で15分ぐらい、始発は6:00と言う事で一安心。そのまま歩いて天安門へ、TVなどでおなじみのあの門が有りました。
<天安門>
内外の観光客であふれ返っていますが、なにせ広いものでそれを感じさせません。門を通り抜けて故宮へ、ヘッドホンの日本語バージョンを借りて見物しました。
<故宮>
そのまま北門を通り抜けて隣接する景山公園へ、小高い丘になっていて、故宮の甍がとても綺麗でした。
<景山公園より故宮を望む>
梅原龍三郎の北京秋天はここからの景色だと思われます。路線バスで前門まで移動、ぎゅうぎゅう詰ですがわずか1元。時間がまだ3時くらいだったので欲を出して、もう一つの世界遺産の天壇へいきましたが、ここもデカイ、広いでくたくたに歩き疲れてしまいました。

<天壇>

14日 前日教えてもらった八達嶺の万里の長城行きのバス停に行ってバスに乗るが出発時間がはっきり決まっているようではなく、乗客が8分位になった所で出発。

勝手にこのバスは長城行きの路線バスと思い込んでいたら、これが中国人用の観光バスで(長城で乗り込んできたガイドが少し英語が話せて判る)あきらめていた、明十三陵にも行く事が出来ました。万里の長城では2時間の時間があり、人が少ない急勾配の方を行き止まりになっている所まで行ってきました(その先は崩壊していました)が、2000年以上前によくこんな土木工事が出来たものだと感心しました。
<万里の長城にて>
風が強く寒かったんですが、やはり世界遺産来て見て良かったです。帰りに明十三陵によりましたが、こちらも見ごたえがありました。この観光バスはガイドが中国語で説明しますので内容は全く判りませんが、ガイドブックをよく読んでおけば全く観光には支障が無いので、他の観光地でもこれで行く事にしました。

<明十三陵>

15日 敦煌への移動の日。6時のリムジンバスに乗るため、5時起床チェックアウトをして早めに着くように乗り場に行来ましたが、これが正解で5時50分にはおおよそ満席になり出発しました。空港では国内線と国際線がどうなっているか(同じビルか別か)判らず少々戸惑いましたが、親切な中国人に助けてもらって無事搭乗できました。その後もそうでしたが搭乗前には手荷物検査のところで必ず検温がありました。出発して30分もすると山頂に雪をかぶった山脈と砂漠の連続になり敦煌に着くまで見ていて飽きませんでした。
<敦煌に向かう機上より黄河の上流>
敦煌の空港に着いて今回の旅行で一番ヤバイ目に会いました。ガイドブックでは街までのリムジンは無いと書いてあったのですが、タクシー乗り場に行くとハイエースにリムジン6元と紙に書いて張ってあるのです、聞くと市内まで行くが他のお客が来るまで待てと言う事でした。飛行機から降りた客は全部散ってしまい、結局私一人になるとリムジンと書いて貼ってあった紙をはがして車になおし、近くに止めてあった車に乗れと言います。荷物を持っていかれるし言葉はまるっきり通じないし、仕方無しに車に乗りましたが、フリーの旅行者を釣るもぐりのブローカーだったのです。筆談でやり取りをしながらホテルに連れて行ってはくれましたが、ホテルに着くまでは、一体何処に向かっているのかも判らず、背筋は寒く、緊張の連続でした。ホテルに着けばフロントにいるスタッフを介して話が出来るだろうと思っていましたが、これが言葉がまるっきりダメ、しかし相手も何とか仕事にしたいのか、携帯をかけまくって日本語の話せるガイドをホテルに連れてきました。結局
3日間、車をチャーターして600元と言う事で頼む事にしました。北京のようにホテルで情報を仕入れて動くと言う事がここでは出来なかったので結果オーライだったかもしれません。荷物を置いて一休みし、鳴沙山という砂丘に行きました。敦煌の南側に広がる20キロメートル四方の砂丘で映画や写真で見るあの砂漠そのものでした。砂丘の上に登り近くの稜線を3時間かかってひと回りしましたが、服から靴まで砂だらけになり面白い経験になりました。

<鳴沙山の砂丘>

16 今回の旅行のハイライト莫高窟観光に朝一で出かけました。日本語のガイドを頼んだら、昨日の飛行機で一緒だった14〜5人のズーズー弁の老人の団体に入れられました。福島からの人達で最高齢が78歳とか、これからウルムチに向かうと言う事でした。大連を出てから久しぶりで話す日本語でした。井上靖の「敦煌」に出てくる最後に仏教の経典を隠して塗りこめたと言われる第17窟から案内が始まりました。小説では西夏の侵略から経典を守るために隠したと言う設定になっていましたが、調べてみて隠されたのは西夏の時代に入ってからとのこと、隠された理由が判らないとの事でした。又45000ほどの経典が合ったらしいのですが、アメリカの探検隊をはじめ数ヶ国のそれが持ち帰り、現在7000ほどしか残っていないとの事、盗まれたと言う表現でした。別料金を払って見学した2窟をあわせて11窟見学しましたが、入り口には扉がつけられ鍵を開けて中に入るようになっており、中は真っ暗で懐中電灯の明かりで見学するという状況でした。床はレリーフされた蓮の花のレンガが貼ってあり正面に塑像の仏像か仏画、天井を含め全ての面に千仏画や、飛天等の装飾画が施された窟はそのどれもが華麗でした。千数百年前に何でこんな辺鄙な場所に何でこんなに華麗な仏教施設をどんな人達が何百年もかけて作ったのか、、、不思議な世界でした。
<莫高窟>
隣接してある博物館によりましたが、なかに小部屋が設けてあり、窟の実物大の模型が展示されており、内部も専門家による模写がなされたそれは、照明のおかげで華麗さを知ることが出来ました。午後からは、敦煌市博物館に行ってみました。展示物には莫高窟で見つかった2〜3点の経典の実物以外これといって良いものは有りませんでしたが、敦煌周辺の地図の模型が位置関係を理解できたのと、日本語が少し出来る館員が一所懸命説明してくれるのが良かったです。

17日 漢時代の西の果て、陽関、玉門関の関所の遺跡を見に行きました。敦煌市内から片道75キロメートルのドライブです。国道ですら5分に一台車とすれ違うかどうかと言うような道を右折し真平らな砂漠(土漠)の中の真っ直ぐな道を70km/hで走って30分、遠くに玉門関の長方形の土の建物が見えたときには感激しました。
<玉門関 ここを通って玄奨三蔵がインドに向かった>
近くには漢の時代の長城(北京の長城とは違いここのは土塀)の崩れかけた後が砂漠に向かって真直に伸びこれもまた崩れかけた狼煙台の近くには狼煙に使う藁がそのままの形で残っていました。
<関陽に向かって延びる漢時代に作られた長城>
いくら乾燥地帯とはいえ
1700年位前のものです、ただただ感激していました。
<1700年前に準備されていた狼煙の材料の藁>
その後陽関に向かいましたが、こちらはオアシスの集落の近くで、又かなり観光地化されて、当時のものは崩れた狼煙台の後だけでしたが、そこから見る西の砂漠は心をときめかせるものがありました。

<陽関の狼煙台跡>

18 敦煌からの飛行機は初めて乗るドルニエという33人乗りのかわいらしい双発のジェット機でした。
<敦煌の空港とドルニエのジェット機33人乗、西安までこれに乗った>
飛び立つとすぐに雲が多くなり地上の景色は見る事が出来ませんでした。蘭州と言う所を経由して西安に着きましたが、すぐ後ろの席に座っていた蘭州から乗ってきた日本の商社マン達が「人間の住む所に帰ってきた」と言っていたのが可笑しかったです。予約してもらっているはずのホテルが予約されておらず、いささかあせりましたがそのホテルに部屋が取れたので荷物を置いて翌日の観光バスの場所を確かめたりして街をぶらつきました。唐の都長安はさすが大都会です。ホテルは鐘楼という街のど真ん中にあり何かにつけて非常に便利でした。夕食に名物の羊肉泡マク(食偏に幕)と言うのを食べ(小麦粉をねったパン状の物を細かく自分でちぎって丼に入れるとそれを羊肉の入ったスープで煮込んでくれる、食べられるまでえらく時間がかかるが美味かった)部屋に帰るとフルーツの盛り合わせとバースデイカードが置いてありました。チェックインのときに出したパスポートで判ったんでしょうが、大感激です。西安に行く機会があったら是非泊まってください城市酒店(CITY HOTEL)と言います。移動だけの一日でしたがハッピーな一日でした。

19 朝から生憎の雨、観光バスに乗り東線ルート(西安の東の郊外)の観光に行く事にしました。日本人は私一人でしたが、上海からご夫婦できていたヤンさんと言う方が昔船乗りで英語がわかり、何かと面倒を見てくれました。夕方まで六ヶ所ほど見学しましたが、圧巻は兵馬傭でした。やはり実物は見てみるべきです。
<兵馬傭>
私は特に軍馬の傭がその筋肉の躍動感や、鞍等の装具の質感の素晴らしさで、感激しました。ホテルに帰ってから上海までの飛行機の切符を買うため、やっと探し当てた旅行会社に行きました。全く言葉が通じないにも関らず、
22日の早朝の便を定価の六割引の450元で手に入れることが出来ました。これで安心して残りの西安観光をする事が出来ます。

20 頼んでおいたモーニングコールが鳴らず寝過ごしてしまい、今日予定していた観光バスの時間に間に合わなくなり予定変更、今日が移動日でなくホットする。市内で訪れたかった2〜3の場所を市内バスで回る事にする。西安のバスは前乗りで、乗ったときにお金を一元運転席の横の箱に入れるようになっていました。最初に大雁塔に行きました。
<大雁塔>
ここは玄奨三蔵がインドから持ち帰った経典を翻訳して保存した処です。塔の上からの眺めは広い道が真っ直ぐとおった西安の町並みがきれいでした。昼食後セン西歴史博物館へ。展示物のすごい事、国宝級がうじゃうじゃ。特に唐の時代の物に素晴らしい物がありました。一休みして、空海が2年間修行した青龍寺へいきましたが、ここは前の二つが素晴らしかっただけに、期待はずれ。特に見るべきものは有りませんでした。疲れ果ててホテルに帰り、夕食時間までとウトウトしたのが大失敗で、起きたら喉が痛くなっていました。

21日 やはり風邪をひいてしまいましたが、薬を飲み、西線ルートの観光バスに乗りました。ハイエースに14人の詰め込み状態の上、お客同士で口喧嘩するは、ガイドに文句をいうわ、もちろん何と言っているのかは判りませんが、最後までにぎやかでした。小さな博物館や、陵墓をいくつか見学しましたが、最後に訪れた1800年の歴史を持ち、世界で唯一仏舎利が納められていると言われる法門寺は特にその収蔵品が素晴らしかったです、風邪をおして来てなお余りある所でした。他の博物館も夫々見るべき物を持っていました。九州国立博物館を作る等といっていますが、一体何を展示するんでしょうね。
<法門寺>

22日 あまりに安い切符で本当に乗れるかどうか心配しましたが、チェックイン出来、体温検査もクリアして無事上海へ移動できました。ホテルを決めてなく、着いて捜せばどうにかなると思ったのが大間違いで、リュックを担いで歩き廻る羽目になってしまいました。思っていた地区では結局見つからず、上海駅へ移動し近くを探し回り、一番安い値段を提示した所へ泊まりましたが、それでも今まで泊まってきたホテルの倍以上の値段でしたが、疲れ果ててこれ以上動きたくない状況でした。市内をぶらつく予定でしたが、この日はこれだけで終わりました。

23日 体の調子が今一なので当初の予定は止めて、上海美術館に行きましたが、これは大当たり、まず建物の素晴らしさ(租界時代の建物)、収蔵品の現代水墨画の質の高さ、堪能してきました。
<上海美術館>
そのあと外灘に移動して両岸を歩きましたが、上海は大都会でした。持っていっていたお金も底をつき上海蟹を食べる事が出来なかったのが心残りでしたが、中国旅行を満喫出来たと思っています。

<外灘>

24日 上海浦東空港より成田経由で福岡へ。2週間欲張りすぎてへとへとでした。

 

今回の旅行で感じた事。

中国は、大きい、広い、人が多い。

言葉の壁が大きい。

人が優しくない。

以上のような理由で、個人旅行はあまりお薦めできません、しかし歴史のすごさは

さすがです。見るべきものは山ほど有りました。廻った観光地には夫々来て見て良かったと思うものばかりでした。恐らく他にも行って見る価値のある所は沢山有ると思われますので、団体旅行が無難かもしれませんが体力のあるうちにシルクロードをカシュガルくらいまで一人で行ってみたい気もします。

今まで旅した中で一番心身ともに消耗した旅でした。

 
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