11/8 2004掲載

フランス史に輝く王妃
 
歴史上の女性シリーズ4回目は、フランス ブルボン王朝の
基礎を築き文字通りフランスの歴史に大きな足跡を残した
王妃について紹介したいと思ます。
今回は王妃をとりまく人物の説明が必要ではと思いまして
解説を弟に頼みました。
 
アンヌ・ドートリッシュと「三銃士」について
 
アンヌ・ドートリッシュのことを書きたいのだが、と姉が相談してきました。
17世紀のフランス王妃だったアンヌ・ドートリッシュのことを書くとき、アン
リ4世、マリー・ド・メディシス、リシュリュー、ルイ13世、マザラン、ルイ14世、
などの同時代の有名な歴史上の人物のことに触れざるを得ず、それらの
人物とアンヌの関係性を簡潔に混乱無しに読む人に解ってもらえる書き方
は無いだろうか、というのが相談の主旨でした。
そこで私は、これらの人たちが描かれた小説を簡単に紹介することにして
姉の書くレポートの予備知識ともなるべく章を書いてみようと思い立ちました。
 
皆さんはアレクサンドル・デュマの小説「三銃士」の名をご存じですね。
そして多くの方が少年向きか岩波文庫で出版されている「三銃士」の物語を
実際に読んでおられることと思います。
「三銃士」は原書の「ダルタニヤン物語」という長編のロマン小説の最初の
いくつかの章を取り出して独立させた物語(多分日本だけでの試みと思わ
れるのですが)でして、このダルタニヤン物語に出てくる重要な人物が上記
の人たちなのです。
主人公のダルタニヤンと彼の同志である3人の銃士、アトス、ポルトス、アラ
ミスに上記のリシュリュー以下の実在した人物を重要な登場人物として実に
うまくからませて物語を展開させていったのが「ダルタニヤン物語」なのです。
実は私はつい最近までダルタニヤンは架空の人物と思っていたのですが、実在した
ようです。
参照→『ダルタニャンの生涯』(佐藤賢一・岩波新書)
 
三銃士の物語の大雑把なあらすじを述べさせてもらいます。
フランス王直属の銃士となることを夢見てパリに上ったガスコニューの田舎
出身の若者ダルタニヤンはひょんなきっかけでアトス、ポルトス、アラミスと
いう銃士たちと出会い、親友であり同志の絆を結びます。
当時のフランス王ルイ13世の王妃アンヌ・ドートリッシュはスペインのハプス
ブルク家の出身で、政策上ハプスブルク家と対立するフランスの宰相リシュ
リューとは政敵の間柄であり、リシュリューは王妃の信用失墜を狙っており
ました。
そこへフランスへ使節としてやってきたイギリスのバッキンガム公爵は美貌
の王妃アンヌに一目惚れし、アンヌも公爵を憎からず思って二人は逢い引き
をし(ヨーロッパの王族、貴族はこんなのしょっちゅうらしいですね)、アンヌ
は夫のルイ13世から贈られたダイヤのリボン飾りを公爵に与えるのです。
この情報をキャッチしたリシュリューは、すぐさまルイ13世にリボン飾りのこ
とを話して王妃と公爵の不穏な仲をにおわせ、それを確かめるためにパー
ティを開いて、王妃にリボン飾りを付けてくるよう言うことをそそのかすのです。
乗せられた王はすぐさまそのことをアンヌに伝えます。
我が身の破滅、と絶望する王妃を見た侍女のボナシュー夫人が恋人の
ダルタニヤンにこの窮状を打ち明け、ダルタニヤンは同志の三銃士の協力
を得て、リシュリュー側の妨害を次から次へとすり抜けるという艱難辛苦を
繰り返してロンドンに渡り、バッキンガム公爵に会って王妃の窮状を伝えて
リボン飾りをことづかるのですが、その直後公爵はリシュリューの放った
刺客によって暗殺されます。
パーティの期日にぎりぎりに間に合う、というタイミングで王妃アンヌの下に
戻って来て首飾りを渡し、アンヌは恋人の死の知らせと共にそれを受け取り、
パーティの広間に向かうのです。
 
三銃士の物語ではアンヌ・ドートリッシュはまだうら若くて美しく、控えめで
高貴な女性といったイメージを読者は抱くかも知れませんが、実はアンヌ・
ドートリッシュの本領が発揮されるのは彼女が生んで後に太陽王と言われ
たルイ14世の母后となってからの活躍であり、それについては長編の
「ダルタニヤン物語」を読めば、マザランやコルベールの協力者と敵対者と
なるロングヴィル公爵夫人やコンデ大公を巻き込むフロンドの乱の中で、
いかにアンヌ・ドートリッシュがしたたかな政治家となっていくかが解るのです。
ロングヴィル公爵夫人
イギリス女王エリザベス1世やオーストリア女帝マリー・テレジア、ロシア
女帝エカテリナ2世ほど有名ではありませんが、決して引けを取らない
存在のフランス王妃のことを、姉の「アンヌ・ドートリッシュ」のレポートは
色々伝えてくれることと思います。
 
妻よりも母として生きた王妃
 
フランスのルイ14世と言えば「朕は国家なり」「太陽王」の言葉等で
有名ですが、内政、外政において手腕を発揮して国力を充実させて
大王とも言われ、その繁栄の象徴としての豪華絢爛たるヴェルサイユ
宮殿はよく知られているところです。ルイ十四世の時代はフランスの
「大世紀」と言われていますが、その繁栄の基礎をつくった人々の中に
一人の王妃がいました。
その王妃はルイ13世の王妃アンヌ・ドートリッシュといいます。
(ヴェルサイユ宮殿の内部)   
アンヌ・ドートリッシュはわずか15才でスペイン王家から、同年齢の
フランス王に嫁ぎました。
アンヌ・ドートリッシュ 作ルーベンス
ルイ13世の父アンリ4世は前王朝ヴァロア家の断絶をうけて
カトリックに改宗して王位に就き、30年以上の長きにわたる
宗教戦争に終止符をうち、まがりなりにも信仰の自由を宣言
しました。
アンリ4世
対外的には基本は平和共存にありましたが、歴史的経過も
あってスペイン王家(スペイン、ハプスブルグ家)の威信低下
ならびに国際的孤立に執念を燃やしていました。
マルグリット・ド・ヴァロア
最初の王妃、通称マルゴと離婚した後、
イタリアのマリー・ド・メディシスと再婚しました。
ルーベンスの描いた「マルセイユ上陸のマリー・ド・メディシス」
この結婚は、当時フランスは多額の借金を抱えており、
イタリアのメジチ家の財力を当てにしたものだったのです。
アンリ4世は女好きでも知られ、いつも同時に2〜3人の
女性を妊娠させていたと言われていましたが、気さくで磊落な
性格は国民からは「大王アンリ」と呼ばれ親しまれていました。
マリー・ド・メディシス
二人の間に後のルイ13世が生まれますが、アンリ4世の
暗殺によってマリー・ド・メディシスは、10才のルイ13世の
摂政になります。イタリア人の寵臣コンチーニを元帥に任命
したことで、フランス貴族の反感をかい危機感をいだいたマリーは、
スペインに接近し、まだ14歳だったルイとスペイン王女
アンヌ・ドートリッシュとの政略結婚を謀りました。
一方ではリシュリューを見出し、彼の政界進出のきっかけを
つくりました。
マリー・ド・メディシス ルイ13世
やがて成人した息子との間に権力争いを起こしますが、1620年秋に
一応和解が成り立ち、10年ほど比較的安泰な歳月が続きました。
ルーベンスの『マリー・ド・メディシスの生涯』はこの時期に制作されました。 
ところが1630年に再び政争が起こり、翌31年、マリーは国外に亡命、
二度とフランスに戻れぬままケルンで他界しました。
王妃アンヌ・ドートリッシュ
王妃アンヌは背がすらりと高く17世紀有数の美女の一人と
言われ、当時の女性美の手本と言われた金髪に、「緑を帯びた
目の色は、眼差しが精彩を放っていて魅惑的だった」、と言われて
います。そのうえ手の美しいことでも有名でした。
ルイ13世
ルイ13世は神経質でどちらかというと女嫌いの傾向があり、
一応愛人はいたようですがプラトニックな関係でした。
王妃アンヌ・ドートリッシュには無関心で、結婚後22年間も
子供に恵まれませんでした。(おかげで王弟ガストン・ドルレアンを
担ぎ出し、王位奪還を狙う貴族が多かったようです。)
国務よりも音楽や狩を好のみ、優れた頭脳の持ち主で
側近の意見を尊重し、宰相リシュリュウーとともに中央集権と
絶対王政(注)の路線を敷いて行きました。
宰相リシュリュー
枢機卿。ルイ13世の絶大な信頼を得て、ハプスブルグ家の台頭を
許さず、反リシュリュー勢力(王弟と、母后マリー・ド・メディシスを
中心とする)への対処、宗教問題、すべてに断固として事にあたり、
「仮借なきリシュリュー、恐るべき枢機卿は人を支配するというより粉砕した。」
といわれ、ブルボン王権の強化に努力し絶対王政の基礎を固めた人物です。
フランスの新聞の始まりであるラ・ガゼツト(La Gazette)誌を保護、1635年
アカデミーフランセーズを創設。
「わたしには国家の敵よりほかに敵は無かった」と言い残しました。
王妃アンヌ
アンヌが若くして嫁いだフランス王家は、母后マリー・ド・メディシスの
奸臣コンチーニの支配下にあって夫王と同様、あるいはそれ
以上に不愉快な思いをさせられていました。
ルイ13世の代になっても夫の冷淡さに加えて、猜疑心の
強い宰相リシュリューから実家スペインとの関係を常に疑惑の
目で監視され、時にはリシュリューの命を受けた大法官に居室を
家宅捜索され身体検査までされたと言われています。
王妃アンヌの偉大さはこの宰相の強引さに耐えたことでした。
そして22年ぶりに第一王子が誕生し後のルイ14世となります。
王妃アンヌ
宰相リシュリューが亡くなると後を追うようにルイ13世が
亡くなります。新王ルイ14世はわずか4才でしたので
王妃アンヌは40才を出たばかりで摂政になります。
それまでリシュリューが抑えつけていたもの全てがフランス中で
頭をもたげ、「枢機卿(リシュリュー)は死んでしまった。我々は
一身代をこしらえるとしよう」とまるで申し合わせたように王国に
名だたる人物は皆この言葉を口にしました。この野心の奔流を
食い止めることのできるのは摂政アンヌしかいませんでした。
「フロンドの乱」の勃発です。
マザラン          
摂政アンヌはまず手始めにリシュリューが後継者としていた
枢機卿マザランを宰相に任命しました。マザランはフランスに
帰化したイタリア人で、リシュリューとは対照的に人当たりのいい外見で、
「人を篭絡し、買収し、だますこと」はお手の物で「霊妙な知恵才覚の
持ち主」と言われ、絶対王政の影の功労者となります。
摂政アンヌの治世の始まりは、実家スペインとの戦いに勝利したことを
 はじめ、外征して次々と勝利をおさめ4年目にはアルザスをはじめと
する三つの司教領、メッツ、トゥール、ヴェルダンがフランス領になりました。
摂政アンヌ親子
摂政アンヌは戦いを持ちこたえるためには私物の宝石類を
質において軍資金を調達しましたが、戦争継続のために
後には王冠についている宝石までかたにおいて10万リーブル
を借りたりして問題になりました。ルイ13世と宰相リシュリュー
の掲げた政策を押しすすめようとする摂政アンヌとマザランに
対して、反王権的な貴族の反乱が1648年から1653年にかけて
起こります。「フロンドの乱」と言われ一時は摂政アンヌは幼い
ルイ14世とともにマザランとパリを脱出する状況になりました。
ルイ14世
地位回復を望む貴族から重税と凶作に苦しむ民衆と
それぞれの階級の思惑を乗せて反乱はフロンド(石投げ打ち)
のように各地に広がって行きましたが、マザランは反乱側の
不一致に乗じて鎮圧してしまいました。王権に対する
貴族勢力最後の反乱の鎮圧は、結果として絶対王政強化
につながっていきました。摂政アンヌは幼王ルイ14世とともに
パリ市民の歓呼の声の中帰還します。ルイ14世は
このときの経験から後にパリを敬遠して、離れたヴェルサイユ
に宮殿を建てるようになったと言われています。
摂政アンヌ
摂政アンヌは長い不遇の年月に耐えて鍛えられ、愛する
我が子ルイ14世の権利を守るために強くなっていきました。
できる限り息子を自分の部屋で育て、その教育を決して
ゆるがせにしませんでした。後のルイ14世の完璧な礼儀
作法、威厳、優雅さ、良き趣味、宮廷の取りしきり方などを
教えたのは、当時のヨーロッパでは最も儀式を尊ぶスペイン・
ハプスブルグ家の宮廷で王女教育を受けた摂政アンヌでした。
摂政アンヌと宰相マザラン
最初は二人の間には愛情関係はありませんでしたが、
次第に助言者にして心の友となったマザランに対して
摂政アンヌも信頼を寄せるようになり、その親愛な関係は
マザランの死ぬまで18年間続きました。
その間取り交わされた往復書簡から二人は秘密に
結婚していたと言われています。この二人は激動の時代を
協力してフランス国王の座を守り抜き、領土を広げ次の
ルイ14世に引継ぎフランスの大世紀と言われる時代の
礎を築きました。
アンヌ・ドートリッシュの銅像
摂政アンヌは乳がんで亡くなりますが、ルイ14世は
母后のベッドの足元に布団をしいて着のみ着のままで
幾晩も看病しました。1666年1月20日母后アンヌが息を
引き取った時、側近の一人が「この方はわが国における
最も偉大な王妃の中に数えられるに値いたします。」と
つぶやいたとき息子ルイ14世は「いや、わが国の最も
偉大な国王の中に」と訂正しました。
フランスはサリカ法によって女性の王位継承が認められて
いないため、女王が一人も居りませんが、国王にも比すべき
母后アンヌの活躍によって、フランスはヴェルサイユ宮殿に
象徴されるルイ14世の全盛期を迎えることができました。
ベルサイユ宮殿の天井画
アンヌ・ドートリッシュのことを調べていくうちに、歴史にもしもは
禁句ですが、この王妃なかりせばフランスの歴史は大きく
異なっていたのではと思いました。
まさにフランスの女王といっても良いような女性だったと思います。
 
余談ですが「三銃士」のダルタニアンは、実在した人物でルイ13世
ルイ14世に仕え、1673年戦死しました。ダルタニアンの忠誠に対して
残された二人の遺児にはルイ14世と王太子が洗礼親となりました。
 
注 絶対王政
    国王中心の専制政治
 
参考文献
    フランス女性の歴史    アラン・ドゥコー   大修館書店
    大世紀を支えた女たち  クロード・デュロン  白水社
 
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