7/30 2004掲載

歴史の里岡山を訪ねて
 
西穂高岳の翌日は立山に移動、弥陀ケ原に
一泊、翌日室堂に行きました。立山の室堂は
霧とガスで五里霧中の状況でした。
その時の様子は後日紹介させていただきます。
 
吉備文化の里  総社(そうじゃ)
 
7月17日朝富山を立ち、北陸道を経由して夕方
姪の住む岡山の総社に着きました。
この日の夕方から振り出した大雨で福井の
水害が起きたことを後で知りました。
 
 
総社の言われは総社市のホームページによりますと
「平安末期、国司が毎年国中の312社(末社を合わせると324社)
を巡拝することが困難となり、 巡拝の煩わしさを避けるために、
国府の近くに社(やしろ)を建てて神々を合祀(ごうし)しました。
この社を総社と呼びました。」
 
 
岡山県は古代には吉備王国とも言われた地域で、(この分野では
はなパパさんがお詳しいですね。)中でも総社は古墳や国分寺
等が点在して古代吉備文化の面影を数多く残している街です。
総社市にはいるとまず目につくのが国分寺の五重の塔で、
遠くから見えるその佇まいは優美そのものです。
 
 
この備中国分寺五重の塔は奈良時代、聖武天皇の命で
建立されて、国指定重要文化財になっています。
 
 
この地域は吉備路風土記の丘と称され近くに国分尼寺跡や
こうもり塚古墳等があり、県立吉備路郷土館でこの地方特有の
特殊器台と特殊壷の土器が見れたことは大きな収穫でした。
こうもり塚古墳は巨大な横穴式石室を持つ前方後円墳で
薄暗い古墳の中に入るとなんとも言えない不気味さを
感じました。古墳を覆う巨石は飛鳥の石舞台古墳の規模に
匹敵する巨大さで、この地域の権力の大きさをうかがわせるものでした。
 
 
いつか機会があれば弥生期最大の盾築遺跡(たてつきいせき)や
全国3位の造山古墳(つくりやまこふん)吉備津神社、桃太郎伝説の
鬼の城(きのじょう)など訪れたいと思いました。
 
備中松山城
 
総社市から車で20分の所に、鎌倉時代から750年もの歴史と伝統を
もつ高梁市(たかはし)があります。岡山県三大河川の一つ高梁川に
面して、昔ながらの町屋や土蔵など城下町の面影を残す町です。
その市街地の後背にある臥牛山にそびえる備中松山城に行ってきました。
 
 
松山城は現存天守を残す日本一高い山城として有名ですが
中腹までのシャトルバスを降りた後は、山道を歩いて登って
行きます。ここで又山登りをするとは思ってもみませんでした。
高梁は、高梁川中流域に位置し山陽と山陰の 中間にある
水陸交通の要衝です。そのため、高梁を支配することは
備中国を治めるのに重要な意味を持っていました。(ガイドより)
 
 
説明が途中で切れて申し訳ございません。
 
 
険しい急な登りと暑さに一苦労しましたが山道が
途切れてやっと搦手門(からめてもん)跡に到着。
明治の廃藩置県の際の取り壊しを免れたのも、この
険しさが幸いしたようです
 
 
見上げるような大きな岩盤を石垣に組み込んだ
大手門を見た時、この城が置かれていた状況を
象徴しているようで圧倒されてしまいました。
 
 
左から六、五平櫓と天守。櫓とは武器、武具などの倉として使用され、
戦時には兵の駐屯所にも当てられたそうです。この城の歴史は古く
鎌倉時代の1240年に創建されいくたびも城主を代え(ガイドによりますと14回)
ながら800年近くも続いて現代にいたっております。
 
 
天守閣への入り口。備中松山城は、日本三大山城
(備中松山城・大和高取城・美濃岩村城)の一つだ
そうですが、山頂の城跡に建物が残っているのは、
三大山城の中で備中松山城だけだそうです。
 
 
山陰と山陽を結ぶ伯備往来の中ほどに位置する高梁は、東西の
主要街道も交差し、この要地を抑えるため、備中の有力武将に山陰の
尼子氏や安芸の毛利氏、備前の宇喜多氏が絡んで、激しい争奪戦を
繰り返した(ガイド)より。伯備とは(伯耆ー鳥取、備ー岡山、広島地方
を示す)
 
 
天守1階の囲炉裡(いろり)は ろう城時に城主の食事、
暖房用として使用。
天守閣の中に囲炉裏のあるのは珍しいそうです。
 
 
装束の間 。ろう城時の城主一家の居室で
床下には石を敷き詰めて忍びの者にも侵入され
ないようになっており、落城の場合には城主一家
の最期の場所でもあったとの説明に、この
城の争奪をめぐって 激しい攻防があったことを
実感する部屋でした。
 
 
天守より二重櫓外側をみる。二重櫓外側には
石落としが作られています。
元禄時代に相次ぐ藩主の死によって後嗣がなく
お家断絶で改易となった時、城受け取りの役
を赤穂藩主浅野長矩が命じられ、家老大石
内蔵助良雄がその実務を取り仕切りました。
七年後には同じ運命をたどったのは歴史の
皮肉としか言いようがありません。
 
 
山城から見た高梁の街。鎌倉時代から幾多の戦乱を潜り抜けてきた
備中松山城、今は国の重要無形文化財としてしずかに佇んでいます。
松山城は昭和に入ってから手厚い補修がされて来たようですが、
天然の要害にそびえるその城のいたるところに、歴史の重みを感じて
物見遊山の気分にはなれませんでした。特に装束の間に入った
時は、いつものように写真を撮る気にならず松山城のホームページ
から借用しました。
 
 
山中鹿之介の墓が城下を流れる高梁川の川原にあることを後から
弟に聞いて、我が実家に縁浅からぬ武将の墓を訪ねていけなかったこと
がとても残念に思いました。鹿之助は播州上月城の落城で尼子氏が
滅んだあと、捕らえられて毛利氏の安芸の国に送られる途中、この
高梁川の川原で謀殺されました。
余談ですが私は小学校の教科書で山中鹿之介のことを習い子ども心に
強い印象を持ちました。
松山城に関心のある方は以下のホームページをご覧になって見られませんか。
http://woodone3831.hp.infoseek.co.jp/c-1-3-9-1-siro-MATUYAMA-a.html 

今度の旅行では義弟の運転する車で、13の県を通り
自宅を出てから帰宅するまで1700キロ走りました。
車の旅だからこそ気ままに寄り道しながら楽しむことが
出来て義弟には感謝しております。又西穂高関係の写真は
義弟の協力を得る事ができました。
立山、弥陀ケ原の花々は機会をみて紹介したいと思います。
 
              川島道子

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