9/3 2004掲載

川島道子

南の島からはばたいた二人の女性
 
前回、歴史を多面的に見ると言う事で「ヨーロッパの母といわれた女性」を
紹介しましたが、今回はヨーロッパから遠く離れた南の島から世界に
羽ばたいた二人の女性を紹介したいと思います。

みなさんはカリブ海に浮かぶマルテイニク島をご存知でしょうか。
17世紀の中頃フランスの植民地になり、入植当時のフランス人と奴隷として連れて
来られたアフリカ人の血に、後からインド人、中国人、アラブ系の血が混じってさまざまな
民族が融合して、美男美女揃いで知られた島となりました。

フランス本国と7000キロメートルも離れているにもかかわらず、ファッションや
食べ物、言葉はもちろん、人々の感覚さえもフランス的で人々はここを
「熱帯のパリ」と呼んでます。エキゾチックで魅力的な島のようです。
現在人口およそ36万人の小さな島で、フランスの海外県になっています。
この小さな島は二人の素晴らしい女性の出身地として、知る人ぞ知る
有名な島なのです。一人はフランスの皇后、もう一人はトルコの皇太后、
苦難の人生を生き抜いたこの二人の女性について私なりに紹介してみたい
と思います。
 
その1 ナポレオン一世の皇后ジョセフイヌ
 
 
ジョセフイーヌはマルテイニック島でフランス貴族の末裔
の農園主の娘に生まれ、16才で叔母の紹介で本国の
貴族ボウアルネイ子爵に嫁ぎました。
夫となったアレクサンドルがつきあっていたのは、パリ
社交界の洗練された貴婦人たちで、妻のジョセフイーヌは
頭がいいと言うよりはのんびりした南国の島マルテイニク島
の風土を体現したような女性で、とらえどころのない
無頓着な性格、愛想のよさが彼女の取り柄でした。
こうした二人の間に息子ウージェーヌと娘オルタンスが
生まれました。余談ですが息子ウージェーヌはナポレオン帝政期に
イタリア副王となり、娘オルタンスの息子がナポレオン三世と
なります。二人の子どもに恵まれたものの、夫との間はうまくいかず
修道院に入れられたりした挙句、離婚制度のない当時協議別居に
なりました。一年半過ごした修道院時代に貴婦人としての修行を
積み、洗練された身のこなしや天性の愛想の良さともあいまって
魅力的な貴婦人となっていきました。
当時勃発したフランス革命の中で夫が逮捕され、助命に奔走した
ジョセフイーヌも逮捕され投獄されてしまいました。牢獄の中で
夫婦は和解しましたが、夫は処刑されてしまいました。
ジョセフイーヌの命も風前のともしびでしたが、そのとき起きた
クーデターのため命は助かり釈放されました。このクーデターによって
ひとまず恐怖政治は終わり、人々はその重圧からの解放に社会は
ひとときの明るさを取り戻しました。
財産を国に押さえられ、無一文で二人の子どもを抱えた未亡人(31才)
の生きていく道は厳しいものでした.。混乱した時代をどうして生き抜いたか。
伝記によりますとジョセフイーヌの錬金術の第一は修道院時代に身につけた
借金をするということでした。あたり構わず借金する、召使からもその家族
からもする。ジョセフイーヌの不思議な人徳に、召使たちは、給料を払わず
逆に借金を申し込む女主人に愛着を抱き、忠実に仕えました。
錬金術の第二は男たちから金を引き出すこと。つぎつぎと貴族の愛人になって
急場をしのぎ、やがて政府の最高実力者バラスの愛人になりました。
このバラスによってナポレオンは引き立てられて機会を得、出世していくのです。
錬金術の第三は人脈を駆使して政府に必要な物を吐き出させること。
差し押さえられていた家財道具をはじめ貴婦人には必要な衣服や
アクセサリー、馬車や馬などを返して貰って体面を保つことができました。
フランス革命後の反動の動きに乗じた王党派の蜂起を、バラスの
期待にこたえて一日で鎮圧したナポレオンが頭角を現しはじめました。
このころ二人は出会い、ナポレオンの熱烈な求愛に、恋多き女
ジョセフイーヌは結婚に踏み切ります。ジョセフイーヌは浪費家でも
ありました。
新婚三日目でナポレオンはイタリア方面軍司令官として
イタリアに旅立ちしましたが、戦地より手紙を毎日送り続け
どんな激しい戦闘があった日でも、ジョセフイーヌに手紙を
書かない日はなく、ときには三通にも四通にもなりました。
この手紙は恋文の傑作、歴史に残る不滅の愛の記録とも
言えるものでした。
このナポレオンの熱烈な思いに対して、ジョセフイーヌからは
たまにしか手紙が来ないと言う状況に当時の二人の感情に
かなりのずれがあったようです。
イタリアでは「12ケ月に1ダースの勝利」という奇跡的な
連勝をなしとげ、その輝かし戦果はナポレオンの名声を高め
ました。常勝将軍としてパリに凱旋したものの席の暖まる暇も
なく、半年後にはエジプトに遠征します。そこでナポレオンは
副官からジョセフイーヌの恋愛や借金の事実を聞き、離婚を
決意して帰国しますが、ジョセフイーヌの涙や哀訴、義理の
息子や娘たちの嘆願に折れてジョセフイーヌを許してしまいます。
これ以後ジョセフイーヌはナポレオンの糟糠の妻となっていきます。
ナポレオンが帰国する前夜のフランスは国内的にも
国外的にも行き詰まっていました。結果的に打開の道を
切り開いたのは、ナポレオンのブリュメール(革命暦ー
1799年11月)のクーデターによってでした。
このクーデターによって10年がかりのフランス革命は終焉し
ナポレオンは名実ともにフランスの第一人者になりました。
このクーデターの成功にジョセフイーヌは持てる力を最大限に
発揮し、ナポレオンにとってもジョセフイーヌの判断力は頼りに
なるものでした。
このクーデターによりナポレオンは着々と地盤を固め
1802年8月、終身統領の是非を問う国民投票では圧倒的
多数の支持で信認されました。これは名目上は協和国の
第一人者でも、事実上の君主制の誕生を告げるものでした。
そのことはナポレオンの個人的野心というよりも、フランス国民が
望んでいたことでもあったのでした。
1804年5月、元老院決議によってナポレオンは皇帝となり、12月2日
ノートルダム寺院において盛大な戴冠式が挙行されました。
このときナポレオンは35才、ジョセフイーヌは41才でした。
この絵は現在ルーブル美術館に「ナポレオンの戴冠式」として展示
されていますが、描かれているのはナポレオン自身の戴冠では
ありませんでした。
ナポレオンは黄金の月桂樹でできた皇帝冠をみずからの手で
頭上にのせ、自分自身の力でフランス皇帝となったことを誇示
しました。そしてその後、ジョセフイーヌに皇后冠を与えました。
余談ですが、この絵には150人以上の人物が描かれていますが、
この人たちの多くはフランス革命を体験し、恐怖政治を生き抜いて
きた人たちでした。
マルティニック島生まれの農園主の娘がついにフランス皇后に
なりましたが、ジョセフイーヌには不安や悩みがつきまとっていました。
ナポレオンが皇帝になれば自分は皇后になり、世継ぎを生まなくては
ならない。子どもがうまれなければ自分はどうなるのか、ジョセフイーヌは
夫が王位に登ることを出来るだけ阻止したかったのですが、時代の流れ
は押しとどめることはできませんでした。それにナポレオンの歯止めの
効かない浮気も悩みの種でした。
それでも皇后の冠を受けてからの2年間はジョセフイーヌの
生涯の中でいちばん栄華に満ちた年月でした。
浪費癖はあってもジョセフイーヌは皇帝の有能な伴侶でしたし、
又威厳と言う点では、先輩の王妃たちにかなわなかったジョセフイーヌは
歴代王妃の中でももっとも親しみやすい王妃でした。又記憶力もよく
抜群の記憶力の持ち主のナポレオンから「備忘録」とよばれても
いたようです。
息子のウージェーヌはナポレオンの養子としてイタリア副王になり娘の
オルタンスはナポレオンの弟と結婚してオランダ王妃となりました。
皇帝ナポレオンはヨーロッパの覇者としての名声を一段と高めて
いきましたが、他のヨーロッパの君主たちより実力は上だが血は
尊くない、かなうことなら名門王家から新しく妻を迎え、その妻に
子どもができればと考えるようになっていきました。
戦場にあっては敏速果断な常勝将軍、鉄の意志を持つナポレオンも
離婚をめぐっては迷いに迷い続けました。
ナポレオンは個人としての感情を殺し、君主としての考えに
徹して離婚を決めました。1809年11月ジョセフイーヌの
皇后の称号はそのままで離婚が決まり、住まいは住み
慣れたマルメゾン宮殿とエリゼ宮(現大統領官邸)が与えられ
独立した宮廷を維持することができるようにナポレオンが
取り計らいました。
「マルメゾンはジョセフイーヌ」と言われたぐらいジョセフイーヌに
とっては文字通りの我が家でした。ジョセフイーヌの自慢は
巨大な温室で世界各地から珍しい花の種子や球根、苗を取り寄せ
栽培しました。ジョセフイーヌによってフランスに導入された植物は
184種にのぼるといわれています。とくにばらのコレクションは
世界一と言われていました。
このマルメゾン宮殿に隠棲したジョセフイーヌは、ナポレオンの再婚、
息子の誕生、めまぐるしく変わる政治や社会の動き、ナポレオンの
エルバ島配流を見ながら1814年、肺炎のため51才で亡くなりました。
「ボナパルト・・・エルバ島・・・ローマ王(ナポレオンの息子)」が
最後の言葉でした。
 
ジョセフイーヌはナポレオンの皇后としては有名ですが、実像はあまり
知られてなくて前半生の生きかたや、ナポレオンと結婚直後の気持ちの
すれ違い等から、正当な評価がなされていないようでした。
フランス革命という激動と混乱の時代に夫は処刑、自分自身も明日も
知れぬ状況の中で、二人の子どもを抱えて生き抜いたこと自体が
奇跡的なことでした。ナポレオンとの結婚後、やがてその期待にこたえるように
身を処していったジョセフイーヌに対してナポレオンも評価し、離婚後も
ジョセフイーヌに対するいたわりを忘れず、ナポレオンが終生愛したのは
ジョセフイーヌだけでした。
 
参考資料
「ジョセフイーヌ」革命が生んだ皇后  安達正勝  白水社 
から引用させていただきました。
 
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