9/7 2004掲載

その2   女奴隷から皇太后へ ・・・・・K.mitiko 

初めにお断りしますが、イスラム教では偶像崇拝が禁止されて
いますので、具体的な画像がなくそれに代わるトルコの風景を
描いた絵を添えました。
 
(マルティニク島赤い点の中ほど)
 
マルティニク島出身のもう一人の女性エーメ・デュブックをご存知で
しょうか。エ-メほど数奇な運命に生きた女性はいないのではないか
と思います。エーメは1763年マルティニク島の裕福な農場主の家に
生まれましたが、先祖はフランス宮廷に仕えた貴族でした。
エーメが幼い時両親が亡くなり、叔父の邸に引き取られ同じ年の
従妹ジョセフイーヌ(ナポレオンの皇后)と姉妹のように育てられました。
1776年、エ-メ13才のとき教育のために乳母に付き添われてフランス
に渡ります。8年後美しく成人したエイメは、留学生活を終えて故郷に
帰ることになりました。エーメの乗った船が途中で海賊船に襲われて
捕らわれてしまいました。捕らわれた男の多くは去勢されて宦官にされ
女は奴隷としてハレムに売られました。エーメの美しさに献上された
アルジェリアの太守は主君であるトルコのスルタンに献上しました。
エーメが連れて行かれたトルコのイスタンブルは、東ローマ帝国の首都
コンスタンチンノープル、ビザンチン帝国の首都ビザンチウム、オスマン・
トルコ帝国の首都イスタンブルとつねに世界最大級の政権が1500年に
わたって君臨した古都でした。そしてアジアとヨーロッパの二大陸に
またがり、東西文化交流の中心の役割を果たしていました。
イスタンブル半島の東端に帝国の権力が集中するトプカプ宮殿があり
この宮殿の一角にハレムがありました。
ハレムはスルタン自身の居住区である内廷と黒人宦官長の私室の
間にあり、400以上の部屋が皇太后の中庭を中心に取りまいていて、
ハレムと外界をつなぐ唯一の通路は、厳重に守られていました。
ハレムには多いときは数千人、普通でも数百人のオダリスクと呼ばれる
女奴隷が住んでいました。彼女たちはすべて誘拐されたり買われてきた
異国の女で、いったんここに入ったら死ぬまで出ることはできませんでした。
彼女たちのほとんどはギリシャ、アルバニヤ、コーカサス地方の出身者で
エーメのようなフランス人やイタリア人もおりました。
トルコ建国の当初は近隣諸国の王女や貴族の娘を娶るという
正式な結婚制度でしたが、帝国が最盛期に向かうにつれて
一人の君主に選びぬかれた女性たちが奉仕するというハレムが
形成されていきました。ハレムはそれ自身が一つの王国で、そこの
君主はスルタンの母后(スルタン・ワーリデ)でした。トルコでは妻は
替えはいるが、母は一人しかいないということで独特の栄誉ある地位
を占め、その権力はオスマントルコ帝国ではスルタンにつぐ絶大なものでした。
オスマン・トルコのほとんどのスルタンは女奴隷を母として生まれ、
権勢を誇るスルタン・ワーリデもほとんど奴隷出身でした。
(絵はエーメとは関係ありません)

エーメが入ったスルタン・ハミト一世のハレムでは、皇太子セリムと
その生母コーカサス妃、皇子ムスタフアとその生母シリア妃の二人の
母親たちは、隙あらばライバルの息子を亡き者にして、次期皇位を
手に入れようと、血みどろの陰謀を企てていたのでした。コーカサス妃
は落日のトルコを立て直すためには西欧文化をとりいれるべきだと
考えていました。同じ立場の黒人宦官長と二人が目をつけたのが
エーメでした。スルタンの寵を受け、もし男の子を生みその皇子が皇帝
になれば一躍皇太后になれる。自分にとってここしか生きていく道が
ないという諦めからエーメはその運命を受け入れようと決心しました。
スルタンとの関係の中で一年後に金髪の皇子が生まれました。
エーメを妃にしたハミト一世も彼女の西欧的発想の影響を受け、それまでの
トルコの因習に批判的になっていきました。セリム皇太子もエーメに好意を
寄せ、母のコーカサス妃の居室でエーメを交えての団欒のひとときを過ごす
のを何より楽しみにしていました。二人があまりに親しいのでエーメの子の
父親はセリム皇太子ではないかと噂を流す者もいました。
セリム皇太子もエーメの子のマフムトを実の弟のように可愛がりました。
帝位継承者は、まずコーカサス妃の子であるセリム、シリア妃の子である
ムスタフア、エーメの子であるマフムトの3人になりました。
帝位を狙うシリア妃はオスマン帝国内で絶大な権力を持つ親衛隊
(エニ・チェリの名で無敵軍団として世界に知られていました)と組んで
セリムとマフムトを暗殺しようと企んでいました。それまでにこの親衛隊は
6人以上のスルタンを廃位していました。
1786年、それまでセリム皇太子は必ずしも親密ではなかった
フランスのルイ十六世に友情を示した親書を送りました。
フランス側は突然の親書に戸惑って形式的な返書を送っただけ
でしたが、この親書はエーメが示唆したものだったのでした。
1789年、ハミト一世が死ぬと27才の皇太子がセリム三世として
即位しました。即位してからは親フランス的な政策をとり、フランス
将校を招いて軍もフランス式装備にしたり、パリ駐在のフランス大使
を任命したりしました。
1805年、エーメの強力な支援者だったコーカサス妃の死によって
力ずいた親衛隊は、トルコに野心を燃やすイギリスの援助でセリム帝
を廃してムスタフアを即位させようとしました。不安になったエーメは
フランスの援助を求めるようセリム帝を説得します。折りしも前年
ナポレオンはフランス皇帝に即位し、エーメの従妹のジョセフイーヌが
皇后になっていました。これを機にエーメはフランスに急接近して
危機を乗り切ろうとしました。
ナポレオンはセリム帝の要請に答え1806年フランス軍を派遣し
危機は回避されました。エーメは派遣軍の将軍夫人から故国
フランスの様子を聞き、ジョセフイーヌが皇后として栄光の頂点に
いるのを知りました。エーメ自身はトルコ王宮の奥深くひっそりと
生きていて、ジョセフイーヌに自分の存在を知らせることはできなくても
従妹の幸せに満足したのではないかと思います。
1807年危機は突然やってきました。派遣軍将軍が夫人の死に
悲しみにくれて帰国してしまった時、親衛隊が時を逃さず王宮に
押し寄せ、あっというまにセリム帝とエーメとマフムトを捕らえて
監禁してしまったのでした。シリア妃の息子のムスタフアが新皇帝
として即位しましたが、新皇帝は無能で酒や女に溺れて母后に
政治を任せてしまっために、国内に反乱が起き王宮に義勇軍が
押し寄せました。
追い詰められたシリア妃は、監禁されているセリム帝のもとに
刺客を急がせました。この際、一気にセリムとマフムトを
なきものにして我が子の帝位を守りぬこうとしたのです。セリム
は殺されましたが、マフムトは急を告げられて煙突に登りエーメの
居室に逃れ、やがて駆けつけた義勇軍にょって危機一髪のところ
を助けられました。その結果王宮は義勇軍によって解放され、
今度はシリア妃とムスタフア帝が捕らわれの身となりました。
こうしてセリム亡きあと皇帝の座についたのはエーメの子マフムト
でした。25年前、女奴隷としてハレムに連れてこられたエーメは
今やトルコ帝国の皇太后として押しも押されもせぬ権力をその手
に握ったのです。当時のエーメに謁見したヨーロッパからの訪問者は
気押されるような気品と美貌に、強い感動を覚えたと言われています。
マフムト二世はこのとき23才でした。即位後は母の影響もあって
積極的にフランス文化を採り入れ、租税制度を改革し検疫や種痘を
奨励し、キリスト教徒の迫害を禁止します。生活様式も西洋式を
採り入れ、男はターバンをトルコ帽に変え、女はベールをぬぐように
命じられました。さらにフランスから将校を招き軍隊を建て直すなど
改革を進め、ロシアのピョートル大帝の再来と言われました。
エーメもハレムの女奴隷の生活を大幅に改良し、それまでハレムの外に
一歩も出られなかったのを、宦官の監視つきではありましたが、たまには
外にピクニック行くことを許されるようになりました。
マフムト二世が24才、エーメが46歳の1809年、ナポレオンが
世継ぎが産めないことを理由にジョセフイーヌを離婚したという知らせが
フランスから届きました。この時からトルコのフランスよりの政策が変わり
イギリスが接近してきてイギリス大使とマフムト二世との信頼関係が築き
上げられていきました。ナポレオンはロシア遠征にむけての協力を
要請してきましたが、マフムトは応じませんでした。
あれほど親フランス的だったトルコの政策変更の原因は、ナポレオンが
ジョセフイーヌと離婚してオーストラリア皇女と結婚したことに対する
エーメの怒りにあったと言われています。エーメはジョセフイーヌを姉のように慕って
いたといいます。エーメは摂政の立場にいましたが、決して表にでることなく
息子マフムトを通して国政をうごかしていました。ナポレオンもジョセフイーヌも
エーメの存在は知りませんでした。ナポレオンはロシア遠征の大失敗で
やがて没落して行きます。
ナポレオンのロシア遠征の失敗から5年後の1817年、エーメは53才で
クリスチャンとしてその数奇な運命を閉じます。ハレムに連れてこられて
33年の月日が流れていました。エーメの墓碑には
    ナキッシュ・美しき者・外国貴族の血を受けた母后陛下
    東洋の門を新しき光に開いた女性
と書かれていました。ジョセフイーヌはこの3年前に亡くなっています。
ハレムの女奴隷の幸せはスルタンの寵を得て皇子を生み、その子が
スルタンになるとスルタン・ワーリデ(皇太后)になり、息子のスルタンが
生きている間に死ねることだと言われています。エーメの一生はその
通りの人生でした。女奴隷の身からその美貌と聡明さで皇太后になった
エーメの一生は、逆境の中で自分の運命を切り開いた勇気ある人生
だったと思います。
 
ヨーロッパから何千キロも離れたカリブ海の小さな島から出てきたジョセフィーヌと
エーメという二人の従姉妹同士の女性が、一人はフランス皇后となり、一人はトルコの
皇太后となって、ヨーロッパの政局にも大きく影響する存在になるとは、何という歴史上の
不思議さだろうかと思わされます。余談になりますが私は50年以上前文庫本でエーメの
存在を知ったときからエーメのことが忘れられず、今こういう形で紹介できようとは
思いませんでした。
 
参考資料
 
    「優雅で残酷な悪女たち」  桐生 操     大和書房
    「トプカプ宮殿の光と影」   N M・ベンザ  法政大学出版
 
以上の本から引用させて頂きました。

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