11/7 2005掲載 

私のマリア・カラス

川島道子 

日本でオペラが上演されはじめて約100年、関係者の地道な
努力や新国立劇場の開館、昨年のマリア・カラスを描いた映画
「永遠のマリア・カラス」の上映によってオペラに関心を持つ人々が
増えてきました。20世紀を代表するプリマドンナ、マリア・カラスの
ことを紹介したいと思います。
 
 マリア・カラス
オペラ通の間では「BC」と言えばカラス以前、「AC」と言えば
カラス以後の意味だと言われ、没後30年近くたちカラスの
全盛期は1950年代ですから、劇場でその舞台に接した人は少なく、
映像も少ない中で現在も関心を持たれ続けているのは何故なのでしょうか。
新しいファンの多くは録音されたCDによってカラスの歌を知りその魅力に
惹かれているのではないでしょうか。
 
 「椿姫」のカラス
私もその一人で50年位前ラジオから流れたカラスの「カルメン」に
衝撃を受け、それ以来関心を持ち続けてきました。
私が初めて聞いた「カルメン」は奔放に生きる生身のカルメンの
存在感と、聞く者の心を掴み取るような迫力に圧倒されて声の力と
いうものを初めて実感しました。
 
 「トロバトーレ」
カラスの全盛期にもまたその没後もオペラ界には優れた歌手は星の数
ほど現われましたが、その歌手たちの多くが忘れ去られる中でカラスだけは
時代を超えて今も新しくファンを獲得しているのは何故なのでしょうか。
 
 珍しいカラーの素顔のカラス
生前のカラスはオペラ界での輝かしい経歴とうらはらにキャンセル魔、傲慢
スキャンダルの女王、とマスコミをはじめ音楽評論家、心ないファンから批判
され続けました。カラスほど真摯に音楽(オペラ)と向き合って生きた歌手が
何故そのように誹謗されなければならなかったのでしょうか。その謎解きを
してみたいと思います。
 
 カラスの家族
カラスはギリシャ系アメリカ人としてニューヨ-クに生まれ、父は薬局を経営し
姉と二人姉妹の家庭に育ちました。母親は姉娘を一流のピアニストに妹娘
(カラス)を歌手に育てることが夢で、自分に達成できなかったことを娘に託し
夫の反対を押し切って音楽教育を進めました。娘の声に栄養を与えるために
ケーキや砂糖菓子など甘いものをなんでも与え、美声は脂肪をつけないと
育たないという俗説のため、カラスはまるまると肥った少女になり、レッスンに
追われた日々はカラスから子ども時代を奪い、カラスのトラウマになりました。
不仲だった両親は別れることになり、母親は二人の娘の才能をのばすために
故郷のギリシャに帰ることになりました。
 
 恩師エルビラ・デ・イダルゴ
マリア・カラスが人生の揺籃期をすごしたのがニューヨークならば、ギリシャのアテネは
青春を過ごした土地でした。カラスはこの地で生涯の恩師に出会いました。
スペイン出身の世界的に有名なコロラトゥーラ・ソプラノ歌手、エルビラ・デ・イダルゴが
その人でした。後年カラスは一生の師であると繰り返し語ることになるイダルゴは教師
であるとともに母親代わりにもなりました。イダルゴのもとで学んだベルカント唱法や
幅広いレパートリーはその後のカラスの大成のもとになりました。ギリシャ時代にすでに
才能を認められていましたが、より活躍の場を求めて父のいるアメリカに渡りました。
 
 イタリアに渡る船上で
師のイダルゴは、世界に認められる歌手になるためにはイタリアに行かなければ
ならないと繰り返し諭していましたが、アメリカに渡ったもののニューヨーク滞在の
2年間はチャンスがなく、ここで出会った若いバス歌手のおかげで、機会ができ
イタリアのヴェローナ歌劇場でのデビューが決まりました。1947年カラス23才の
時でした。アメリカを離れる前に世間知らずのカラスが彼女の仕事をプロモートする
独占エージェントとして、ある弁護士と収入の10%を支払うという向こう見ずな
契約をしてしまいました。
 
 ヴェローナ歌劇場
古代ローマ時代に建てられたヴェローナ歌劇場は25000人が入る野外の円形劇場です。
スポットライトに照らされて音楽と夜と歌とが渾然一体となり、真夏の夜の一大祭典と
なるヴェローナ歌劇場での催し物は、イタリアオペラの全てであると言われています。
 
 歌劇「「ジョコンダ」の楽屋で
そのヴェローナ歌劇場で1947年カラスは歌劇「ジョコンダ」のヒロインとしてデビューを
飾りました。カラスはイタリアに着いてまもなくカラスの人生を左右する3人の男性と
出会いました。一人はやがて夫となるメネギーニ、もう一人は「ジョコンダ」の指揮者で
カラスの歌手生活に大きな影響を与える指揮者トゥリオ・セラフイン、三人目は当時
ナポリのサンカルロ歌劇場の芸術監督であったフランチェスコ・シチリアーニでした。
 
 「マクベス」
イタリアオペラの著名な指揮者セラフインは、イタリアにおいて初めて
カラスの才能を認めた人物でした。シチリアーニはセラフインの求めにに
応じてカラスの次回作、「ノルマ」の実現に努力しカラスはこのオペラによって
イタリアでのプリマドンナへの道をスタートさせました。シチリアーニはその後
カラスの最高の当たり役「椿姫」「メデア」や、彼女しか歌えないオペラを
探し出して歌わせた、非常に重要な人物になりました。
 
 カラス夫妻
カラスがヴェローナの実業家メネギーニと結婚したのは1949年カラス26才の
ときでした。カラスの倍の年齢の白髪のメネギーニは百万長者でヴェローナの
名士でした。イタリアに着いてまもなく知り合い、二人が年齢の差を越えて
結婚したのはお互いに愛情を感じたからでした。私生活の充実によって
カラスのキャリアは順調に華々しくスタートしました。
 
 「椿姫」 
カラスは「アイーダ」「トーランドット」「トリスタンとイゾルデ」「清教徒」
「ナブッコ」と声に負担のかかる無謀とも言える役を若さにまかせて
歌っていきました。その中で1948年歌った「ノルマ」はカラスの生涯において
画期的な事件の一つでした。それから1965年まで18年間に88回
演じました。1948年から1949年にかけてカラスの天才は花開いていき、
やがてイタリアオペラの殿堂スカラ座から声がかかるようになりました。
 
 ソプラノ歌手レナータ・テバルデイ
当時のスカラ座のプリマドンナはトスカニーニから「天使の声」と賞賛された
ソプラノ歌手レナータ・テバルデイが第一人者として活躍していました。
そのテバルデイが急病のために「アイーダ」の代役としてカラスは出演しましたが
そのときはあまり話題になることはありませんでした。
カラスがスカラ座で正式にデビューしたのは1951年から52年にかけてシーズン
オープニングのことでした。スカラ座の場合初日というのは最も重要な行事で、
その晩に歌うことは選ばれた歌手にとって非常に名誉なことでした。
 
 正式にデビュー
カラスはヴェルデイ中期のオペラ「シチリア島の夕べの祈り」で
スカラ座に正式にデビューし、この作品はカラスのスカラ座における
黄金期の幕開けとなりました。ヴェルリーニの「ノルマ」モーツアルトの
「後宮よりの逃走」ヴェルデイの「マクベス」「トロバトーレ」、ケルビーノの
「メデア」など次々と歌い、マリア・カラスの芸術家としての重要な部分は、
このスカラ座における10年間に凝縮されています。
カラスの五大役と言われ、カラスが特に熱を入れ得意としたオペラに
ついて紹介したいと思います。

   「ノルマ」      ヴェルリーニ
 
 「ノルマ」
古代ローマ時代のガリア地方(今のフランス)を舞台にドルイド教の
祭祀で尼僧のノルマがローマ占領軍の総督と恋に落ち、二人の間に
二人の子どもがいて掟破りの愛は秘密にされています。その恋人が若い
尼僧を愛するようになったのを知ってノルマははじめ復讐し、二人のこどもを
殺してしまおうと考えますが最後にみずから犠牲になる決心をして生贄の
祭壇に登ろうとします。最後の瞬間、総督も火刑の火に身を投じて、
ノルマと一緒に死にます。
 「ノルマ」
ヴェルリーニの最高傑作「ノルマ」のアリア「清らかな女神」はショパンの
「ノクターン(夜想曲)」の雰囲気に影響を与えたと言われる、透明で
流れるような美しさがあると言われています。
 「ノルマ」
「ノルマ」はカラスの芸歴の上でも重要なオペラで、カラス以前にも
優れたノルマを歌う歌手はいましたが、カラスによってノルマは決定的な
人物像にしあげられていきました。カラスは「ノルマの役を歌えなくなったら
歌手をやめるでしょう。」と言っていました。

    「椿姫」      ヴェルデイ
 
ヴィスコンティ(右から2番目)とバースタイン(右端)
カラスは芸歴の絶頂期に二人の偉大な演出家にめぐりあい、オペラ史に
残る二つの舞台を残しています。一つは彼女の最大傑作となったヴィスコンティ
演出の「椿姫」、もう一つはゼッフィレッリの演出した「トスカ」です。
 
 「椿姫」
ルキノ・ヴィスコンティは映画、演劇の優れた演出家として知られ、カラスの歌唱力を
早くから認めていました。カラスとヴィスコンティの出会いは、まさに運命のなせる脅威の
業であり、その後のカラス伝説の創造に大きな役割を果たしたと言われています。
カラスは役づくりの必要性からダイエットに励み、1953年から1954年にかけて体重を30K
も減らし、スリムになるとともにオペラのヒロインにふさわしい美人になりましたが、そのかげに
ヴィスコンティの助言があったと言われています。
 
 「椿姫」
この二人の出会いはスカラ座の歴史上記念碑的なオペラをいくつか
創りましたが、中でも1950年のヴェルデイの「椿姫」はヴィスコンティの演出のもと
ヴィオレッタ役をカラスは全身全霊で演じ、スカラ座の歴史上伝説的な舞台になりました。
それはヴィスコンティの優れた演出とともにカラスの血のにじむような努力の成果でした。
「ベルカントとは歌い方です。それは訓練であり歌う方法、歌へのアプローチであり何年も
声をコントロールして目標に近づくことです」と述べています。
 
 「椿姫」
カラスとヴィスコンティの創造した「椿姫」のあとでは、この演目はしばらくは上演されず、
時を経て久しぶりに挑戦した実力のあるソプラノ歌手の舞台も失敗に終わり
次の「椿姫」が上演されるまでにはまた長い時間がかかりました。
ヴィスコンティとは「アンナ・ボレーナ」「ラ・ヴェスターレ」「夢遊病の女」などの
オペラを共同で創り上げいづれもカラスの代表作となりました。「夢遊病の女」は、
指揮はレオナード・バーンスタインという豪華な顔ぶれでした。

       「トスカ」      プッチニー
 
 「トスカ」
19世紀はじめ革命派と王党派が対立し合うころのローマを舞台に
革命派の画家カヴァラドッシは脱獄してきた同志アンジェロッティを
かくまいます。王党派の警視総監スカルピアは画家カヴァラドッシの
恋人で美貌の歌手トスカの嫉妬を利用して脱獄犯を捕らえようと
しますが、アンジェロッティを見つけられません。代わりにカヴァラドッシを
捕らえて拷問にかけ、それをトスカに見せることで,彼女から脱獄犯の
居場所を聞き出します。
 
 「トスカ」
カヴァラドッシは死刑に決まり、悲しむ彼女に、スカルピアは恋人の助命を
引き換えに彼女の肉体を求めます。トスカはそれに従おうとしますが
卓上のナイフを見てスカルピアを刺殺します。スカルピア殺害後
カヴァラドッシは銃殺刑になり、トスカも城壁から身を投げて死にます。
 
 「トスカ」
演出家のフランコ・ゼッフィレッリは「トスカ」をはじめ「椿姫」などで
優れた舞台を創りカラスの名を高めました。この「トスカ」の第二幕は
映像として残されており、私もこの映画を見てカラスの名演技に圧倒
されました。
 
 アリア「歌に生き 愛に生き」を歌うカラス
ゼッフィレッリとの関係はカラスの死まで続き、昨年の映画「永遠のマリア・カラス」
を創ったのは彼でした。カラスは歌唱力とともにその演技力について、メトロポリタン
歌劇場の辣腕支配人は「舞台で歌わない時のカラスの凄さ」を賞賛しています。
事前の周到な準備と舞台への集中度は余人の追従を許さないものがありました。
カラスにとっては舞台が全てでした。

  「ランメルモーアのルチア」  ドニゼッティ
 
 「ルチア」  狂乱の場   
演出、指揮ヘルベルト・カラヤンによる歌劇「ルチア」はカラヤンの優れた演出
とともにカラスの表現力によって、長年軽視されていたこのオペラの最高の
舞台になりました。
 
 「ルチア」 カラヤンと
「ルチア」はカラス以前においても他の歌手によって度々上演されていましたが
ヒロイン「ルチア」を人間的な悲劇として表現しえたのはカラスの歌唱力と
演技力だったと言われています。
 

    「メデア」   ケルビーノ 
 
 「メデア」
ギリシャ悲劇に題材をとったケルビーニの歌劇「メデア」は作品の持つ弱点のために
長い間上演する機会がありませんでした。カラスは意欲的にこの作品に取り組み
このオペラが再評価されるうえに大きな役割を果たしました。まさにカラスによって
復活されたのです。
 
 「メデア」
カラスは後年映画で「メデア」を演じました。カラスは五大役をはじめ数々のオペラを
スカラ座、メトロポリタン歌劇場など世界の名だたる歌劇場で演じ、頂点を極めて
行きました。芸歴の成果とともにカラスを熱烈に支持する者と反発、批判する者も
増えていきました。スカラ座のプリマドンナだったレナータ・テバルデイとの対立と
テバルデイのスカラ座からの退陣はカラスが批判されましたが、事実は双方の
フアン同士の対立をマスコミが煽った結果であり後年二人は和解しています。
 
 トスカニーニとの打ち合わせ(マクベス)
カラスは若いときから血圧の問題や喉を酷使するために喉や鼻のトラブルなどがあり
いつも体調は万全と言えず、過酷なスケルージュにキャンセルも多く、早くから
キャンセル魔と言われ、最善の舞台にするためのカラスの良心が裏目にでていました。
オペラのためには全てを犠牲にしたカラスは性格の強さもあって、絶えず人間関係で
トラブルが多く、舞台での成果のかげにはカラスを熱烈に支持する層と反カラス派との
対立が激しくなってマスコミの格好の話題になりました。そしてカラスに対する敵意が
徐々につくられていきました。
 
 カラス不意をつかれる
カラスが若いころ不用意に契約したエージェントの弁護士が
実績もないのに請求書だけを送り続けていました。
カラスが取り合わないので業を煮やした弁護士が代理人を
舞台が終わったばかりで疲労困憊のカラスのもとに送りつけ
彼女の懐にその書類をねじこみました。激怒したカラスを
待ち受けたカメラマンが決定的瞬間を撮り、世界に配信
しました。この写真がやがて一人歩きをしてカラスを「牝虎」
呼ばわりするときの証拠写真となりました。
 
 大スキャンダル
カラスが舞台に全身全霊をあげて取り組んでいたため声を酷使
した結果、1950年代の終わりには声に衰えが始まっていました。
1958年ローマ歌劇場での「ノルマ」公演はイタリア大統領はじめ
とする政治家や有名人などが出席する華やかな雰囲気の中で
始まりました。第一幕を歌うと声の具合が悪いのでキャンセルしたい
との申し出に代役を用意していなかった劇場側の必死の説得も
カラスは応じず結局この夜の公演は中止になりました。
このニュースはまたたくまに世界中に広まり大スキャンダルになりました。
 第一幕中止後の無台裏
イタリア政府はスカラ座に今後カラスをつかわないように要請し
スカラ座ももうカラスを呼ぼうとはせず、カラスは一晩にして歌劇場
から閉めだされてしまいました。この日がカラスのキャリアの分岐点に
なったばかりでなく、声にも翳りが見え始めました。
 
 オナシス
その頃、ハリウッドのゴシップコラムニストの手引きで社交界に出るようになって
ギリシャの海運王オナシスと出会い、オナシスの豪華ヨットでの
地中海クルージングに夫ともに参加しました。
 
 ヨット上で
ヨットにはウイストン・チャーチルをはじめグレタ・ガルボ、モナコの大公夫妻など
有名人が乗り合わせ、カラスにとっては夢のような世界でした。
 
 オナシスと
二人は恋に落ちやがてカラスは夫とも離婚しました。
 
 エリザベス・テイラーと
オナシスにとってはカラスのような有名なプリマドンナを
恋人にしたことが重要でカラスの音楽には関心を
示しませんでした。
 
 モナコ公妃 グレイス・ケリー
カラスはオナシスと社交界の世界を楽しみ、二人の関係は
9年間続きましたが結婚には至らずオナシスは1968年
ジャクリーヌ・ケネデイとの結婚に踏み切り二人の関係は終わりました。
カラスはこの間時々オペラに出演していましたが、1965年7月ロンドンでの
「トスカ」が最後の舞台になりました。カラスが歌よりもオナシスのような男を
何故選んだのか謎になっています。
 
 四面楚歌のカラス
引退後、カラスはパリの高級住宅街にあるアパルトマンに使用人と
ひっそり暮らし1977年53才の生涯をおえました。
 
 カラスー伝説の肖像
カラスの声はいわゆる美声ではありませんでしたが、声質はメゾソプラノに
近く暗い色あいがありその声をみごとにねりあげ、高音域にわたり魅力ある
声にしあげていきました。その声を駆使して演技力とともにオペラのヒロインの
性格描写や心理表現で観客を魅了しました。
カラスによって埋もれていたオペラが蘇らせられ、マンネリ化していた作品に
命が吹き込まされました。彼女の、生身の人間ドラマとして聞く者の心に
せまる表現力は、録音された音楽を通してカラス没後も多くの人に伝わり、
新たなファンを獲得していっているのではないかと思います。
カラスの生涯はみにくいあひるの子が白鳥となり、歌に生き愛に生きたと
言えるのではないでしょうか。
私の愛してやまないマリア・カラスの歌を一度お聴きになってみられませんか。
 
 
参考資料
 
       マリア・カラス         ピエール・ジャン・レミ   みすず書房
       マリア・カラス舞台写真集                アルファベータ社
       マリア・カラス伝説の肖像                アルファベータ社
       マリア・カラス                       共同通信社
       音楽の友(1977年追悼号)                音楽の友社

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