芸術的植物画の普及に努めたと言われています。
植物画の質的向上に大きな役割を果たしたルドウテも
植物学者との協同があってこそのその成果でした。
ウオルター・フイッチ
19世紀になりますと18世紀半ばに創立されたイギリスの
王立植物園を母体にイギリスで植物画が盛んになり
18世紀末に創刊された「カーティス・ボタニカルマガジン」が
異国の珍しい美しい植物の解説と彩色画を載せて人気を
集めました。
ウオルター・フイッチ
「ボタニカルマガジン」を舞台に優れた植物画家が登場しました。
上記の2枚は生涯に1万点描いたと言われるウオルター・フイッチ
の作品で、このレポート冒頭の7枚の写真は「ボタニカルマガジン」
から抜粋したものです。19世紀になりますと女性の植物画家も
数多く登場してきました。
マーガレット・ミー
20世紀にはいりますとイギリスのマーガレット・ミーのような32年間に
15回もアマゾンに出かけ、壮大な熱帯雨林の素顔を描いた女性の
植物画家も出てきました。
マーガレット・ミー
マーガレット・ミー
原住民との友情、探し求めていた花との感動的な出会い、
そして大きく変わりゆくアマゾンの真の姿を伝えるその絵は
欧米で大反響を得たそうです。
「フローラルヤポニカ」(日本植物誌)より
ヨーロッパでボタニカルアートが盛んになっているのに比較して
日本はどうだったのでしょうか。わが国では古くから花鳥画の
伝統があり、植物を主題にした絵が数多く描かれてきました。
「フローラルヤポニカ」(日本植物誌)より ツバキ
これらは日本画的手法によるもので植物学的正確に
欠けるものがほとんどでした。日本で今日的な意味での植物画が
描かれるようになったのは江戸時代に入ってからでした。
「フローラルヤポニカ」(日本植物誌)キブネギク
江戸時代になりますとヨーロッパの近代植物学が導入されて
日本の植物学(本草学)も進歩し、同時に遠近法や陰影法など
ヨーロッパの絵画技術も取り入れられて植物画も写実的に描かれ
始めました。
「フローラルヤポニカ」(日本植物誌) クロマツ
日本に近代西洋医学を伝え、日本の近代化やヨーロッパでの日本文化
の紹介に貢献したシーボルトの来日の任務の一つが日本の植物を
ヨーロッパに移入し、その庭園を豊かなものとし、また林業の活性を図ろうと
いうことでした。シーボルトは日本の植物について来日以降ずっと大きな
関心を抱き続けていました。
「フローラルヤポニカ」(日本植物誌) アジサイ
その目的のため長崎絵師の川原慶賀(かわはらけいが)を見出し、
慶賀はシーボルトの要求に答えて植物の素描画を千点近く描いて
います。シーボルトの日本の植物への終生変ることなく続いた
深い関心の成果が「フローラルヤポニカ」(日本植物誌)に結実しました。
五百城文哉(いおきぶんさい) シラネアオイ
明治時代に入りますと植物の研究は、本草学から植物学へ
名が変わりいよいよ盛んになり、植物画も多く描かれるように
なりました。その中で五百城文哉(いおきぶんさい)の業績は
日本における近代植物画の歴史上、忘れることのできない
重要な画家と言われています。
五百城文哉(いおきぶんさい) コマクサ
日光に移り住んだ文哉が関心を持ったのは高山植物でした。
高山植物を栽培研究するとともに絵に描き、「日本高山植物
写生図」という素晴しい画帳を残しています。植物分類学の鬼才
と言われた牧野富太郎との交流もあり刺激を受けたようです。
五百城文哉(いおきぶんさい) チョウノスケソウ
ヨーロッパと日本の植物画の歴史を比べてみますと、その起こり
から今日にいたるまで、その経過を見ていきますと日本での
普及発達が遅れている感があるのはやむをえないことかもしれません。
五百城文哉(いおきぶんさい) カタクリ
1970年日本ボタニカルアート協会が設立され、その翌年から
印刷物でない生の植物画の展覧会「日本ボタニカルアート展」が
毎年開催されています。この展覧会によって数多くの植物画愛好家が
生まれて植物画ボタニカルアートという新しい絵画分野がわが国にも
定着しつつあるようです。
ボタニカルアートを描くための道具
植物画を描くには正確さが大事なためルーペやコンパス、定規が
必要になってきます。他の創造活動にも言えることですが根気と
集中力の上に芸術としてのボタニカルアートという独特の世界が
出現しました。
参考文献
植物学と植物画 大場秀章 八坂書房
日本植物誌
シーボルト「フローラ・ヤポニカ」 八坂書房
五百城文哉の植物画 水戸市立博物館
植物画講座 佐藤博喜 日本園芸協会