6/1 2006掲載
オーストリアのエリザベート Part-2
K.mitiko
オーストリアの領土の変遷
ハプスプルグ家の家訓「戦いは他のものにさせるが良い。汝幸いある
オーストリアよ、結婚せよ。」の結婚政策によって領土を拡大
してきたオーストリアは19世紀なかばには12をこえる民族が住んで
いました。1848年ヨーロッパに革命の嵐が吹き荒れた時、ハンガリーは
支配者であるオーストリアから抜け出して、独立国家になろうと戦って
敗れ、ハンガリーでは指導者が処刑され厳しい弾圧が続いていました。
フランツ・ヨーゼフが18歳で即位したのはこの混乱のさなかでした。
当時ゾフイ大公妃をはじめオーストリアの宮廷は、ハンガリーに対して
厳しい弾圧政策を主張していました。
ハンガリーの民族衣装のエリザベート
お妃教育で学んだことでエリザベートはハンガリーに対して親近感を
もっていました。馬が群れをなして走る大草原や、情熱的な国民性
などが気に入り、エリザベートが皇帝とブダペストに行くときは
いつもハンガリーの民族衣装を身につけ、ハンガリー語で土地の人に
語りかけました。広大なハンガリーの領土と資源がオーストリアから
失われていったら、帝国の崩壊は目に見えていました。エリザベートは
まわりをハンガリー人の女官でかため、あらゆるつてを通してハンガリーの
要人と接点を持つことによってハンガリーへの理解を深めていきました。
若き皇后エリザベート(1860年頃)
エリザベートは夫の皇帝にたして陰に陽にハンガリーへの理解を
求めていました。1866年オーストリアがビスマルク率いるプロイセン軍に
大敗した結果、ハンガリーに再び独立の気運が急速に強まりました。
ハンガリーの要求は、新憲法の制定とオーストリア皇帝がハンガリー
国王に就任することでした。エリザベートの切なる要望に皇帝も抗しきれず、
すこしづつ譲歩していきました。
戴冠式 ハンガリー風の衣装(1868年)
彼女の舞台裏での采配の結果、ハンガリーの代表団と皇帝の会見が
実現しましたが、皇帝はいざとなるとハンガリーに譲歩しないため、
エリザベートは1世紀以上前、四面楚歌に陥ったマリア・テレジア
(オーストリア初めての女帝)が幼児だった後のヨーゼフ二世を
胸に抱いてハンガリーに救援を求めた時のように、子どもたちとともに
ブダペストに長期滞在してウイーンに戻らないことで、たびたび皇帝に
譲歩を促しました。最終的に皇帝が折れ、1867年オーストリア帝国は
ハンガリーに主権を認めました。
戴冠式 (1867年6月)
国王は一人ですが、首都はウイーンとブダペスト、内閣は二つ、議会も
二つ、ただ大蔵省、外務省、軍務省は共通で、双生児のような
オーストリア・ハンガリー二重帝国という国家になりました。
エリザベートの努力のおかげでオーストリア帝国はハンガリーの離反を
くいとめることができたのでした。1867年6月ブダペストで盛大な
戴冠式が行われました。
戴冠式の晴れ姿
オーストリア・ハンガリー二重帝国誕生のかげには、難易度の高い
ハンガリー語の習得や政治には無関心だったエリザベートの情報収集
能力や状況判断という面での能力が、皇后とハンガリーとの信頼関係を
つくり、協力体制につながりました。ハンガリー独立への第一歩となった
この成果へのハンガリー人の感謝の思いは、ブダペストにいまもなお残って、
エリザベートの名を冠した大きなエリザベート橋がブダとペストを結ぶ
交通の要としてドナウ河にかかっています。
銀婚式の肖像画(1879年)
エリザベートには女3人、男1人の4人の子どもがいましたが、
自分の手で育てられたのは末娘だけでした。唯一の息子皇太子
ルドルフは母の血をひいて知的能力が高く、ドイツ語は勿論
チェコ語、ハンガリー語、フランス語ができ、多くの分野に
関心を示し、知的には活発で、すぐれた能力を持っていました。
成人した皇太子のリベラルな考え方は、保守的な父皇帝と亀裂を
生じ、ついには深刻な親子の対立をうむことになりました。
皇帝と皇太子の骨肉の争いで、皇太子ルドルフは次第に追い詰め
られ、父親から後継者にふさわしくないと相手にされなくなって
いました。
皇太子ルドルフ(1875年)
しかもベルギーから迎えた皇太子妃との間もうまくいかず、
悩みはつきませんでした。そういう状況のなか皇太子ルドルフは
1989年1月、17歳の男爵令嬢と雪深いウイーンの森の狩猟小屋
マイヤーリンクでピストル自殺をとげました。この事件は
ヨーロッパを驚かす大事件で、帝国のただ一人の後継者がいなく
なったことを意味し、ハプスプルグ帝国の弔鐘ともなりました。
喪服のエリザベート
皇太子ルドルフが自殺してからエリザベートの悲嘆はあまりにも
深く、人前を避け、喪服に手袋、帽子とすべて黒ずくめの衣装は
彼女の深い悲しみと絶望を物語っていました。以後喪服は彼女の
トレードマークになり、このころからエリザベートの周囲では
姉弟のように仲の良かったバイエルンのルードウイッヒ二世の溺死、
妹ゾフィの焼死、メキシコ皇帝となった義弟マキシミリアンの銃殺刑と
異様な死の影が漂いはじめ、漂泊の旅に拍車がかかっていきました。
暗殺の直前左がエリザベート
1898年9月10日、旅の途中、スイスのジュネーブ、レマン湖畔で
気分転換に遊覧船に乗ろうと散策中、イタリア人のテロリストの
凶刃に一突きされて倒れ、オーストリー皇后、ハンガリー王妃は、
手当ての甲斐もなく、滞在先のホテルでまもなく息を引き取りました。
61歳でした。すでに生きることに疲れ切っていたエリザベートにとって、
たとえ暗殺者の手によって迎えた最後であっても、死こそはようやく
手にいれた安息であったのかもしれません。
有名な肖像画(1865年)
オーストリー皇后としての公務を放棄して流浪の旅に明け暮れた
エリザベートでしたが、1866年オーストリーがプロイセン軍に
大敗北したときは、失意の皇帝のそばで慰め励まし、負傷兵の
手術には付き添って励ましたり、1874年ミュヘンではコレラ患者
見舞うなどの行為は、禁断の詩人ハイネに傾倒したエリザベートの
人道主義的な側面の表れでした。あれほど憎んだ大公妃に対しても、
死の床につきそい、最後の瞬間まで食事もとらず看病しました。
エリザベートには誰よりも未来を見通す力があり、現代に先駆けて
エリザベートなりに人道主義を実践したのではないでしょうか。
エピローグ
ルドルフ皇太子亡き後、新たに皇位継承者になったフランツ=
フェルディナント大公の1914年サラエボでの暗殺によって
第一次世界大戦が始まり、1916年皇帝フランツ・ヨゼフの死後
まもなく1918年オーストリア帝国は滅亡しました
参考資料
皇妃エリザベート 南川三冶郎 河出書房新社
皇妃エリザベート展図録 毎日放送
エリザベート展図録 東京会場分
皇妃エリザベート カトリーヌ・クレマン 創元社
麗しの皇妃エリザベート ジャン・デ・カール 中央公論社
TopPage