3/6 2006掲載

シャネル その生き方 Part1 ・・・・・K.mitiko

シャネルと言えば、シャネルスーツ、シャネルバッグ、
シャネルの5番(香水)と現在も多くの女性の憧れの
ブランドですが、20世紀のファッションに多大な影響を
与えたシャネルの生きた軌跡を探って見たいと思います。

(シャネルの生まれたソーミュールの街とロワール河)

ガブリエル・シャネルは1883年、行商人の父と病弱な母の間に
3男3女の1人として生まれ、母は相次ぐ妊娠や生活苦のため33歳で
亡くなってしまいます。母の死によって、子どもたちは一家離散の
道をたどることになり、シャネルが12歳の時修道院が経営する
孤児院に預けられました。シャネルはこの孤児院で12歳から
18歳まで足かけ7年を過ごし、人格が形成れる大切な思春期の
7年間をカトリックのシスターによって育てられました。

 (シャネルが過ごした修道院)
孤児院での生活は朝は5時起床、冬は6時。冬の気温は零度以下になり
修道院にはお湯がないため、冬も教会の周囲を流れる運河で顔を洗い、
就寝前には冷たい運河の水で体を清潔に洗いあげるという生活を
送っていました。 シスターのしつけは厳しく、怠けたり、ブラブラ
している時間はまったくといっていいほどありませんでしたが、
食事は質素であってもバランスのとれた献立で、量もたっぷりと
与えられてひもじい思いをすることはありませんでした。

(修道院の中庭)
この修道院のシスターたちの指導で手先の器用だったシャネルは、
繊細なフランス刺繍や手芸、繕いものなどの初歩をみっちりと
仕込まれ、のちにシャネルが死ぬまで得意とした手仕事の分野は、
修道院のシスターたちの厳しい教育によるものでした。
自立できるだけの技術と清潔で勤勉なライフスタイル、怠け者には
絶対になれないシスターのしつけこそ、シャネルの自立の原点であり、
13世紀のたたずまいをそのまま残している世俗の垢にまみれていない
修道院の環境は、シャネルの美意識の原風景になりました。しかし
シャネル自身はこの時代のことを決して語ろうとはしませんでした。

(バルサンの邸宅)

18歳になったシャネルは孤児院を出て自立の第一歩を踏み出しました。
昼はお針子、夜はミュージックホールで歌って生計をたてていましたが、
そのときの唄の題から「ココ」の愛称が名づけられました。20歳のとき
運命の転機が訪れ、そこで出会った資産家のバルサンから求愛され、
上流階級出身の彼の申し入れでムーランの田舎からパリ郊外の大邸宅に
移り住みました。バルサンの生き甲斐は「馬」(競走馬の飼育)、次に
「女」でした。20歳のシャネルは陽気で親切なバルサンのもとで贅沢
ざんまい、生活の心配のない愛人生活をはじめました。
 (シャネルと恋人のアーサー・カペル)
10代を修道院で祈りと労働で明け暮れたシャネルは、やがて何不自由の
ない愛人生活に疑問を抱くようになり、「自立して働くこと」を夢に
まで見るようになりました。その頃出会ったバルサンの友人のイギリス人
アーサー・カペルと恋に落ち、バルサンやカペルの財政的援助で1910年
27歳のときパリのカンポン通りに店を持ちました。この場所はシャネルが
亡くなるまでこだわり続けた場所でした。カペルはシャネルが最も愛した
男性でした。
(羽飾りの帽子)
シャネルがカンポン通りに店を開く前にまず手がけたのは帽子でした。
20世紀初頭に流行した帽子は羽飾りや花やフルーツで高く盛り上げて
自由に頭を動かすのもままならないような代物でした。
 (20世紀初頭のドレス)
当時のファッションは、ハイネックと結い上げた髪で
演出された白鳥のような長い首から足元にいたるまで、
豊かなバストと細く締められたウエストで女性のボデイは
曲線に強調され、ロングスカートはフリンジ(房飾り)、フリル、
レースで飾られ、ペチコートなどで幾重にも重ねられていました。
頭部は重力に挑むかのように形作られて、介添えなしでは行動も
ままならない状態でした。
(帽子を売るシャネルのイラスト)
シャネルは羽飾りや花飾りでずっしりと重く、高さも幅も
巨大な帽子(女性がヒップを小さく見せようとすれば幅は
ますます大きくなりました)の代わりに、もっと小さく
花や羽毛をわずかにあしらった単純な帽子を作りました。
余分なものをそぎ落とした若々しいデザインは魅力的で、まず
女優や歌手たちがかぶり始め、多くの女性たちの心をとらえいき、
それは帽子だけにとどまらず女性の全身の外形を変えていくことに
つながりました。シャネルはバルサンの影響で乗馬を身につけ、
競馬場に出入りするうちに裕福なスポーツマンとファッショナブルな
ドレスから多くのものを学びました。
 (シャネルのエレガントなスタイルのイラスト)
1913年カペルの援助で国際的リゾート地ドーヴィルに2号店を
出す頃にはシャネルは帽子デザイナーとして有名になっており、
彼女がデザインした帽子やアクセサリーは、贅沢な避暑地で
飛ぶように売れました。
ミディ丈のブラウス、すそ広がりのセーター、丸首のセーター、
シルクのブラウス、麻のスーツ、スポーティブな軽い靴などの
新製品は上流社会の女性たちに評判になり、こぞってシャネルの
リゾートウエアを着用しました。ある日ドーヴィルでのあまりの寒さに、
シャネルはカペルのセーターを借りて手を入れて着たのがジャージーを
素材に取り上げるきっかけになり、このことは女性からコルセットを
取り去り、女性の体を解放し新しいシルエットを生みだすきっかけに
なりました。
(アーガイルセーターの男性(右))
カペルのアーガイルセーター(複数形のひし形模様)から
ヒントを得て作られたドレスはたちまち売れ、シャネルの
装飾を一切とり払ったドレスに出会って女性たちは
自由に動けるようになりました。1914年第一次世界大戦が始まり、
戦争という時代の変化、需要の変化にもシャネルは独特の美的
センスでお客のニーズに応え、彼女の実用性とエレガンスの
両面を持つデザインで人気の頂点にたちました。
 (シンプルなシャネルのジャージー・スタイル(1916))
シャネルの服はデザインだけでなく素材も革新的でした。
ジャージーは当時スポーツ着や労働着として男性の衣類だけに
使われていましたが、シャネルは伸縮性のあるこの生地で
ゆったりとした活動的なデザインの女物の服をつくりました。
1916年にシャネルが提案したシンプルなジャージー・スタイルと
短いスカート。女性服はこれ以後機能的な服へと向かいます。
シャネルがジャージーにひかれた背景には質素な修道院時代の
影響があったと言われています。
(サファリジャケット)
第一次世界大戦中に仕事をした女性にとって、シャネルの
サファリジャケットのスーツは実用的で愛用されました。
動きやすさ優先のデザインは時代の要請にあい、シャネルの
ファッションの需要は高まり、スペイン国境のピアリッツに
カペルの援助で本格的なブティックを出しました。
第一次世界大戦という非常事態を、逆にプラスに変えて
しまった非凡なデザイナーのシャネル。数年のうちにカペル
からの借金を返してしまいました。
(ヴォーグ誌に載ったドレス)
シャネルはアーサー・カペルという恋人兼後援者と出会ったことで
初めて自分自身、大人の女性として開眼することができました。
カペルはシャネルの能力を導き、自信を与えてくれ、常に自分が
女であることを自覚させてくれました。ビジネスの基礎を教え
財務の基本を教えてくれたカペルが1919年、自動車事故で亡くなった
時、シャネルは悲嘆のどん底に突き落とされてしまいました。
カペルほど愛した男性はその後現れませんでした。
シャネルはやがてさまざまなロマンスを経験することになりますが、
情熱よりもはるかに大切なことは「温もり、優しさ、愛情、理解」
であることを彼女に教えたのはカペルだけでした。
 (ルノアールが描いたミシアセール)
悲嘆にくれるシャネルを気晴らしにイタリア旅行に
誘ったのは、シャネルが心を許したたった一人の女友達
ミシアセールでした。ミシアセールはポーランド生まれの
ピアニストで、リスト、グリーグ、ドビュッシー、ラベル
などと共演したこともあり、夫は富豪で新聞界の大立者でした。
当時パリ社交界の花形だったミシアは小説家や画家とも広く
交際し、ロートレックやルノワールなどにモデルを依頼される
ほど美しく、芸術の各方面に多大な影響をおよぼした女性
でした。
 (若き日のシャネル)
ある女優の晩餐会でシャネルに出会ったミシアは二人の間に
共通するものを感じて以後姉のような存在として、その友情は
ミシアの死まで続くことになりました。女性が物質面でも
愛情面でも男性に寄り掛かることしか知らなかった時代に
シャネルは常に自力で勝ち取ってきた職業上の成功と自由が
ありました。計数にたけた実業家としての才能と、デザイナーの
感性を持った彼女にミシアはひきつけられたのではと言われて
います。イタリア旅行ではミシアはシャネルを積極的に美術館や
レストランに連れて行き、芸術や生活芸術について教育し続け
ました。
 (セルゲイ・ディアギレフ)         
ベルエポックの華ミシアセールは新しい才能を発見し
それを世に送り出すことにこの上ない喜びを感じて
いましたが、親しい友人の中にセルゲイ・ディアギレフが
いました。ロシアバレエ(バレエリュス)をフランスに
紹介した興行師で、ロシアバレエ団の活動は当時の文化
芸術分野におおきな影響を及ぼしました。ミシアは
ロシアバレエ団とディアギレフを後援していましたが
ミシアのひきあわせでそれはやがてシャネルに引き継がれて
行きました。パリに戻ったミシアは自分の取り巻きグループに
シャネルに紹介しました。
(イーゴリ・ストラヴィンスキー)
 (パブロ・ピカソ)      
このグループには劇作家のジャン・コクトー、画家のパブロ・ピカソ
作曲家のイーゴリ・ストラヴィンスキーなどが集い、又ミシアに連れて
行かれたナイトスポットはコクトーやディアギレフのほかに
作曲家のエリック・サティやダリウス・ミヨー、ダンサーの
セルジュ・リフアールにニジンスキー、当時のプリンス・オブ・ウエールス
(後のイギリスの国王エドワード8世・・退位してウインザー公)などが集い、
そこでの出会いはシャネルには大きな刺激になりました。シャネルはピカソに
惹かれたようですが、そのころ「火の鳥」や「ペトルーシュカ」「春の祭典」の
作曲者として名を知られていたストラヴィンスキーに口説かれて、しばらく
同棲していましたが、やがてシャネルの関心は別の男性に移っていきました。
 (ディミートリー大公)
次の恋人、ロシアのディミートリー大公はロシア最後の皇帝
ニコライ二世の従兄弟で、怪僧ラスプーチンを暗殺した3人の
うちの1人として知られ、ラスプーチンの暗殺で皇帝の怒りを
買いフランスに亡命していました。ディミートリー大公が与えた
ロシアの影響はやがてシャネルの作品にも新しい可能性を
与えることになりました。
 (ディミートリー大公から贈られた豪華な真珠のネックレス)
ロシア革命の影響で亡命した貴族たちは、ディミートリー大公の
縁でシャネルのもとで教養の一部として身につけていた刺繍や
ビーズ飾りを作るようになり、それを取り入れたロシアルックは
大ヒットしました。ディミートリー大公との恋は感性の違いも
あって長くは続きませんでしたが、ディミートリー大公の恋の
副産物として有名な香水「シャネルの5番」が発表され、
世界中の女性の熱狂的な支持を得ました。
(ウエストミンスター公爵)
1924年モンテカルロで出会ったウエストミンスター公爵は
当時のイギリス国王ジョージ5世の従兄弟に当たり、想像を
絶するイギリスきってのというよりはヨーロッパ一の大富豪でした。
 (公爵の館イートン・ホール)
公爵の館はシエクスピアの生まれた土地にたつゴシック調の
宮殿で敷地すべてを見て回るのに車で15分要しました。
プリンス・オブ・ウエールスやウイストン・チャーチルは親しい
友人でした。2度の離婚歴のある公爵にとってシャネルは理想の
女性でした。
 (公爵から贈られた優美なネックレス)
そのころのシャネルはウイットに富む会話やセクシーさで自信に
あふれ、常に自分への関心を引き付けておく賢さを備えていました。
しかし仕事に多くの時間とエネルギーを注ぎ込み、ビジネス帝国を
築きあげていたシャネルは公爵の求愛に簡単に応ずるわけには
いきませんでした。公爵の贈り物攻勢にもかかわらず、
誇り高いシャネルは公爵の多勢の愛人の1人と見られるのを
嫌って、彼を拒み続けました。
 (男性用のセーターにヒントを得たカーディガン)
しびれを切らした公爵は大きな花束を持って友人の
プリンス・オブ・ウエールスとパリのシャネルの家を
訪ね、その熱心な求愛にしシャネルも受け入れるように
なりました。それから2人は常に行動をともにし、やがて
シャネルはイギリス滞在中は広大な公爵の邸の女主人として
周囲からも受け入れられるようになり、ウイストン・チャーチルも
シャネルに好意を持った1人でした。公爵の富は並外れていて
シャネルに贈り物をすることを楽しみ、ネックレスやイヤリング、
指輪、ブレスレットでシャネルの腕も首も耳も宝石だらけに
なってしまいました。
 (ストロー・クロシュ(釣鐘形麦わら帽))
ウエストミンスター公爵との6年に渡る交際はシャネルに
数多くの宝石を残し、そのファッションに大きな影響を
与えました。イギリス人の実業家だったアーサーカペルとの
恋の影響から生まれたシャネルのイギリス風スタイルは
公爵との関係で紳士服のカットを取り入れたジャケットや、
競馬観戦のためのスーツ、スコットランド製のツイードの
導入などすべてウエストミンスター公爵との恋愛の産物で、
恋をビジネスに取りこむシャネルならではの腕の見せ所でした。
ウエストミンスター公爵のヨット(乗組員40人の当時
世界最大級の船)の乗組員の服装からヒントを得た水兵風の
ストライプシャツにカジュアルパンツのデザインは注目を
集めました。
ジャガード織りのニットのスーツはポケットがついた
カーディガンと動きやすいプリーツスカートにストライプ柄の
ジャージーブラウス、白い襟とカフスの組み合わせはシャネルの
代表的なスタイルでした。常に実用主義者だったシャネルは、
ほころびを防ぐために布地で縁を処理しました。
 (公爵の領地で猪狩を楽しむウイストン・チャーチル(右)と)
ウエストミンスター公爵はビジネスの世界で成功した
シャネルが切に求めていた心強さと安らぎを与えてくる
存在で、アーサーカペルに比肩できる唯一の男性でした。
しかし跡継ぎを望み、結婚を考える公爵の立場はどうしても
自由でいたいというシャネルの強い望みと相いれませんでした。
やがて公爵は別の女性と結婚しますが、その後もシャネルの
友人かつ支援者であり続けました。
 (コスチュウム・ジュエリー)
 (イヤリング(左)とブローチ)
公爵からのおびただしい宝石の贈り物を、シャネルはそのまま身に
つけるよりも本物は金庫にしまい込み、その輝きからインスピレーション
を得て模造宝石をデザインしました。ステイタスよりもスタイルを
選んだのです。コスチュウム・ジュエリー(模造宝飾品)は昼間につける
ジュエリーとして愛好されました。
  (袖口につけるカフと胸当て(ビブ))
右は公爵から贈られたルビーとエメラルドの胸当て(ビブ)状の
ネックレスにヒント得て作ったビブ。左はガラスのカラーストーンが
はめ込まれた白と黒のエナメルカフはシャネルを代表するアクセサリー
になりました。コスチュウム・ジュエリー(模造宝飾品)の発想は
実用性を考えたシャネル独自のものでした。公爵との恋は終わり
ましたが、この後も恋多き女性としてさまざまな男性と出会い、
それを仕事に生かしていくシャネルのスタイルは変わることが
ありませんでした。
 (シャネルとセルジュ・リフアール)
自分がデザインした服の最高のモデルだったシャネルは、白い
パンツ、黒いジャージーのセーターにコスチュウム・ジュエリーの
数連の真珠のネックレス、花飾りのついたヘアバンド、趣向を
こらしたカフで装いました。男性はダンサーのセルジュ・リフアール。
やがてアメリカに渡り、ハリウッドで映画の衣装デザインを
てがけましたが、ハリウッドではシャネルの控えめなスタイルは
生かすことができませんでした。1939年第2次世界大戦の直前シャネルは
香水とアクセサリーの部門を残して店をとじました。
 (カムバックスーツ)
(ツイードのシャネルスーツ)
ディミートリー大公、ミシアセール、ウエストミンスター公爵を
相次いで亡くし、シャネルは悲しみと孤独を克服して満を持して
復帰した戦後初めての春物コレクションは「時代遅れ」と不評でした。
カムバック最初のコレクションを支持したのはアメリカの
ジャーナリズムで、その年の「ヴオーグ」3月号は
シャネルのスーツを巻頭トップのグラビアに大きく取り上げました。
清潔感と実用性、これがアメリカのワーキングウーマンに
圧倒的人気で迎え入れられました。この年、シャネルが発表した
シャネルスーツ(ブレードの縁取りがあるウールのスーツ)は
世界的に成功をおさめることができました。
 (シャネルスーツのモナコ公妃グレイス・ケリー)
シャネルの服は永遠性と新しさ、特権意識と大衆性の両方を
満足させるものとして、一般の女性たちにも受け入れられました。
戦前の貴族に代わって新しい顧客となったのは、マリーネ、
デイトリッヒやロミー・シュナイダー、ジャンヌ・モローに
マリヤ・カラス、グレイス・ケリー、ジャクリーヌ・ケネデイ、
カトリーヌ・ドヌーブ等、でモナコ公妃となったグレス・ケリーは
特別に愛用しました。ジャクリーヌ・ケネデイは夫ケネデイ大統領が
暗殺された時、シャネルスーツを着て同乗していたのですが、
そのときの返り血を浴びたピンクのスーツ姿は衝撃的でした。
 (シャネルスーツのロミー・シュナイダー)
1955年、アメリカに招かれ、「過去50年間でもっとも大きな
影響力を与えたファッションデザイナー」として賞を授与されました。
どのファッション誌も年2回のシャネルのショーを大きく報じ、
技術力に裏ずけられた作品を紹介して伝説的存在となったシャネルを
何ページも費やして紹介しました。1971年シャネルは87歳で世を去り
ましたが、前日まで働いていました。
(シャネルスーツを着たモデルたちに囲まれて)
シャネルは男性の権力は遺伝子ではなく経済力によると見ました。
だから同じ力を自分に求め、性的自由は男性にのみ許される特権
ではないと考え、自分も同じ権利を主張しました。また美しさは
内側からにじみでるものであること、体を心地よく包むことは
精神の解放につながること、そしてデザインにとって最高の
インスピレーションの源は機能にあることを知っていた女性
でした。
 
参考文献
 
   CHANEL   ジャネット・ウォラック  文化出版局
  
 シャネルスタイル 渡辺みどり      文春文庫
 
 モードの社会史  能澤慧子       有斐閣選書

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