オリヴィエは、芸術とは何か、本物の演技とはどういうものなのか、惜しみなく
ヴィヴィアンに与えていきました。ヴィヴィアンの熱望した舞台「危機をのがれて」は、
オリビエの協力もあって実現し好評を博しました。一方オリヴィエも同じ時期「リア王」で
制作主演し現代の英国における最高の俳優と絶賛されました。しかしヴィヴィアンの舞台の
成功もオリヴィエの業績とに比肩されるものとはなりませんでした。
「アンナ・カレニナ」
映画でもヴィヴィアンが「アンナ・カレニナ」に出演したころオリヴィエは「ハムレット」に
出演しましたが、結果は明らかでオリビエは高く評価されヴィヴィアンはそうではなかったのです。
舞台でも映画でも二人の間にはこのようなことが何回も起こりました。
「アンナ・カレニナ」
ヴィヴィアンが躁鬱症状の状況の中で映画「アンナ・カレニナ」は完成
しました。構成がしっかりしていて美しく仕上がっていましたが、
ヴィヴィアンに生気が無くて高い評価を受けるにはいたりませんでした。
同じ年、オリヴィエは映画「ハムレット」を完成し、アカデミー賞の
作品賞と主演男優賞を受けました。
「ハムレット」
1947年オリヴィエが映画、演劇の分野での功績でナイトに叙せられるという
発表がありました。以前から王室を崇拝していて、この叙勲のときにナイトと
同等の女性の爵位であるデイムになれなかった内面の葛藤が、ヴィヴィアンの
中にあり、このニュースを聞くと、いつもの狂ったような発作を起こし、
それがいつもより永く続き、やっと発作が収まると、今度は抑鬱症状に
おちいりました。病魔と戦いながら、その優れた演技でアカデミー賞を
はじめ数々の賞に輝くことによって、俳優としてやっとオリビエに近づいた
という思いになっていたヴィヴィアンにとってオリヴィエがナイトの称号を
授けられたことは、彼女がオリビエからさらに引き離されたことを意味しました。
オリヴィエはヴィヴィアンが、もろくこわれやすい、陶器のようにいつか砕けるの
ではないか、とたえず気にしていました。
ローレンス・オリビエ
ヴィヴィアンはスカーレット・オハラと言う映画史上最も有名な
女性を演じて、その職業の頂点をきわめていましたが彼女は
満足していませんでした。今の彼女に重要なことは、オリビエの
領域で彼と競って、彼と同等になることでした。ヴィヴィアンの
類まれな美貌とかんだかい声とがシェクスピア女優として最高の
地位をきわめる障害になっていましたので、彼女を最高の条件で
舞台にだすため、オリビエは彼女に適した役を選ぶのに細心の注意を
払っていました。
「欲望という名の電車」
そのころブロードウェイで絶賛を浴びたテネシー・ウィリアムズ原作の舞台
「欲望という名の電車」の素晴らしさに触発されたヴィヴィアンは、オリビエの
演出による47年のロンドン版の舞台でブランチ役を演じて絶賛され、その映画に
出演することになりました。肺結核と躁鬱病に悩まされながらも、マーロン・ブランドら
アクターズ・スタジオ出身の俳優達と互角に渡り合い、白熱した演技合戦を
披露して1951年、2度目のアカデミー主演女優賞を獲得しました。
「欲望という名の電車」
ヒロインのブランチは年を取って、衰えていく容色を支えるには、過去が
あまりにも孤独で、愛に恵まれなかった悲劇の女であり、身だしなみに心を
やつす生活の最後の機会にすがりついて、必死に戦い、やがて幻想が狂気を
もたらす女性を演じてヴィヴィアンの演技は鬼気せまるものがありました。
「欲望という名の電車」に出演したことは、それまで懸命にオリヴィエについて来た感が
あったヴィヴィアンの、生来虚弱だった彼女の心身には、相当な過酷だったようでした。
監督のエリア・カザンはヴィヴィアンに最初から最後まで、どうしても抑えることのできない
何物かに蝕まれている類まれな美貌の女という印象を感じていました。
「欲望という名の電車」
ヴィヴィアンはあるインタビューに「私はさそり座です。さそり座の人間は私のように
自分を食べつくし、燃やしつくすのです。」と語っています。彼女の
ヒステリー症状がもたらす重圧がオリヴィエの神経をすり減らして
いました。1958年の映画「巨象の道」ではセイロン島ロケによって
オリヴィエとの別離、人里はなれた灼熱の土地での仕事にその徴候が
現れていましたが、ハリウッドに撮影が移り、撮影が八分通り完成
したとき、発作が始まり「欲望という名の電車」のセリフを口走りながら、
共演者をオリヴィエと間違え泣き叫び、医師がきましたがそばに近づくことも
できませんでした。オリヴィエは知らせをうけると、遠くイタリアから
かけつけ、鎮静剤を注射されて眠るヴィヴィアンを飛行機でイギリスに
連れ帰りました。ただちに病院に入院し、深い麻酔剤をかけられて眠りつづけました。
「巨象の道」はエリザベス・テイラー主演で撮り直されました。
自宅でくつろぐヴィヴィアン
ヴィヴィアンは奇跡的に回復しましたが、自分が躁鬱病であるという事実を
認めようとしませんでした。つねにエネルギーにあふれ、睡眠時間は少なく、
目を覚ましている時間は仕事のためにとられる生活を続けたために、精神を
集中したり、くつろいだりする能力を失いつつありました。発作については
彼女自身に記憶がなく、発作が終わると元の美しく輝くようなヴィヴィアンに
もどりました。
舞台劇の「マクベス」
オリヴィエはいかなる薬剤、療法、休養よりも、実際に演劇活動に
参加することの方がはるかにヴィヴィアンの回復に効果のあることを確信
していましたので、彼はストラトフォード・オン・エーボンのシェクスピア記念劇場の
シーズンに「十二夜」「マクベス」「タイタス・アンドロニカス」にヴィヴィアンと
共演しました。公演終了後、オリヴィエは絶賛され、劇評はほとんど彼の
演技をほめることに終始してヴィヴィアンはわずか数行を与えられただけ
でした。彼女の精神状態はいちじるしく不安定になり、彼女自身いつか気が狂う
のではないかという不安につきまとわれていました。
舞台劇の「タイタス・アンドロニカス」
公演も終わり、落ち着いていたかにみえたヴィヴィアンは、妊娠4ヶ月で
流産してこのことは彼女にとって肉体よりも精神に大きな打撃となりました。
オリヴィエは彼女の症状がただのヒステリーではないことを知って
いましたので、彼女の病気とともに生きていくという人生に自信を
無くしていきました。ヴィヴィアンの発作は最初はゆっくりと鬱症状に入り
気持ちを集中して考えることができなくなり、食欲や睡眠に影響を与え、躁期は
突然始まり、興奮がたかまって抑制する力を失い、心に浮かんだことを汚い言葉で
叫び、物事を判断する力を失ってしまいます。肺結核が躁鬱病を昂進させて
いたようでした。
舞台劇の「シーザーとクレオパトラ」
ヴィヴィアンの病は、年を重ねるごとに重くなって、彼女の周囲の人々にとっては、
地獄のような日々が続いていましたが、彼女は闘い続けました。
ヴィヴィアンは次第に自分に自信を失いつつありましたが、オリヴィエは
英国劇団の最も偉大な古典劇俳優であるだけでなく、喜劇俳優と
しての評価も得て成功への道を歩んでいました。看病に疲れた
オリビエとの結婚生活も冷め切ってしまい、1960年についに離婚
しました。離婚後1963年 には50歳で初めて舞台ミュージカル
「タワリシチ」に出演。彼女の歌とダンスは舞台と共に絶賛を浴び、
トニー賞の主演女優賞を獲得しました。オリビエとの破局以降は結婚する
ことなく闘病生活を送り、1967年、結核の悪化が原因で54歳でこの世を
去りました。
自宅のヴィヴィアン
ヴィヴィアンはすぐれた教養があり、洗練された趣味を持った女性で
あると同時に、信じられないほど野卑で身持ちの悪い女になることも
できました。静かで、おちついていて、誰とでも気持ちよくつきあえる
人間でありながら、気の狂ったように誰のいうことも聞かなくなる、
オリビエはこれに立ち向かうことができませんでした。
スカーレット女優としての名声よりも、舞台での好評が
欲しく、名優オリビエ夫人であるよりもそのライヴァルで
あろうとしました。女優のエゴと栄光の間で燃え尽きるのが
ヴィヴィアン・リーの宿命的な人生だったようで、華麗にして凄絶な
炎の生涯でした。
*アクターズ・スタジオ
1947年にエリア・カザンとリー・ストラスバーグらが
ニューヨークの44丁目に創設した演技者のための学校。
主な卒業生はジャック・ニコルソン、ロバート・デ・ニーロ、
アル・パチーノ、スティーブ・マックィーン、ポール・ニューマン、
マリリン・モンロー等がいました。彼らの自然な演技はハリウッド
映画の演技スタイルに大きな影響を与えました。
参考資料
ヴィヴィアン・リー アン・エドワーズ 文春文庫
ヴィヴィアン・リー シネアルバム 芳賀書店