秀でた文官を起用し、儒学者、書家、画家、医師、僧侶、書記、通訳、
楽隊などは第一級の人物を揃えました。三使などは帰国後に政界で活躍し、
大臣の地位についた人々もたくさん居たということです。朝鮮通信使は
1回に300〜500人来日する大きなものでしたから、一隻が40mを超える
外洋船6隻が用意され、そのうち3隻には将軍家をはじめ御三家、道中
接待してくれる諸大名への贈り物が満載されていました。
正使
朝鮮通信使を迎えるのに、日本側は国をあげての歓迎体制をくみました。
幕府は老中を総責任者とし、通信使の通る道すじの大名には、準備の
ための帰国を命じました。使館の新築、船団の編成、道路の整備、人足や
馬の調達など前の年から準備をするためでした。橋を補修し、木を植え替え
家並みを整えました。食事も毎回最上の豪華さで、当時の日本人が食べな
かったけものの肉も用意しました。通信使は、基本的には国家どうしの
交流で、てあついもてなしも、ある意味では日本の国力を誇示するため、
華やかな行列は幕府の威力を示すもので、民衆レベルの交歓ということは
考えられていませんでした。
副使
通信使の接待に費やされた日本側の経費は毎回100万両、動員された
人足は33万人、馬は77600頭にのぼったといわれています。
この費用は幕府や大名だけが、負担したわけではありませんでした。
沿道の農民にも人馬を提供するように求められ、もし出せない場合は
金を納めなければなりませんでした。朝鮮側も6隻の舟の建造や贈り物
など年間30万両こえたといわれています。対馬藩も1回の通信使に
かける費用は20万両で両国とも通信使に要する費用は、1年の
国家予算に近いものでした。1両は現在の数万円と考えらていました。
(釜山の草梁倭館)
日本と朝鮮の国交が正常化するまでの10年間、日本からの使節は
釜山近くの島に臨時に設けられていた倭館を使用していましたが、
対馬藩は交渉の窓口として朝鮮王朝の許可を得て、釜山に10万坪の
倭館を経営しました。長崎の出島の25倍といわれる釜山の草梁倭館は
わずか50km足らずの海峡をはさんだ二つの民族の交流と共存の
必要のあかしでした。日朝双方の国をあげての準備が整い、やがて
朝鮮通信使の一行は船出のときをまちます。