2/12 2008掲載

大正三美人をご存知ですか

川島道子
 

みなさんは大正三美人についてご存知でしょうか。
大正時代に美貌と才能に恵まれて活躍したた三人の女性に
ついて紹介したいと思います。
 
 
大正三美人の筆頭、九条武子は明治20年(1887)京都西本願寺
法主(ほっす)二十一世大谷光尊(伯爵)の次女として生まれました。
兄大谷光瑞はシルクロード探検隊として知られています。「西本願寺の宝」
として育てられた武子は文芸にすぐれ、短歌を佐々木信綱に師事し絵画を
上村松園について学びました。明治41年男爵九条良致(貞明皇后、弟)と
結婚、新婚まもない二人は渡英しましたが、翌年ひとりで帰国しました。
 
 
 
 
 
大正天皇即位式の正装
 
夫良致はイギリスでの生活が3年の予定が10年にわたり、その間
武子はその孤独と淋しさを歌にして出した歌集「金鈴」は、当時の
ベストセラーになりました。武子は文章も巧みで、晩年に随筆「
無憂華」(あそか)を出版しています。夫の帰国後は東京築地
本願寺内に移り住み、慈善事業に献身しましたが、関東大震災を
経験したことでその活動は本格的になりました。
 
 
 
 
武子はその文筆活動で得た収入を被災者の救援にあてるなど意識的、
組織的に活動しました。大正期にこれほどの救援活動をした人は
ほとんどいませんでした。その過労がもとで敗血症になり、惜しまれ
ながら昭和3年42歳で亡くなりました。その告別式には5000人
を超える参列者が並び、すべての新聞が42歳の若さで逝った武子を
悼みました。
 
 
 
 
筑紫の女王とうたわれた柳原白蓮は明治18年柳原伯爵家に生まれ、
大正天皇の生母柳原愛子(なるこ)の姪でした。初婚にやぶれた白蓮が
27歳のとき父親ほども違う52歳の伊藤伝右衛門と再婚しました。
大正天皇の従兄弟にあたる高貴な家柄の白蓮と、炭坑夫から一代で
財をなした伝右衛門とは不釣合いなことから「金で買われた結婚」と
噂されました。「金襴緞子の帯締めながら、花嫁御寮は何故泣くの
だろう」という歌は白蓮がモデルといわれています。
 
 
 
 
白蓮は伝右衛門の複雑な人間関係の家庭環境に悩み、その憂さを
歌に詠み生き甲斐にしていました。31歳の時白蓮というペンネーム
で発表した処女歌集「踏み絵」は、白蓮を一気に歌人におしあげました。
大正10年に新聞に伝右衛門への公開絶縁状を発表して7歳年下の恋人
のもとに走り、このことは「白蓮事件」として当時の社会に衝撃を与え、
白蓮は華族の身分を剥奪され財産も没収されました。しかし白蓮は
新しい環境の中でたくましく生き抜き、愛児の戦死をきっかけに
平和運動にまい進して長寿をまっとうしました。
 
 
 
 
林きむ子は九条武子、柳原白蓮が楚々とした日本美人なのに
対して彫の深い面立ちで背も高く豊満な美人でした。また華族
でなく芝の料亭の娘でした。その美貌に一目ぼれした富豪の
代議士と結婚して6人の子どもの子育てのかたわら、仏英和女学校
女子美術、神学校などの三つもの学校に通い、高い教養を身につけ
ました。
 
 
 
 
夫が汚職事件にからんで政治生命を絶たれ、事業も傾き家も
手放してやがて夫は亡くなります。襲いかかる逆境を作品を
出版して原稿料を稼ぎ、美容液を考案して売り出すなど
持てる力を発揮して苦境を乗り切りました。やがて年下の詩人と
結婚して世の非難を受けますがくじけず、幼いころから修練を
つんできた舞踊で身を立て、多彩な活動をつづけ昭和42年まで
生きました。
 
 
昔父の本棚にあった九条武子の伝記を読んだことから、当時小学生
だった私は九条武子に憧れました。最近図書館で写真集の九条武子を
見たことから思い出が蘇り、2〜3年前に読んだ「大正美人伝」の
こともあってレポートにしてみました。
 
参考資料
  幕末維新 明治大正 美人帖        新人物往来社
  大正美人伝      森まゆみ    文芸春秋社
 

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