6/23 2008掲載

私の沖縄の旅    Part2     
 
 
                     川島道子

(大交易時代の琉球)
 
東シナ海に浮かぶ小さな王国が交易圏を拡大して、大交易時代を築いたのは、地理的条件も
ありましたが、なによりも東アジア世界に君臨していた明王朝を後ろだてにしていたことで
した。そして中国商人が海禁政策(制限貿易政策)で渡航が制限されていたことも大きな
要因でした。しかし16世紀になりますと、ヨーロッパ諸国のいわゆる「地理上の発見」で、
ポルトガル、スペインがアジアに進出するようになり、中国でも海禁政策がゆるみ、16世紀
なかばには日本商船も東南アジアに進出するようになり、王国の大交易時代にもかげりが
生じてきました。そして琉球王国の東南アジア交易に国際競争の波がおしよせ、魅力ある独自
の交易品をうみだすことのなかった琉球は、国際化の荒波をのりきる力はありませんでした。
 
 
 
 (冊封使の行列)
 
繁栄を極めた琉球王国の大交易時代もやがて終わりをむかえます。1609年徳川幕府を
後ろ盾にした島津氏が、逼迫する薩摩藩の財政危機を乗り越えるために琉球王国に侵入、
戦闘経験もなく武力の弱い琉球はなすすべもなく島津氏の支配下におかれ、王国としての
独立をを失いました。奄美大島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島の五島を薩摩の領土
とし、沖縄諸島以南を琉球王国の領土とし、外交権は奪われましたが琉球王国としては解体
されずに存続することができました。島津氏の支配のもと琉球王国は徳川幕府への臣従を
強制され、幕藩体制に組み込まれていきました。中国にたいしては薩摩の琉球支配は隠され、
従来の進貢貿易は続いていき、琉球王国は中国と日本の両方に属しながら生き延びる道を
探っていきました。
 
 
 
 (冊封使の行列)
 
徳川幕府は当初、海外貿易に積極的だった家康の方針で琉球を幕府に従属させ、明との貿易
交渉に利用しようとしましたが、琉球が応じなかったので島津氏の支配を許しました。幕藩
体制に組み込まれた琉球は、国王の代替りごとに「謝恩使」を、将軍の代替り代わりごとに
「慶賀使」を幕府に遣わしました。そのことは幕藩体制国家への服属儀礼でした。その際
一行は「異国風」を装わされ、島津氏にともなわれていくのがならわしでした。
 
 
 
(尚円王の御後絵しょうえんおうのおごえ1415−1476)
 
幕府にとっては、琉球が「異国」であることを強調することによって、それを従えている
徳川家の権威をたかめる役割をはたすことになり、薩摩藩にとっても、琉球の支配をまか
され、使節をともなうことで、幕藩体制内における島津氏の地位を高めることができま
した。いっぽう琉球にとっては「異国」であることを演出させられることによって、
中国への進貢貿易が継続できて王国としての体面を保つことができ、この行事は琉球王国
の主体性を主張するための重要なセレモニーになっていきました。
 
 
 
 (人頭石120p この石の高さに達すれば年齢を問わず課税)
 
島津氏侵入によって「異国」のまま徳川幕府と島津氏による二重支配のもと、王国は
主体性を失い半世紀もの間混迷した時代をおくっていました。この混乱期に大胆な
政治改革をうちだして王国を立て直す動きが始まり、身分制度や行政組織、法律や
財政の立て直しなどが行われ、古琉球から近世琉球へと転換がはかられ脱皮して
いきました。現代につながる伝統文化はこの時代に培われました。島津氏の支配は
過酷を極め、その支配は人頭税(15歳〜50歳まで男女を問わず頭割りの税)に
象徴されるように農民はその重圧に長く苦しめられていきました。
 
 
 
 
(1816年イギリス海軍士官の撮った琉球王国高官)
 
17世紀のなかばに、徳川幕府が鎖国体制をしいてからはオランダ以外は通交はありま
せんでしたが、18世紀末に、ロシアが開国をもとめてきたのをかわきりに、19世紀
にはイギリス、フランス、アメリカなどの船舶が、しばしば日本近海にあらわれるよう
になりました。琉球近海にもひんぱんに姿をあらわすようになり、琉球王国の王府はそ
の対応に追われました。1842年のアヘン戦争で中国がイギリスに敗れた結果、鎖国の
日本に開国をせまる諸外国は琉球王国を足がかりにしようとしていましたが、王府は
明快な対応策をうちだせず、神に祈り(神仏の力で国難を逃れる法令を出す)島津氏に
たよるのみでした。
 
 
 
(沖縄の人々に馴染まれた波乃上宮ー昭和初期)
 
欧米諸国のアジア進出のうねりは、確実に琉球にもおしよせ、1853年、ペリーは日本
との交渉の前に琉球に来航しました。アメリカは、琉球が日本の支配下にあることを十分に
察知していて、日本との交渉が失敗したばあいは琉球を占領する計画でした。王府はペリー
艦隊の要求をなんとかかわし、琉球からたちさらせることに腐心しましたが、結局、
琉米修好条約をむすばざるをえませんでした。琉球王府は欧米諸国との接触で日清
(中国は当時清王朝)両属的な王国体制を維持するのに懸命でしたが、時代は大きく動き、
日本は明治維新をへて幕藩体制がおわり、廃藩置県が行われました。
 
 
 
 
(玉稜たまうどうんー王家の陵墓 世界遺産)
 
明治政府によって琉球王国は解体され沖縄県となりました。これを「琉球処分」といいます。
この結果500年続いた琉球王国は終わりました。「琉球処分」は沖縄近代史の出発だと
いわれていますが、その歴史的評価についてはいまだに定まった説はないようです。
 
 
 
(首里城を望む、龍潭りゅうたんー池)
 
1879年4月沖縄県が設置されて中央政府から初代県令(県知事)が派遣されて、「沖縄
は日本の国土ではあっても、本土から遠隔の地にあり、民族の歴史や生活習慣、行事などが
異なる」と言う理由で古い制度はそのまま残し、急激な改革は控える政策「旧慣温存策
(きゅうかんおんぞんさく)」のもと県政が始まりました。廃藩置県にたいして旧支配層の
反発や、清国への亡命によって刺激された中国との紛争をさけること、古い税制を残して
おいたほうが、中央政府にとって経済的利益が大きかったなどによりすすめられたこの
「旧慣温存策」こそが、沖縄の近代化を遅らせた要因になりました。「旧慣温存策」の
問題点は土地制度と租税制度にあり、改革は一進一退の状況で沖縄県民は王国時代と
かわらず貧困にあえいでいました。
 
 
 
(識名園しきなえんー冊封使を歓待した場所 世界遺産)
 
中央政府からはさまざまな人材が派遣されて、意欲ある改革も行われました。近代沖縄に
影響をあたえた人物に、北国出身者が多くいました。米沢藩最後の藩主、上杉茂憲は
ヨーロッパから学んだ合理精神と民衆にたいする慈愛心からさまざまな改革をうちだ
しました。南島開発の必要から「南嶋開発」をあらわした笹森儀助、沖縄の歴史、風俗
言語、文学などの解説書「琉球の研究」をあらわした加藤三吾は青森県出身で、人頭税
廃止に立ち上がった中村十作と「おもろそうし」の研究に光をあてた田島利三郎は
新潟出身で、石垣島の気象観測に一生をささげた岩崎卓爾は宮城県出身でした。
これらの人々の熱意と業績は、中央政府の思惑を超えて沖縄の改革に貢献しました。
 
 
 
(園比屋武御嶽石門 そのひやんうたきいしもんー世界遺産)
 
「旧慣温存策」の問題点はしだいに緩和されていき、日露戦争や第一次世界大戦での
特需景気もありましたが一時的で長続きせず、関東大震災の影響や昭和初期に起きた
世界大恐慌は沖縄に「ソテツ地獄」を出現させました。農民は米はおろか芋さえも口に
することができず、調理をあやまれば命もうばうソテツの実や幹を常食にしました。
貧しさの中で多くの人々は海外に活路をみいだすべく沖縄からの海外移民が始まりました。
 
 
 
(円画寺 王家の菩提寺)
 
沖縄は薩摩藩の侵入以後は、歴史的な武力のない島で、廃藩置県によって沖縄県になって
からも「沖縄の軍備は連隊区司令官の軍馬1頭」といわれるほど無防備な島でした。
この平和な島も第二次世界戦争のはじまりとともに、戦争にまきこまれていき、やがて
悲惨な戦史のなかでも「醜さの極地」として特筆される、戦争末期の最大の戦闘「沖縄戦」
が行われ多くの犠牲者がでました。90日におよぶ鉄の暴風は、沖縄そのものを滅ぼしたか
にみえましたが、戦争終結とともに沖縄県民は不死鳥のように、廃墟のなかから立ち上がって
いきました。
 
 
 
(沖縄の海)
 
戦争が終わっても沖縄のおかれた地理的条件によって、新たな課題を背負うことになりました。
戦後の沖縄の歩みは平坦なものではなく、現在日本にあるアメリカ軍の基地の75%が、
日本の国土面積の0.6%しかない沖縄に集中している矛盾を抱えながらも、沖縄県民は歴史的
風雪に耐えて多くの困難をのりこえ、たくましくその歩みをすすめています。しかし
しまちゃび(離島苦)と言う言葉が、まだ死語にはなっていない沖縄の現実もあります。
 
多くの犠牲者をだした沖縄戦の戦闘は6月23日に終わりました。
 
 
  参考資料   
     高等学校 琉球・沖縄史  新城俊昭     東洋企画
     沖縄県の歴史                山川出版所
     沖縄アーカイブス写真集           生活情報センター
     特集 沖縄        太陽       平凡社

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