7/25 2008掲載
ラヴェンナに想う
川島道子
この雑誌写真も使ってもらいました。
Capt.Senohさんのこのたびのスイスアルプス紀行、イタリア紀行はいずれも
強い印象を受けましたが、私にとってはやはりマッターホルンで大自然の創り
だしたその雄姿は、どこから眺めても心ときめく姿でした。そしてもう一つ
ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂とガラ・プラチーデァ聖堂の紹介でした。
ガラ・プラチーデァ聖堂の名は初めて知り、この二つの聖堂についてサイトで検索
しますと、非常に興味深い事実を知りました。Capt.Senohさんの画像を拝借して
紹介したいと思います。
サン・ヴィターレ聖堂は8〜9世紀に東ローマ帝国で広がっていた「聖像破壊運動」
の影響をまぬがれて、初期ビザンチン美術の素晴らしいモザイク画が残されたという
ことをサイトで知りました。「聖像破壊運動」とは730年東ローマ皇帝レオーン3世に
よってイコン崇拝を禁止する聖像禁止令が発令されて、東ローマ帝国を二分する激しい争いに
なり、反対する者は容赦なく弾圧されました。この運動に最終的に決着をつけたのは
アテネ出身の皇后エイレーネーでした。
エイレーネー
エイレーネーは、「聖像破壊運動」の勅令を出した皇帝の孫に当たるレオーン4世の
皇后で、その出身から、「聖像破壊運動」には反対で夫を懐柔しつつ、その死後
10歳の息子コンスタンティノス6世の摂政として政治を取り仕切ることになりました。
エイレーネーが主催して開かれた787年の第2ニカイヤ公会議で「聖像崇拝」の
復活を議決させました。このことによって、息子の目をつぶして帝位を簒奪したのにも
かかわらず、教会から聖人に認定されました。エイレーネーはローマ帝国史上初の女帝
でした。
聖堂
ガラ・プラチーデァ聖堂のガラ・プラチーデァは古代ローマ帝国の最後の皇帝で、大帝と
言われたテオドシウス1世の娘として生をうけました。テオドシウス1世の死後、東西に
分割されたローマ帝国が弱体する中で、西ゴート軍の捕虜となり、やがて西ゴート王と結婚し
その死後西ローマ帝国の将軍コンスタンティウス3世(短期間皇帝になる)と再婚し、二人の
間にヴァレンティニアヌス3世となる息子と娘ホノリアが生まれました。
ガラ・プラチーデァ
皇帝の母として西ローマ帝国の後見を25年にわたってつとめましたが、統治能力のない息子の
皇帝ヴァレンティニアヌス3世の時代に西ローマ帝国の危機は進み、娘ホノリアの愚かな手紙に
よって「神の災い」と言われたフン族のアッティラを呼び寄せるなど、激動の時代に数奇な一生を
送りました。ガラ・プラチーデァは一生敬虔なカトリック教徒で、ラベンナにいくつかの教会を
寄進しました。娘ホノリアが呼び寄せたアッティラの残虐な略奪を見ることなく亡くなったことが
せめてもの救いでした。
サン・ヴィターレ聖堂とガラ・プラチーデァ聖堂の存在は現代の奇跡ですね。
ヴィターレ
プラチーデァ
テオドラは東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世の皇后ですが、
サーカスの踊り子から皇后にまでなった女性で、踊り子時代には
娼婦まがいのことをしていたと言われていました。美しく才気煥発な
踊り子テオドラが、皇帝の後継者ユスティニアヌスの目にとまり、
周囲の猛烈な反対を押し切り、法律を変えてまでして二人は結婚しました。
ユスティニアヌスが即位するとテオドラは皇后になりました。
テオドラは夫ユスティニアヌス1世を陰で支え、532年の「ニカの乱」に
さいしては、退位寸前まで追い込まれた夫を叱咤激励して立ち直らせ、反乱を
鎮めることができました。その時テオドラの「帝衣は最高の死に装束である」
の発言によってユスティニアヌス1世は勇気を取り戻したと言われています。
テオドラは自分の苦労した体験から、若い女性の売買を禁じたり、女の権利を
認めたり、女性に多大な恩恵をあたえました。夫ユスティニアヌス1世は、
数々の外征で領土を広げ、古代ローマ法の集大成である「ローマ法大全」の
完成、ニカの乱で消失したハギヤ・ソフィア大聖堂(現アヤソフィア博物館)
の再建などの功績から大帝と言われていますが、外征では屈指の軍事指導者
ベリサリウスの功績、内政では皇后テオドラの支えが大きかったようです。
有名なプロコピオスの「秘史」では、テオドラは痛烈に批判されていますが、
一介の踊り子から皇后にまでなり、夫を支えた女傑テオドラのたくましい
その生き方は、後世の私たちにも強い印象を与えています。
現地からの素晴らしい
写真による紹介は今も心に残っています。有り難うございました。
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