7/28 2008掲載

フィレンツェに想う
 
k.mitiko 

ルネサンスが開花したイタリアではフィレンツェ、ミラノ、ローマ、
ヴェネツィアなどの
都市がありますが、中でもフィレンツェはメディチ家の強力な支援もあって、その文化の
さきがけとなり花開きました。フィレンツェのウフィツイ美術館はルネサンス絵画の宝庫と
して有名で、私たちもよく知っている名画が数多く収蔵されています。
 
 
「ヴィーナスの誕生」   サンドロ・ボッティチェリ        
 
その中で「ヴィーナスの誕生」(サンドロ・ボッティチェリ)として知られるこの絵画の
ヴィーナスのモデルをご存知でしょうか。フィレンツェ最高の美女と讃えられたシモネッタ・
ヴェスプッチという女性です。
 
 
 
シモネッタ・ヴェスプッチ像 サンドロ・ボッティチェリ
 
シモネッタはジェノバの富商の娘として生まれ、16歳でフィレンツェのマルコ・
ヴェスプッチに嫁ぎました。シモネッタは髪は金髪、丸顔で情熱的な目、身体は細く
しなやかで、脚はすらりとして、優雅さを備え初々しい雰囲気を持った美女だったと
言われていました。
 
 
 
シモネッタ・ヴェスプッチ像 サンドロ・ボッティチェリ
 
フィレンツェの著名な詩人ポリツィアーノはシモネッタを絶世の美女として 
そして理想の女性として詠っています。                       
 
彼女は純白で衣服も白地、
そこにはバラと草花が描かれ、                
黄金の頭部から編まれた髪は、
慎ましくも高貴な額にしなだれかかる。                           
その瞳は、甘き青色に輝き、
そこにキューピッドが自らの 
炎を隠している
 
 
 
ジュリアーノ・デ・メディチ像
 
やがてシモネッタは豪華王といわれたフィレンツェの主、ロレンツオ・メディチの
弟で美男子のジュリアーノ・メディチと愛し合うようになりました。1475年、
フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノ間に防衛同盟が締結されたことを祝って、
ロレンツオ・メディチ主催の「大馬上槍試合」が開催されました。ジュリアーノは
この試合で見事優勝し、当日の美の女王に指名されたシモネッタから優勝の兜を
授かりました。
 
 
シモネッタ・ヴェスプッチ像   ピエロ・デ・コジモ
 
「大馬上槍試合」の後シモネッタは病に臥し、1476年22歳の若さで
亡くなりなりました。シモネッタの死を悲しんでフィレンツェ中の鐘が
鳴り響き、多くの市民がシモネッタに別れを告げたといわれています。
シモネッタの死後1478年、ジュリアーノはメディチ家と対立する
パッツィ家の陰謀によって暗殺されてしまいました。
 
 
 
「女性の頭部」   レオナルド・ダ・ヴィンチ
 
ロレンツオ・メディチがシモネッタの葬儀で「彼女の死に顔の美しさは、生前の
それを超越している。死もまた美しい・・・」と述べたと言われています。
ジュリアーノ、シモネッタの二人はともに短い人生でしたが、彼女の美しさに、
多くの芸術家が触発されて、さまざまな芸術家によってその姿が残されています。
特にメディチ家と親しかったサンドロ・ボッティチェリによって「ヴィーナスの
誕生」「春(プリマヴェーラ)」にその美しさが永遠に留められ、二人の恋は
神話になりました。
 
 
 
「春(プリマヴェーラ)」       サンドロ・ボッティチェリ
 
一説ではロレンツオ・メディチが二人の早すぎる死を悼んでこの絵を描かせたと
言われ、左側のマーキュリがジュリアーノ、右側の花の女神フローラがシモネッタと
言われています。
 
下記のサイトに「春(プリマヴェーラ)」について興味深い分析がありました。
 
 
http://www.libresen.com/rosehp/day/day-prima/primabera3.htm

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