11/20 2001掲載

by Y.O. こと 岡田芳乃

『キミよ杉浦を忘れないで』

『キミは長嶋を見たか』という本がありますが、、、、。
 
  私が杉浦さんとお会いしたのは、ダイエーの監督就任直後(平成元年)でした。
 あまり野球を知らない私は人に紹介された時に
 かっての大投手に軽く会釈しただけで尊敬の気持ちも表さず、どちらかというと失礼な態度でした。
 そんな私に少しも偉ぶらず『球界の紳士』のニックネームどおりの対応をされました。
 後で人に教えていただいたり読んだりして、その偉大さを知ったのです。
 
 それから12年経ちましたが、伝説になった『血染めの四連投』の凄みを少しも見せず、語らず、
 この男のどこに、燃える闘魂がひそんでいたのだろうかと思わせる穏やかな方でした。
 いつも背筋が真っ直ぐで、長身にスーツをダンディに着こなし、
 ジャケットのチラリと見える裏地がこっていて、オシャレな紳士でした。
 
 4年前に大手術を受けても、すぐにお元気になったのに、
 もう お話することもできない、お食事を御一緒することもないなんて考えられない、
 とても寂しい想いです。
 
 伝言板上にも杉浦さんを悼む書き込みがいくつか見られますので、
 少し写真を出して思い出していただこうと思いましたが、
 あまりにも多くなってしまうので編集長にお願いすることにしました。
 
 
 * 赤ちゃん(1歳) 
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 * 拳母(ころも)高校時代 
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 * 立教時代
             
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 盟友長嶋と
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 立教三羽ガラス(長嶋・杉浦・本屋敷)
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 オーバースローの頃 
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  サブマリン(潜水艦)と形容されるアンダースローは痛めた肘をかばう為だったが、
 その誕生の理由は他にもあり、それはメガネである。
 当時のメガネはセルロイドの厚くて重いフレームだったので 一球投げるたびに
 メガネがゆるみ、落ちそうになるので、高校時代からコントロールの悪さがあり、
 そこでアンダースローを思いついて、巨人の大友選手のホームの連続写真を雑誌社から借りて、
 フォームを改造した。
  アンダースローは下半身への負担が大きく、強い脚力と柔らかい筋肉を持つ杉浦は、
 この投げ方をマスターすることで、その才能を開花させた。
 
  長嶋が杉浦の家に遊びに来た時(大学二年)
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  立教時代の大沢啓二(2年先輩)
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 * 南海ホークス時代
   
 キャッチャー野村と
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 南海のエース サブマリン杉浦
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 日本シリーズ四連投四連勝 
   対する巨人打線の四番には長嶋、その他に広岡、与那嶺、新人の王など、
   スラッガー達がならんでいた。
   杉浦速し、の情報に巨人は投手を2メートル前から投げさせて打撃練習をやったという。
     
  ・第一線 10−7  
       この時 右手中指に血豆をつくる。
       リーグ優勝決定後、ヒジの痛みを直す為に一週間ほどピッチングを休んだので
       指先が柔らかくなっていたのだ。
  ・第二戦 6−3
    ・第三戦 3−2
       杉浦ー藤田 両エースの激突。
       2−1と南海リードで、九回裏の巨人の攻撃、先頭四番坂崎の当りはライトスタンドへ。同点。
       さらにヒットを打たれ、一死二・三塁とサヨナラのピンチ。
       マメもつぶれ、皮もむけ、
       キャッチャーの野村は「スギの投げる球に血がついとる、、。」と青ざめていた。
       もはや投げられる状態でなく、「もう あかん」とベンチを見ると
              鶴岡監督は 目を合わさないように、そっぽを向いている。
       こまりはてているとマウンドに伝令が来てユニフォームのポケットに何かを入れた。
       取り出してみると、鶴岡が大切にしている厳島神社のお守りだった。
          『僕に対する監督の気持ちが痛いほど胸に響きました。こうなれば仕方がない、
           なるようにしかならんわい。と覚悟をきめました。打者は代打の森 昌彦(祇昌)。
           思いきって投げました。森選手の当りは快音を残して左中間へ。「やられた」と
           頭をかかえこみました。ところが、大沢中堅手がいい所に守っていてアウト。
           さらに、三塁ランナーの広岡達朗選手がタッチアップしますが、絶好球が
           本塁に返ってきてダブルプレーになったのです。』
                                   
                               杉浦 忠 『僕の愛した野球』より
       
 血豆
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 日本シリーズでのピッチング
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  ・第四戦 3−0
       翌日の第四戦は雨で順延。巨人は藤田先発。
       連投を懸念する鶴岡に「親分、僕の腕の一本や二本どうなっても構わんです。どしどし
       使ってください。」
       結果は 5安打無四球で巨人打線を完封。
            
              歓喜の勝利。鶴岡監督以下 全選手が涙を流しマウンド上でぶつかりあい、
       もみくちゃにされながら、杉浦は全くの虚脱状態で一人冷静だったという。
       打倒巨人という使命感、親分の悲願を無事果たし終えた安堵感、満足感。
       
       当時の新聞は「一人になって泣きたい」という杉浦の言葉を伝え、
       名セリフとして有名になったが、
       これも「一人になったら、うれしさがこみ上げてくるでしょう。」
       というコメントが一人歩きしたものらしい。
 
       のちに、巨人水原監督は 「南海にやられたのではない。杉浦に負けただけさ。」と
       くやしまぎれに語った。 
         
 日本シリーズの成績
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投球内容       
 
      四試合37イニング中32イニングを一人で投げ抜き、四連投四連勝。
      最優秀選手賞を受賞。
      マメと戦いながらの杉浦の436球は、不滅の記録としてプロ野球史に
      永遠に記憶されている。
 
      祝賀会場になったホテルは取り壊しが決まっていたため、乾杯のあとは無礼講。
      外人選手を先頭にビールのかけあいになった。
      プロ野球優勝のビールかけは、ここからはじまったのである。
 
 
 *長嶋VS杉浦
           杉浦と長嶋は、南海入りした先輩大沢の誘いで、三年生の秋に鶴岡監督と会っている。
      長嶋は「おれは南海のお世話になる。お前もどうか、、、。」
      長嶋はその後、家庭の事情などで 袂を分かち巨人に入団。
 
      六大学野球のヒーローになった杉浦には西鉄と東映以外の10球団から誘いがあり、
      南海より契約金をはずむ球団もあったが、
      監督の「西鉄をやっつけるために力を貸してくれないか」という言葉と
      「南海さんが最初に話しをもってきてくれた」を理由に鶴岡監督のもとへ。
     
      本屋敷は阪神へ。
         
 入団一年目の杉浦と長嶋
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 日本シリーズでの対決(キャッチャー 野村)
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      高校三年生の時、立教大学セレクションの紅白戦で好投する杉浦から、
      唯一のヒットを打ったのが長嶋。
      杉浦の引退試合で、最後にヒットを放ったのも長嶋。
      杉浦の選手生活は長嶋で幕を開け、長島で巻くを閉じたのである。
 
  *杉浦人気
      当時の雑誌や野球本の記事だけでなく、表紙をかざっている。
      昭和34年スタートの「週間少年マガジン」「週間少年サンデー」では、
      それぞれ「うなれ白球」「杉浦投手物語」の連載もの。
           
 カードゲーム
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 雑誌の表紙
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  *現役引退
      昭和36年から動脈閉塞との闘いが始まり、右手切断の危機、
      患部を切り取り、太ももの血管移植という当時の医学レベルでは、
      スポーツマンとしての大手術をのりこえながらも、
      昭和39年には、20勝を挙げ、南海も阪神を破り、日本一に。
      昭和40年日本シリーズでは再び巨人と顔を合わせた。
 
 右手を気事づかう杉浦
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 新聞記事
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      40年のシリーズ後、コーチ専任になり、一旦現役を退いたが監督の要請を受けて
      現役に復帰。
      その後、45年まで現役を続けた。
      杉浦がその喜ぶ顔見たさに投げた鶴岡監督も、43年に引退している。
 
      昭和46年3月の引退試合はオープン戦に設定された最高の舞台で、
      13年の投手生活にピリオドを打った。
      相手は巨人。
 マウンド上で長嶋と握手(左:野村)
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 チームメイトの見送り
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    *指導者へ
      現役引退後、解説者、
      昭和49年から4年間西本幸雄監督に招かれ近鉄のコーチ、
      昭和61年 南海に監督として復帰。
      平成元年 ダイエーの初代監督としてチーム作りに奮闘、
      田淵幸一に監督を引き継いでからはダイエーホークスのフロントを努め、
      平成5年に退団。
      ホークス一筋の野球人生だった。
 
 大阪球場に別れを告げる
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 ダイエーの初代監督
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  *野球殿堂入り
      平成7年野球殿堂入り
      「プロ野球隆盛期の序盤で、長嶋がセの代表選手になり、
      自分が大学の同僚として対比されて、力以上の評価を受けたことも
      ラッキーだった。」と、
      謙虚なコメントが報じられた。
      殿堂入りの報告は、真っ先に鶴岡監督に報告したという。
 
 野球殿堂入りの表彰
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 パーティー
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 長嶋の祝福
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 the END