8/7 2001 掲載
神経科医舩津邦比古による
<<ヨーロッパ歴史ロマン: シュテファン=ツヴァイク調 ヴュルツブルク観光ガイド>>
ヴュルツブルク(Wuerzburg)の名は歴史上には8世紀に現れるのだが、それを遡ること約1800年、紀元前10世紀にケルト人がやはりこの交易の十字路、マイン川の左岸で川が大きく左に向きを変えるところを望む、今はマリエンブルク要塞と名付けられた高台に稜堡を築いたことを示す資料には事欠かない。しかし3100年後の今日土中から掘り起こされて再び日の目を見、博物館に考古学者の解説を添えて陳列されている彼らの遺品の数々が物語るのに勝るとも劣らず、マリエンベルク要塞から見る景観は何故ケルト人がこの地に稜堡を築いたのか、あるいはその後も如何にこの地が重要な意味を持ち続けたかを雄弁に物語っている。マリエンベルク要塞の下をマイン川は南から流れ来て要塞の下で方向を西に転じるが、巨視的に見るとマイン川は周知のとおり東から西に流れている。マイン川を下る商品の主なものは岩塩とか、ボヘミア産ガラス器とかであった。反対に西から東へ運ばれる商品の主なものは海運国オランダがロッテルダムで底の浅い内水路用の船に積み替え、ライン川を遡り、支流マイン川を遡って運んできたインドネシア産の香料や、もっと遠い日本からの磁器などであった。
だが川があるだけでは交易の要衝としての地位を築くに十分ではない。他の宿場町と違う差別化を図るためにはその町自身がうま味を持つ必要がある。行き交う商人達がその地に他とは違う付加価値を見出したとき、その地は川岸の集落から粗末な柵で守られた町になり、その地の重要性に気付いた目ざとい諸侯や教会勢力が、何らかの取って付けたような口実を設けてその町の領有を宣言し、その主権は舞台裏の駆け引きや戦争や、あるいは婚姻という名のどんでん返しによって他人に手に移ることもよくあるのだが、いずれは神聖ローマ帝国皇帝か、でなければ僧侶か、それでもなければ諸侯の領有するところとなる。その時町は堀割と城壁に囲まれた都市に成長しており、四方には街道が通じている。ヴュルツブルクを支配したのはカトリック教会であった。ローマ教会はライン川とマイン川の合流点マインツに大司教座を置き、マインツ大司教は神聖ローマ帝国皇帝を選出する権利を有する七選帝候の一人であった。そしてマイン川中流のヴュルツブルクと、マイン川を遡った支流沿いのバンベルクにも司教座を領有し、マイン川の流通を抜け目無く支配下に納めた。
さて、ヴュルツブルクの場合この付加価値とは何であったろうか。マリエンベルク要塞から見下ろすヴュルツブルクの町はここから400km東にあるボヘミアの首都プラハとよく似ている。褐色とベイジュのの砂岩で出来た建物の並ぶヴュルツブルクの町は百の塔と教会の町と謳われたプラハを小さくしたようである。ここヴュルツブルクは今日でも人口わずか13万人の小都市であるにもかかわらず40もの教会があるのは驚嘆に値する。ここから見下ろす旧マイン橋とモルダウ川に架かるプラハのカレル橋と、石を素材にした造形美が似ているのは単なる偶然ではない。西欧の海洋性気候の世界ともウクライナ以東のスラブ系民族の世界とも異なる中欧の概念が、文化史上も民族学的にも地勢学的にも気象学的にも存在することを理解することは、第二次世界大戦以前のヨーロッパに於いては自明のことであったが、政治がヨーロッパを東と西に人為的に分けたことにより、この理解は一時的に困難になっていた。しかし1989年に鉄のカーテンがなくなった今日、中欧の概念を理解することは再びさほど難しいことではなくなった。プラハとヴュルツブルクの景観の類似性は同じ乾いた空気を吸い、生活に同じ素材を使い、同じような食生活をする地域で民族を越えた文化の融合があることを示している。
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ヴュルツブルク鳥瞰図。
マイン川が南から流れてきて西に曲がる。
手前に司教のレジデンツ宮殿。背景にはブドウ畑が広がる。 |
しかしいまマリエンベルク要塞から見下ろして注目すべきはそのことではなく、都市ヴュルツブルクを一歩出た郊外に広がる、見渡す限りのブドウ畑である。街角に立てば石造りの建物のいらかの向こうにブドウ畑が見える都市は、そう何処にでもあるものではない。日々の生活の視界の中にブドウ畑があることは、ヴュルツブルクに住む人々にこの地がいかに恵みに富んだ土地であるかを教え、郷土愛をはぐくむことになる。実際この畑でとれるフランケンワインを司教が専有したいと思ったこともあって、ヴュルツブルクは競争相手を抑え、マイン川流域で最も重要な都市となった。
フランケンと呼ばれるこの地方の白ワインはここヴュルツブルクで最高の品質のものが採れる。ドイツの白ワインといえばラインかモーゼルの、貴婦人のように上品に甘いリースリング種を主に用いたワインが代表とされるが、フランケンワインの持ち味はやや辛口の、サラリとした切れ味の良さにある。ここヴュルツブルクの土地は痩せている。その痩せた土地に植えられたジルバーナ種のブドウの木は養分を求めて根を地中深く伸ばしてゆく。種族保存の本能で美味い実を付けるために途中の硬い粘土層を突き破り、根はあたかも油田を求めて掘り進められる油井のように土中のミネラルを求めて下へ下へと伸びてゆく。そして根が地下5メートルから10メートル、時には15メートルも伸びたとき、根はその先端の触覚にミネラルの味を感じ取る。そこから根はミネラルを思い切り吸いこみ、根の中央の管を通して幹へ枝へ葉へ、そして実へと送り上げてゆく。ブドウの木が種族保存のために費やした多大な辛苦の成果を人間は摘み取り、土中のミネラルをふんだんに貯めて造り出した芸術品を舌の上で味わうことになる。ヴュルツブルクのヴュルツとは香り、風味を意味し、類縁語のヴュルツェルは根という意味であることを思い出せば、ここヴュルツブルクでブドウの根が深く伸びて行って、その成果がワインの香りであるとは実によく話が出来ている。
司教座が置かれたヴュルツブルクは繁栄を続け、東西を結ぶマイン川の水上交通のみならず、街道がヴュルツブルクに集まった。しかし貨物輸送が鉄道と高速道路と航空機によってなされる今日、かつての街道は観光という、ドイツ連邦共和国にとって無視できない額の収入をもたらす分野に於いて、新たな役割を担うことになる。フランクフルト・アム・マインの巨大な空港に着いたアメリカ人や日本人観光客は快適な観光バスに乗ってアウトバーンを一時間あまり東南東に走り、ヴュルツブルクに降り立つ。近年あまりにも有名になったロマンティック街道の起点に来たことで人々は歓喜し、これから南に400kmの行程のことや、街道の終点で待っているノイシュヴァンシュタイン城のことに思いを馳せるが、この時彼らの頭の中には南ドイツはヴュルツブルクから始まるのだという、ドイツの地理的というよりは文化人類学的な、あるいはそれほどアカデミックな表現をせず郷土学とでも言ったほうがいいような地図が半自動的に作られていることにまだ気づいていない。
ドイツ人にとってヴュルツブルクから南ドイツが始まると考えることは実に無理がない。ヴュルツブルクはバイエルン王国北端近くに位置し、大げさに言えば、ただし文化的意味でのことであるが、プロイセンを領袖とする北ドイツ集団の侵攻から王国を守る最前線の砦であった。教会の立場に立ってもこれより北にフルダなど、いくつかカトリック勢力の拠点はあるが、カトリック信者が多いのはやはりヴュルツブルク以南の地域である。だからロマンティック街道の拠点をヴュルツブルクに置き、これから南に観光ルートを整備することはドイツの役人、観光業者、観光する大衆にとって自然の発想であった。もちろんヴュルツブルクから北にも観光地は沢山ある。だが、例えばフランクフルト近郊のハーナウから北へ伸び、グリム兄弟ゆかりの都市を結ぶドイツ・メルヘン街道とロマンティック街道を一本に結びつけることは、商才に長けたアメリカ人や日本人には造作ないことであっても、当のドイツ人には発想出来ないことなのである。
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レジデンツ内のバロック様式教会。 |
旅の始まりのヴュルツブルクで人々はドイツ・バロック・ロココの粋、司教のレジデンツ宮殿を訪れる。階段の間に足を踏み入れたところで人々は天井に描かれた世界最大といわれる天井のフレスコ画に感嘆の声を上げる。宮殿付き教会では華麗な大理石の支柱の列と、神の国の富裕と栄光を象徴する金箔の装飾、その間を飛び交う白い天使の群れの見事さに目を奪われ、声も出ない。彼らにとってそれが17〜18世紀に造られたオリジナルでなく、第二次世界大戦で破壊され新たに造り直したいわばまがい物であっても、だからといって賞賛の声がトーン・ダウンすることはなく、いやむしろここまで忠実に再建したことで賞賛の声は倍加するし、執着気質とでも言うべきドイツ人の執念は他国人に半ば驚きを伴って敬嘆される。ホストのドイツ人もそこは心得たもので、戦争中の爆撃で灰燼に帰したこの芸術的建築を、如何に並々ならぬ忍耐力と執念で再建したかを最大限宣伝する一方、再建された芸術品については、聞いているうちにオリジナルと錯覚するばかりの見事な説明をする。かくして南ドイツの真ん中を南北に貫くロマンティック街道は大成功を納めた。
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レジデンツを庭園よりみる。 |
最後にヴュルツブルク大学についてほんのすこしだけ触れておこう。いま大学は2002年の創立400年祭に向けて準備に追われている。既に5人のノーベル賞受賞者を輩出した。5人に優劣が付けられようはずがない。だが知名度と受賞順位についてはあまりにもはっきりしている。ヴィルヘルム=コンラート=レントゲンは1901年、制定されたばかりの第一回ノーベル物理学賞を受賞した。真空放電の研究をしていた彼は、1895年ある種の放射線が不透明体を通過することを発見し、この放射線にX線と名前を付けた。彼は人類がX線のお陰で、今日見られるほど多大な恩恵を被ることは想像しなかったであろう。しかしX線の医学での利用は急速に広がった。肺病変の診断で、胃透視検査で、あるいは骨折の診断で、あるいは歯周病変の検査で紫外線より波長が短く目に見えないこの電磁波は、医者が通過と言わず透過と呼ぶ特性に従って一瞬のうちに我々の身体を突き抜ける。慎重にコントロールされた最小量のX線が身体を貫くと、少なくともその時点では被検者は痛みも熱も感じない。だが医者がこの操作を被爆と呼ぶからには危険も併存し、その危険性ゆえにX線はガン治療にも使われることを我々は知っている。このX線がレントゲンというドイツ人物理学者によって発見されたことを知らぬ人はほとんどいないが、それが南ドイツの中都市ヴュルツブルクで、彼が聡明なフランケンの人であったことを知る人は少ない。