1/6 2003掲載

v.K. レポート


 みなさん、明けましておめでとうございます。神経科医の舩津邦比古です。
12月29日の伝言板で、駄才小寒さんが私たちの中欧都市紀行記を、紀行編最優秀賞に
選出されたのは、最近のあふれるような伝言板の中で、危うく見落とすところでした。
駄才さんと、賞の決定にお口添えをされた魔女りんさん、はなパパさん、あるいは他にも
コメントされた方がおられたかもしれません、どうもありがとうございました。
 はなパパさんにはその前にも一度コメントをいただいておりました。
二度にわたってコメントいただいたことと、お礼がこんなに遅くなって失礼になった分を取り
返すべく、この場にて厚く厚く御礼申し上げます。
 タイトルフォトは昨年6月ローテンブルクで同行していた娘が見つけ、この日のために準
備していた一枚です。 年が替わったのでタイトルも少し変え、ドレスデンの紹介を続けます。
 
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<ドレスデンの復活_5:R氏とレストランに行く>
 


 私達が階下に降りて来ると、夫人は既に身支度を整えていた。実はR氏夫妻はこの頃三
晩連続でコンサートに行くことになっていて、この日の夕べは中日であった。何のコンサ
ートか尋ねなかったが、三晩通しのコンサートだからチケットも高価なものであろうし、
夫妻は前々から楽しみにしていたに違いない。R氏は私たち親子のために今夕のコンサー
トをキャンセルし、夫人だけが行くことになった。私はそうしてまで私たちを迎えてくれ
るR氏に、心苦しくも申し訳なくも思ったが、彼のもてなしに出来うる限り豊富な話題の
会話を続けることで応えようと、心に決めた。ヨーロッパでよくある夏の夕べのコンサー
トのことだが、日本だったら三夜連続コンサートと謳い、誰も違和感を感じないであろう。
しかし夏のヨーロッパには、朝昼夕夜四つの時間帯があることを思い出さねばならない。
この時期(六月初旬)ドレスデンが夜のとばりに包まれるのは午後十時近くなってからで
ある。人々は夕方の淡い光(アベントデメルンク)の中で生活を楽しむ。この日のコンサ
ートも開始時にまだ陽は高いであろう。だから本日のコンサートを第二夜とは言えない。
かといって第二晩とか第二夕という言い方は日本人には馴染みがない。
 
 そういう事情なのでR氏と私たちはレストランで食事することになった。

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ドイツ統一前初めてこの地を訪れた時、東ドイツでは外食の習慣がないのかと重ねて尋ね
る私に、R氏は淡々とした口調で、しかしきっぱりと、来客は家庭でもてなすのが最高の
歓迎だと言い切った。ところが統一後の1993年再びドレスデンを訪れた時、私たちは早
くもレストランで夕食を共にした。その時のことは今でもはっきり覚えている。R氏の提
案であった。場所はこのリビングルームだった。明日はザクセンのスイスへ出かけよう、
さて夕食はどうしようかという段になった。
「うんそうだ、明日は外で食事をしよう。ヴィア・エッセン・ドラウセン!」
R氏が突然明るい声でこういった時、膝をポンと叩いたように記憶が残っているが、後か
ら私が勝手に創りあげた想像かもしれない。そんな時代劇にでも出てきそうな大仰な仕草
を添えて記憶に残っているくらい、私は唖然とした。彼は以前自分が言ったことを覚えて
いないようだ。やはり彼らは耐えていたのだろう。統一は人の心をそんなに開放したのか。
 その時行ったのは風光明媚な岩山の上にある大きなレストランだった。立派な建物だっ
たので統一後出来た建物かと思ったが、R氏も学会で一度来たことがあると言い、確かに
宿泊施設に加え会議施設もあるようだった。社会主義統一党が、幹部の会合や研修に使っ
ていたのかもしれない。
 
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 そういうエピソードが既にあったので、この日外で食事をすることをごく自然に受け入
れることが出来た。レストランは歩いて10分足らずのところにあった。途中はずっと住
宅街だったが、都心部に見られる一ブロックを占領するような大きな集合住宅でも、社会
主義政権が残した素っ気ない高層住宅でもなく、どれもが庭付き一戸建ての(ドイツの通
例として二,三世帯が住んでいるかもしれないが)手入れの良い住宅だった。瀟洒で剥げ
落ちた壁など無く、庭の芝生はきれいに刈り込まれ、窓辺には花が飾られている。旧西ド
イツでは普通だがこちらでは昔はなかった風景だ。これらの家々は最近建ったのであろう
か、それとも改修してきれいに甦ったものだろうか?にわかには判断し難いくらい家々は
手入れが行き届いていたが、それらが大半改修されたものであることが徐々に解ってきた。
 
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 上に掲げた写真はルターが宗教改革を起こしたことで有名な町ヴィッテンベルクにあ
る、画家ルーカス・クラナッハ屋敷の中庭である。左が東ドイツ時代、右が統一後の姿で、
その修復ぶりにはこれが同一物かと見まがうばかりの、目覚ましいものがある。ここは観
光資産的価値があるので特に念入りに修復したであろうが、これを見れば今レストランへ
行く道の両側に建つ家々も、ドイツお得意の骨組みだけ残して、あとは新築と見まがうば
かりの徹底的修復の成果であることは間違いない。


 
(古い木組み建築の改修。各階層の壁が構造体になっているのがよく解る。
修復後ロマンティックなホテルなどに生まれ変わる。いずれも南独テュービンゲンにて)
 
 東の人達は統一後政府から様々な経済援助を受けたと聞いている。元来清潔好きの民族
性だから、人々は早速我が家の修復に着手したのであろう。しかし東の人々にその技術が
必ずしもあるわけではなく、結局西から来た建設業者の手に、金は流れていったのではな
かろうか?そして東の人達は依然、経済的に困難な状況が続いている。給与は西の約80
%に抑えられ、失業率は18%前後と西の二倍の高率が続いている。
 
DD47.jpg狩猟の館 モリッツブルク