1/24 2003掲載

<ドレスデンの復活_8:聖母教会 Frauenkirche (1)>


(ブリュールのテラスの前に停泊するエルベ川の客船群。右聖母教会。左市庁舎。1932年。
船舶の煙突は橋梁をくぐる際に後方に大きく傾けられるようになっていた。)
 
 プロテスタント派の本山として聖母教会Frauenkirche は1726年から1743年迄の歳月をか
けて豪華なバロック様式に建立された。その巨大な石のドームは以後200年間ドレスデンの甍の
上にそびえ、ザクセン王国首都のランドマークであった。北海からエルベ川を遡って来た船人も、
プラハからヴルタヴァ川−エルベ川と下って来た人も、聖母教会、王宮教会、市庁舎と幾つもの
壮麗な尖塔がそびえ、ブリュールのテラスをかつては貴族が従者を引き連れ、時代が下っては新
興富裕な市民階級の人々が忙しげに行き交う様を見ては、ザクセンの首都の繁栄ぶりに驚嘆の
声をあげない人はいなかったであろう。
 

 1945年2月13日から14日にかけての深夜アメリカとイギリスの空軍はドレスデンを空襲し
た。爆撃は10時間に及び、ドレスデン旧市街は建物の壁だけを残す廃墟となり、一般市民の犠
牲者は五万人に上った。私のミュンヘン時代の恩師M博士は当時ドレスデンの南方約5kmのピ
ルナという近郊都市に住み、ドレスデンにヴァイオリンを習いに通う少年だったが、その夜は数え
きらないほどの爆撃機が繰り返しドレスデン上空に飛来し、爆撃音と爆発音が絶えず、ドレスデン
の空は赤々と燃えさかっていたそうである。聖母教会は爆撃の終わった時点では、傷ついた体を
こらえるようにその偉容を保っていたが、燃えさかる炎の熱に弱った壁と柱は耐えきれず、二日後
巨大なドーム状の屋根は大音響と共に崩れ落ち、後には瓦礫の山が残った。
 
DD83.jpgDD83
 復旧計画は第二次世界大戦終了後間もなく始まった。ドレスデン復旧のための委員会が作ら
れ、東ドイツが成立してからは政府の手で王宮教会やオペラ劇場が昔の姿を取り戻した。しかし
それより先の再建は遅々として進まず、聖母教会は瓦礫の山の周りに僅かに三カ所の壁を残し、
廃墟の前に立つマルチン・ルター像が天を睨むままであった。
 1989年のベルリンの壁崩壊は状況を一変させた。同年早くも聖母教会基金が設立され、全世
界に再建のための寄付を呼びかけた。現在までどれくらいの寄付が集まり、どれくらい政府が資
金を出したか、残念ながら手元に資料がないが、かわりに寄付の一例を挙げることが出来る。
 
 1999年のノーベル生理学医学賞はアメリカに住むドイツ人、ロックフェラー大学のギュンター・
ブローベル教授が受賞した。彼は8歳の時にドレスデンの炎上と聖母教会の崩壊を目撃したとい
う。フランクフルトやテュービンゲン大学で研究生活をした後アメリカに渡った彼は、細胞レベルの
蛋白質輸送の解明に貢献した。ごく解りやすく要点を紹介すると、新たに生成されたタンパク質は
いわば指定された「町名と番地」を持っており、それを頼りに細胞内の自分の機能する場所へたど
り着くということらしい。
 
(DD83で左側に残っていた壁が、再建された
教会左隅部分に相当)
 ブローベル教授はそれによって授けられた賞金の大部分、正確には160万マルクを聖母教会
に、さらに10万マルクをドレスデンのシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)の再建のために、アメリカ
の民間団体”Friends of Dresden”に寄付した。Medical Tribune紙のインタビューに答え教
授が語ったことは、ドイツの知識人が今日自覚している態度を端的に示しているので、以下に紹
介する。
「釣り鐘状の円蓋を持った聖母教会は、まるでオペラハウスのようでした。それを見たとき、私は畏
敬の念に打たれました。
「私はユダヤ人ではありませんが、シナゴーグに寄付したのはドイツでユダヤ人が、健全な生活を
営むことができればよいと考えるからです。ヒトラー以前の科学におけるドイツ人とユダヤ人の相互
関係は、創造性に富む非常に好ましい共生関係でした。アインシュタインもこの関係の中から生ま
れました。
「科学者が政治に無関心でいることはよいことではありません。ドイツの科学者や知識階級は、ヒト
ラーの台頭に対して受動的でしたが、これはドイツにとって非常に不幸でした。科学者は社会の
ために何かしようという健全な意欲を持ち、過去のような出来事が二度と起こらないように努めるべ
きです。」
 
DD85.jpg DD86.jpg
 ドイツでは主要な建築物はたいてい石造りなので、第2次世界大戦で都市が破壊されると膨大
な瓦礫が生まれた。1972年夏期オリンピックが開催されたミュンヘンのオリンピア公園には高さ
三,四十メートルの小高い丘がある。表面は緑の芝生で覆われ、樹木も生い茂って人々が散策を
楽しみ、冬季には子供達が坂を利用した橇遊びに夢中になるが、実はこの丘は市内の瓦礫を運
び込み、その上に土をかぶせて造った人工の丘である。一方では彼らは崩れ落ちた石を一つ一
つ丁寧に積み上げて都市を復興させたとも聞く。ミュンヘンの主要な建築物も、ニュルンベルクの
中世風街並みも、ドレスデンのオペラ劇場も彼らの忍耐強い復興作業の末、再建されたものであ
ろう。そして今同じ手法が、ドレスデンの聖母教会に対しても、取られているようである。
 小山を成していた聖母教会の瓦礫は、見えている石塊に全て番号札が張られ、石塊と石塊の
位置関係を正確に記録するために幾方向からも念入りに写真が撮られ、掘り出された石塊は番
号順に棚に並べられた。まるで事故後の現場検証のようである。膨大な量の文書と記録、例えば
写真が生まれる以前夥しい数の風景画に描かれた聖母教会の姿なども、この教会の再建を可能
にした。わずかに形骸をとどめている三方の壁は補強され、再建される本体の中に組み込まれ
た。(続く)

 
oooooooooooooooooooo
oo  von Koenigswert
oo  TEL 0942-43-5452
oo  apfel = apple
oooooooooooooooooooo