2/3 2003掲載

<ドレスデンの復活_9:聖母教会 Frauenkirche (2)>

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(DD91 絵画に見る聖母教会)
 前回聖母教会再建費用については、資料が見つからず言及できなかったが、気がつくと昨年
ドレスデンを訪問したとき買った本の中に記載があった。本といっても堅苦しい本はさらさら読む
気無く、カラー写真がいっぱい入ったわかりやすいガイドブックだが、それによると再建に要する
費用は少なくとも250万マルクとなっている。これが1990年頃の試算とすれば、当時のレートで
換算すれば約180億円、現在のユーロを介した換算でも約162億円になる。少なくともということ
であるから実際は200億円を超えることであろう。ドイツ統一にはどのくらい金がかかるか、予測も
つかないので、聖母教会再建は出来うる限り民間の寄進に委ねることになり、統一後まもなく発足
した民間団体「ドレスデンの呼びかけ」が、その任務を担うことになった。彼らは色々な品物例えば
記念金貨、ビデオ、T-シャツ、スカーフ、パズル、ゲーム、錫製の皿やカップ、CDなどを販売し
て、寄進を呼びかけた。インターネットを介して私はネクタイピン、家内は腕時計を買った。娘は模
型の聖母教会組み立てキットを買った。
 
大きな成功を収めたのは「あなたの寄進によって壁の石一個が積み上げられます」という呼びか
けであった。寄進者には「あの石があなたが寄進したことになります」と石の位置を示した教会の
図解が交付されるので、具体的に寄進の成果を目で見ることが出来る。6万人を超える人がこの
呼びかけに応じ、石一個につき約19万円を寄進した。そのほか約128万円を出せば教会内に
あなたの名前の刻まれた席がリザーヴされる等々の呼びかけがある。もちろん個人だけでなく、ド
イツの内外の多くの企業からも寄進が寄せられた。こうして集まった寄進は建設予定額の1/4に
達した。
 
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(DD92)
 聖母教会の再建に掛ける合い言葉は「平和の架け橋」と「民族和解」であった。特に後者は統
一前の西ドイツにあっては国是のようなものであった。ドイツ人が直接迫害した民族を、ドイツを中
心としてほぼ時計回りに挙げると、多少異論はあるかもしれないが、以下のようになるであろう。
 エストニア人、 ラトビア人、 リトアニア人、 ロシア人、 白ロシア人、 ポーランド人、 
 ウクライナ人、 チェコ人、 スロバキア人、 ルーマニア人、 ハンガリー人、 スロヴェニア人、
 クロアチア人、 セルビア人、 ギリシア人、 スペイン人、 フランス人、 ベルギー人、
 オランダ人、 イギリス人、 デンマーク人、 ノルウエー人、、。
オーストリア人も、ドイツに不本意に併合されてしまったという立場を取るならば、あるいは被迫害
民族に加えられるかもしれないが、実際にはそのようには見なされないようである。
 戦争に負けた結果、今度はドイツ民族が迫害され、追放される立場になった。現チェコのズデ
ーテン地方から、現ポーランドとロシアにまたがる東プロイセンから、ドイツ人は追放された。歴史
的に中世からドイツ民族は東ヨーロッパやロシアに広く入植していった。その代表的なものはヴォ
ルガ川下流のヴォルガ・ドイツ自治共和国である。そこにはエカテリーナ女帝の時代から(彼女は
ドイツ貴族の出身)200年近くの歳月を掛けてドイツ人が入植していたが、独ソ開戦と同時にその
地域に住む80万人余りの人々が現カザフスタン共和国へ強制移住させられてしまった。これに
関しては北海道大学スラブ研究センターの学術論文がインターネット上に公開されており、日本
語で読むことが出来る。
 
 これらのドイツ人は第2次世界大戦終結後着の身着のままで住み慣れた土地を追われ、長い
苦難の旅の末、今のドイツに到着した。ドイツでは伝統的に国籍認定に血統主義を採用していた
が、この事はドイツ系難民の受け入れを容易にした。しかしこれは長年ドイツに住んでいるトルコ
人両親から生まれた子には、ドイツ国籍が与えられないという、他の面の問題を有している。この
ような経緯があるため旧西ドイツの法律では難民に寛容であったが、それは1990年代に入って
東欧社会主義圏の開放と同時に多くの難民を受け入れ、さらには中近東やアフリカの経済難民
をも受け入れるという、今まで考えもしなかった新たな問題に直面することとなった。
 
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(DD93 試作中のフレスコ画.女性の右足が鉄骨上に踏み出している?)
 このような苦い体験から、あらゆる機会に民族和解が声高に唱えられた。その代表が1985年、
第二次世界大戦終結40周年記念式典における、当時のリヒアルト・フォン・ヴァイツェッカー西ド
イツ大統領の演説であろう。彼は単に民族の和解にとどまらず、第二次大戦中迫害されたあらゆ
る人々すなわち六百万人を超すユダヤ人、意見の対立のため強制収容所に入れられた人、夫や
兄弟や息子を戦争で失った女性、ジプシー、身体障害者、精神病者、同性愛者などの弱者に言
及し、それらの人々の名誉を回復した。彼の演説の中の一節「過去に目を閉じる人は現在に対し
て盲目となる」は名言として、度々引用されている。
 
 聖母教会は既に1996年に地下部分が完成し、小ミサや式典やコンサートが開始された。この
「地下教会」は2002年8月の洪水で被害を被ったが、2002年10月には復旧された。2000年
には地上92.8メートルの円蓋上にそびえる十字架が、英国国民を代表してケント公爵から寄贈さ
れた。ミレニアムの移り目2000/2001年にはメインホールに1200名の参加者を集め、初めてのミ
サが執り行われた。2002年春には円蓋内部にフレスコ画が試験的に描かれた。2002年12月に
は六体の大きな鐘が鋳造された。ミサに欠かせないオルガンは名器ジルバーマン・オルガンをオ
リジナルの姿に再現するため、多数の技術者が投入されて製作が進められている。
 
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(DD94 絵画に見る聖母教会)
 聖母教会再建はドレスデン生誕800年となる2006年に完了する予定である。瓦礫を一つ一つ
掘り出して丁寧に積み上げていくドイツ人のやり方を、日本人はどう見ているだろう?日本はほと
んど常に、壊して更地にして最新式建物を造るやり方である。「地上げ」という日本語が生まれた
頃特にそうであった。ただ単に保存に値しない紙と木の小屋であったからか?そうではなかろう。
北九州市の小倉城天守閣は、外観こそ原型が再現されたが、内側は似ても似つかぬコンクリート
造りである。これで先祖の武家社会に思いを馳せろというのであろうか?馬籠や妻籠のような美し
い街はかつて至る所にあったという。筑後吉井は急いで街並み保存に乗り出し、どうにか間に合
った。だが今日日本のどこの街角に立っても個性は失われて既に久しく、視覚を襲うのは色と形
の暴力的なカオスでしかない。
 2006年にはサッカー・ワールドカップがドイツで開催される。聖母教会の竣工式典は盛大なも
のとなるであろう。
 
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(DD95、DD96)
[聖母教会隣接地での考古学的発掘調査]
 聖母教会再建作業が始まると、教会西側に遺跡が発見され本格的考古学的発掘調査が行わ
れた。発掘対象となった区域は3200平方メートルに及び、調査では画期的発見が相次いだ。ド
レスデンの名が歴史記録に現れるのは12世紀であるが、調査ではそれを100年ほど遡る11世
紀の遺跡があることが確認された。最古の遺跡は墓地で、12世紀に歴史に現れるドレスデンは
墓地に隣接して集落ができたらしい。しかもその時代ここに埋葬された人々はこの地方で今まで
生活の跡が確認されていないスラブ系キリスト教徒であることもわかった。発掘された人骨は91
体分に相当するが、埋葬された時代は様々である。墓地に隣接して教会と病院があったこともわ
かった。病院は15世紀に破壊されたと考えられる。陶器、道具類、中性の玩具なども発見された。
(DD97 東ドイツ時代の国民車トラバント)
 
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