9/3 2001

2001年 アクエリアス クルージング ー野崎島―

アクエリアス  春口慎一
9月2日、ハウステンボスから博多への回航も済んで、夏季クルージングが終わるとともに季節も夏から秋に変わりました。
五島などにクルージングしたあと、いったんハウステンボスのハーバーに置いてきて、9月のはじめに回航してくるのが近年の習慣になっています。
今年は、野崎島という島の1300年に及ぶ島に住む人々と神社との歴史の終焉を知り、いちだんと印象に残る“おもいでの夏”となりました。
映画「おもいでの夏」の主題歌の、哀愁にみちたメロディが聞こえてきそうです。

―おもいでの夏― ( 原題名 The Summer Knows)
http://www.asahi-net.or.jp/~jj8k-nkmc/omoide-natu.htm
(クリックするとメロディが流れます)

映画「おもいでの夏」( 原題名Summer Of ‘42)もいい映画でしたね。
この映画のジェニファー・オニールは少年を大人に導く役柄の女性としては最高でした。
夏が過ぎ、秋の訪れとともに少年は大人になり、二度と帰らない日々を悟った・・


我々は、今年の夏、野崎島の人も神々も、もう、帰ってこないことを知りました。


野崎島は五島列島の北端部にある島です。
我々、アクエリアスグループは20年間以上も、夏になると、この島に通っていました。
たとえトカラ列島など、より遠くの島々に行ったとしても、かえるに、ちょっとだけでも、この島に寄っていました。
この島のことを紹介しようと思います。

いま、この島の住民は、一世帯二人、たった一組のご夫婦だけ。
1300年も続いてきた島の神社を守ってきた神主さんのご夫婦です。
氏子は誰一人、いません。氏子は全員、島を離れました。
神主だけの神社です。
しかし、このご夫婦も寄る年波に勝てず、何十年間も日課としていた神社への参拝ができなくなり、今年の11月に島を離れることになりました。
神社は高い山頂にあって草の生い茂った山道を片道2時間もかけて登っていく必要があります。特に夏は草がすごくて、道なき道、状態、山ヒル、まむし・・・
高齢の神主さんにはつらい日課でした。
毎日の参拝は何年か前から途絶えていました。

野崎島は行政区としては小値賀町に属します。
※ 五島の地図参照

http://digitalstudio-pro.com/kuwagatajima/syousai/map.html

小値賀町は長崎県一の、あわびの水揚げ高を誇る町です。
五島産の干しあわびは中華料理の材料として、江戸時代まで日本から中国などへの最高級の輸出品でした。
古来から島は豊かな海の幸に恵まれていたので、この島に昔から人が住み着いていたことは想像に難くありません。
最盛期には600人〜700人の人が住み着き、かなりのにぎわいを見せていたということです。

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写真(1)海の写真

野崎の海は美しい。砂浜も白くてキレイ。
急峻な山容がその美しい海に落ち込み、平地がほとんどない島です。
神社に行くには、こんな急峻な山を2時間もかけて登ります。


福岡高校に学び、晩年の2年間を能古島で過ごすなど福岡にもゆかりの深い作家、檀一雄の自伝映画「火宅の人」をご覧になった人は、本妻(いしだあゆみ)と愛人(原田美枝子)との葛藤に疲れ果てた主人公(緒方拳)が放浪の旅に出て、旅先で知り合った女(松坂慶子)の出身地である荒涼とした離島の廃村に行くシーンを覚えている方も多いと思いますが、そのロケ地となったのが、この野崎島です。
見棄てられた人家、荒れ果てた教会などが印象的な映画でした。原作では本島である小値賀島が舞台ですが、野崎のほうがイメージにあっていますね。
昭和60年(1985年)に撮影された映画のシーンと今の風景とを比べてみると、たかが15年くらいで大きく変わりました。
人がいなくなった。離島を旅していると、どの島でもそうです、過疎が進み人はいなくなる。

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写真(2)野崎港全景

野崎港全景。野崎島は港に適した地形でなかったことも人が住みにくかった一因かもしれません。普段はきれいな港ですが大雨が降ると赤土まじりの土砂が流れ込んできます。港はここだけです。
手前のほうに見えるフェンスは後述する“鹿除けフェンス”
よく見ると左端には海中にまで張られているのが分かります。さびでボロボロ。
海中にこんなフェンスはムリってことは工事する前から分かっているでしょうに。

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写真(3)アクエリアスアップ

写真に見えるこの家々には、人は住んでいません。すべて廃墟です。
みんな島から去っていきました。
人がいないので漁船もいません。静かな港内です。
アクエリアスは、いつも洗濯物を干していて、人呼んで“難民船”。

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写真(4)教員住宅あと

島で唯一のコンクリート建築、教員住宅あと。
どの離島でも子供の教育は最優先でした。小学校は「学校」というだけでなく離島でのコミュニティの中心です。小学校を維持するための涙ぐましい努力は離島では、よく聞くことができます。
左端の木造建築物が朽ちているのは普通の民家のあとです。
この島は台風が多く、まともに風にあたるのでいので倒壊しやすい。
人が住まなくなってから、もう30年は経っています。

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写真(5)ボート

港のすぐ近くでも海の中は驚くほど魚影が濃い。
石鯛やクロなどがたくさん。もちろん、あわび、さざえも
今年、子供用のおもちゃみたいなヤスで獲った獲物は巨大あなご、かわはぎ、おこぜ、たこ・・・
何年か前、大きなタコを獲ったので、“たこ焼き”を作ろうとしたら、当然に山芋がありませんでした。
山芋の摩り下ろしが入ってない、たこ焼きは許せないので、1時間もかけて隣の島まで山芋を買いに行ったことがあります。
時間だけは、たっぷりあるのがヨットの良さですね。

5年くらい前ですが、まだ島に10人くらいの人がいたころ、港近くの一軒の家にお風呂を借りにいくと、一人暮らしのお年寄りの女性がいらっしゃって、
「どうぞ、どうぞ。ご自由に風呂をお使いください。」
と言われて、風呂場に案内されると、そこは五右衛門風呂でした。
枯れ草と小枝と火吹き竹で火を起こして、薪を燃やし、いい湯加減にして「女性から入りなさいね」と、二人の若い女性に五右衛門風呂に入るしきたりを教えて、先にお風呂に入れていると、しばらくしてバスタオルを巻いて飛んできた。
「あのーぉ、火が消えたんですけど・・・・」
焚き口のところに行ってみると、焚き口いっぱいいっぱいに薪を詰め込んでぎゅうぎゅうの状態。
聞いてみると、少しぬるくなったので温めようと焚き口に思いっきり薪をいっぱいいっぱいに詰め込んだとのこと。
「これじゃ、空気の通る隙間がないよ」
と思いましたが、いまの時代、無理なからぬことです。
お風呂を借りたところもそれから間もなく、佐世保の娘さんのところに身を寄せるようになり、このころが最後の離島ラッシュ。
10人ちょっとの人口が、神主さんご夫婦と老漁師さんご夫婦のたった2世帯、4人になってしまいました。
この4人でしばらくは住んでしていたのですが、昨年の10月、漁師さんのご夫婦は大村湾に面した街に住む長男のところに移り住んで
行かれました。
この人は、なかなか良い漁船を持っており、うでのいい漁師でたくさんの魚が釣れるポイントを知っていて、いつも水揚げの多いことを自慢していました。だから、お酒を下げてあいさつにいくと魚をたくさんいただきました。
離島の原因は高齢化と病院通いの不便さ、自分の漁船で片道1時間半をかけて佐世保の病院に通っていましたから。燃料代もバカになりません。
昨年の夏、最後のあいさつに行くと
「船は650万円で売った。いま誰も中古の漁船を買わんので値がつかん。漁はやめきれんので小さな小船を買って息子のところでほそぼそと魚を釣って暮らすよ」と淋しそうに笑っていたものです。


<残された教会>
島の中央部、野首という地区にレンガ造りの立派な教会が建っています。しかし、信者は誰一人、いません。
氏子より先に島を去っていきました。
この教会は明治期に移住してきたカソリック教徒たちが貧しい生活のなかから寄進をして建立した教会です。
いはば、遅れてやってきた神でした。
先述した神主さんが朝な夕なに祝詞

をあげていた「沖神嶋(おきのこうじま)神社」は西暦704年に建立されています。
この島のカソリックの歴史は、それに比べると千年以上も違います。
江戸から明治になり、やっと信教の自由を得たとカソリック教徒が新しい新天地を求めた人々がやってきたのです。
もともと、平地の少なく痩せた土地の島なので遅れて来た移住者たちは条件の悪いところに住みつくしかなく、港から神社側とは正反対に1時間半も歩いた島の南端の急峻な山地を開墾していました。
そこで電気も水道もない暮らしのなかで、こんなに立派な教会を寄進したのです。

この島が過疎になった原因は、嫁がこない、子供の教育、病院がないなどのいくつかの要件があるのですが、そのひとつに集落に電気、水道が来たことがあります。
それまで、敬虔な信仰と自給自足に近い生活をして、立派な教会も建立したのに、電気、水道が来たことにより現金収入が必要になったから島を離れざるを得なくなったとのことです。
いちど、電気、水道を知ったからには昔の信教だけの生活は耐えがたかったのでしょう。

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写真(6)野首天主堂 遠景

野首天主堂。
鉄川与助という、協会造りに生涯をささげた五島出身の棟梁が見習い時代を過ぎ、独立して初めて手がけたレンガ造りの教会です。
我々が、20数年前、はじめて島を訪れたころには、教会の周囲には廃棄された人家がそのままの形でたくさんありました。放置された人家は台風などで倒壊し、朽ち果てていましたが見栄えもあってか、教会の周囲だけは撤去され整備されました。

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写真(7)野首天主堂近景
写真(8)野首天主堂アップ

天主堂正面。荒れ放題でしたが県の文化財に指定されてから少しは整備されるようになりました。

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写真(9)野首天主堂内部

いまではミサが行われることのない教会内に、ステンドグラスは、毎日毎日、柔らかな光を投げかけています。

<鉄川与助>
天草や五島の島々を旅すると明治から昭和の初期にかけて造られた数多くの教会を目にします。
そこでいつも目にするのは、鉄川与助という名前です。
鉄川与助は五島出身の大工の棟梁で生涯を通じて仏教徒であったにもかかわらず、最初は外国の神父の教えをうけ、その後、独自の努力を重ね教会造りに精通するようになり長崎原爆で崩壊した旧・浦上天主堂など、たくさんの教会建設に携わってきました。
鉄川与助の造った天主堂をふたつ紹介します。

<大江天主堂>

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写真(10)丘の上の大江天主堂

天草の大江にある大江天主堂。
小高い丘の上に建っていて道から仰ぎ見る形になります。

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写真(11)大江天主堂近景

白い壁に黒く見えるのは墓。日本式のお墓に十字架がついています。
室内は参観自由です

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写真(12)歌碑2基

大江天主堂の敷地内にある吉井勇の歌碑、2基。
吉井勇は明治40年、師、与謝野鉄幹に連れられて、仲間の北原白秋たちとここを訪れました。


右側の古いほうの歌碑には

白秋とともに泊まりし天草の大江の宿は伴天連の宿と、書いてあります

その下にある四角い碑文の内容は次のとおり

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写真(13)歌碑の文面

この旅は、全員が南蛮文化に強烈な印象と影響を受けて、「五足の靴」として後世に残り、北原白秋の「邪宗門」などの誕生のきっかけとなったそうです
当時の天草は、多分、大半が、わらぶき屋根の“そまや”だったのでしょうね。そこへ白亜の教会と天草弁を話すフランス人の神父との出会いは作家たちの想像力をかきたてたでしょう。
もっとも、鉄川与助作のこの教会の完成は、この旅の少しあとです。

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写真(14)新しい歌碑のアップ

「五足の靴」の旅の何十年かあと、5人のうち、たった一人、生存していた吉井勇が、再びこの地を訪れて過ぎし日を回想した句です。
こんな文面に惹かれる歳になったかも・・・・・


<崎津天主堂>
大江天主堂近くに崎津天主堂という鉄川与助作の天主堂があります。

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写真(15)海の近くの崎津天主堂

この天主堂は、「からゆきさん」をテーマにした映画「サンダカン八番娼館・望郷」の冒頭に登場します。
映画当時(昭和49年だったか)の風景では、天主堂の周りは、こんなに家はなかった・・・・
いま、ちまたでは「ジャパゆきさん」のルーマニアパブとかロシアンパブとかが話題ですが「からゆきさん」の時代も、そんなに遠いことではないですね。
ちなみに、「からゆきさん」は島原の口之津港から石炭運搬船に乗って密航して行きました。パスポートを持って飛行機で来日できる現代が、まだ、ましかも。
口之津港は三池港が掘削まえで浅くて、大型船が接岸できず、三池炭鉱の石炭をいったん、口之津まで小船で運んで口之津から輸出していました。島原と天草は昔から結びつきが強く、島原の口之津と天草の鬼池はフェリーで30分の距離です。
「島原地方の子守り唄」の二番に出てくる
“はよ寝ろ、泣かんでおろろんばい 鬼ん池んしょうすけどんが連れん来らるるばい”
の、しょうすけどん、とはからゆきさんを集めてまわる有名な女衒だったそうです。

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写真(16)崎津天主堂アップ

崎津天主堂内には、めずらしく畳がひいてあります。(その上に椅子がありますが)
写真撮影はダメですが参観は自由です。(大江天主堂と同じです)
どちらも、この地域の信者さんが毎日、祈りをささげている“現役の”教会です。
野崎の野首天主堂と比べて、どんなに幸せな教会であることか。

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写真(18)神主さんと

神主さん宅に、みんなで最後の挨拶にいきました。愛犬、チョコの綱を持っているのが岩坪神主。チョコは人なつっこすぎて、番犬には無理。

<次の支配者は>
異国の神が去り、1300年もの歴史が閉ざされたあとに来る支配者は・・・・・・

それは、間違いなく“鹿”です。
もともと、鹿は神の使いとして神社の近くにだけ生息して大切にされていました。
そのころは島内での人と鹿との住み分けもうまくいっていたようです、鹿はもともと警戒心の強い動物で、野生の鹿はめったに人に近寄りません。
我々が、最初に訪れたころには、もう、人間が家や畑を高い石垣とネットで鹿からの食害を防御していました。
しかし、偶然に道で鹿に遭遇すると、鹿はあわてて森の中に逃げ込んで行ったものです。
人が少なくなるにつれて鹿が接近する距離が短くなりました。
最近は、近くで会っても悠然と草をはんでいます。

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写真(19)ワイルドパーク入り口
なんだかジュラシック・パークの雰囲気でしょう。
フェンスによる境界が人間と鹿の領地の境のはずでした。

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写真(20)鹿フェンス

領地を分ける鹿フェンス。右が人間側、左が鹿側。
人間の領地には道とか家(すべて廃墟です)が見えます。

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写真(21)山まで伸びる鹿フェンス

山の上まで伸びているのが鹿フェンス。写真では分かりにくいのですが
左側の山の中も延々と続いています。
実は能古島も江戸時代、黒田藩の鹿の狩猟地で、鹿と人間の領地を分ける鹿垣が設けられていました。(山中に跡が残っています)
でも、鹿は泳いで人間の領地にやってきたそうです。能古島の東南側に海に突き出ている石積みの跡が、江戸時代の鹿フェンスらしいです。
役に立たなかったらしい。
なお、戦前まで保護されていた能古島の鹿は進駐軍のハンターによって絶滅したそうです。

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写真(22)鹿よけネット

せめて、わずかな面積だけは野菜を作りたかった人々の気持ちが伝わる鹿よけネット。
芝生のように見えるのは、苦労して開墾した畑の名残り。

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写真(23)鹿アップ

望遠レンズでなく、普通のデジカメで撮影したものです。
野生の鹿は、普通、こんなに近くまでは人間を接近させません。
ここの鹿は人間をナメているのです。

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写真(24)草を食む鹿

開墾した段々畑のあとは、急峻な山中に比べてえさを食むのに楽なので鹿も大好きみたい。
鹿も人間も苦労はキライなようで・・・・

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写真(25)覗き込む3匹の鹿

僕が坂を登るとゼイゼイ言うのを見越してからか、向こうから寄ってきた。坂の上は安全だと分かっています。
坂の下の鹿は、もっと警戒心が強い。
賢い!
こちらが監視されているよう。

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写真(26)天主堂の鹿


おいおい、キミは神社の神鹿だったはず、宗旨変えしたのかい?

<自然の限界>
鹿がこの島を、いま支配していますが、問題は、そう単純ではありません。
この島の食物連鎖の頂点は鹿です、肉食獣がいないので食物連鎖という用語は不適切ですが、とにかく人間が去ったあとの頂点の動物です。保護動物なので狩られることもないので、個体数は無制限に増えていくはずです。
しかし、鹿の頭数は約700頭から増えていないみたいなのです。それに、個体の大きさはだんだん小さくなっているらしいのです。
つまり、この島の植生が鹿を養える限界がきているのです。
これ以上、鹿の数が増えても全部の鹿が食べていくだけの草がない。
写真で分かるように、鹿が好む草はすでに食べ尽くされています。
そうえいば、人間の最盛期も600人〜700人だったとのこと。
この島が人間にせよ鹿にせよ養っていける自然の生産量のキャパシティはそれくらいなのかもしれませんね。
自然が養える生物の量には限界があるのですね。
もちろん、地球にも生産量の限界があるでしょう、地球の生産する食べ物をみんなが分け合う時代がやってくるのでしょうね。


追記
<鹿肉について>
伝言板で鹿のジャーキーについての話題がありましたが、鹿の肉はあっさりして美味しいですよ。
野崎島の鹿は保護されているので狩猟して食べることはありません。(昔、がけから、落ちて死んだ鹿を食べたことはあったそうです)
このレポートを書くにあたって、映画「火宅の人」に鹿が出てくるシーンがあったのを思い出して、改めて見てみたのですが、今の鹿と違って、体格が大きくて野性の鹿そのものでした。
(僕が鹿を見る夏と撮影された秋との違いはありますが)
当時は適度な数だったのでしょう。人間が、この地球上での食物連鎖の頂点である以上、人間の人口数を制限するとか、また動物の数も管理するとか、の必要があると思いますね。

鹿肉は冷凍では普通に売られていて、九州でも料理として出す店はあります。
阿蘇などにいくと“鹿肉あります”の看板がでています。
また、屋久島でもたくさんの野生の鹿が生息しています。(人間2万人、鹿2万頭、猿2万匹といわれています)
屋久島では生の鹿肉を刺身として出す店がありますよ。
ニュージーランドとか、牧場で鹿を飼育している国はあります。