3/23 2004掲載

 アクエリアスの航海 〜平戸〜

  

 平戸島と九州本土との間にある平戸海峡は船足が遅いヨットにとっては難所である。

  まず、潮の流れが速い。場所によっては78ノット(1ノット=1,852メートル/時)ある。

 これは比較的大きなヨットの時速と変わらない。(小さなヨットはもっと遅い。ヨットの速さは船の長さに比例する)。

これでは流れが速い場所で潮に逆らって進もうとすると船は前方には進まない。むしろ押し戻されることもある。

 また、船が艇速以上に速い潮の流れに乗ってしまうと舵がきかず、思う方向に進むことができないので暗礁などの回避

 が困難なので危険である。

 風が追い風だとまだしも、強い向かい風で、さらに潮が逆だと平戸海峡を越えることができない。

海峡は満ち潮、引き潮で転流するので、そんなときでも3時間くらい潮の流れが緩やかな場所で潮待ちすればなんとか

 なることが多いのだが、東京など遠路からのゲストを乗せているときは、もともとタイトなスケジュールを組んでいる。

 帰りの新幹線、飛行機を予約していて、陸地がなかなか近づかないと交通の便利な港に着けたりする。

 五島からの帰りがけ、向かい風と逆潮で平戸海峡をどうしても越えきれずに、いったん船を佐世保に置いて陸路で博多

 まで帰り、翌週に船を取りに行ったこともある。

 この海峡は暗礁や岩礁が点在しており、また狭いので本船(貨物船などの大きな船)が海峡中央部に集まって通過するの

 で船の密度が高くなり、大小の船がひしめきあって通過している。

我々は明るいときにこの海峡を通過したいので、平戸を越えて遠くに行くときは平戸通過時間を夜明けに設定して、平戸〜

 博多の距離と所用時間を計算して逆算して博多の出航時間を決める。

 我々にとって、平戸は夜明けのイメージだ。深夜に博多を出航すると平戸で夜明けを迎える。

夕陽は余韻を残して沈んでいくが海上での朝陽は早い。

一瞬で周囲が明るくなる。

夜明けは嬉しい。

 

  平戸海峡の夜明け。平戸側から九州(東側)を見る。

 

夜明け直後の平戸大橋。東の空が赤い。西(右側)が平戸港。

 

 

 戦国時代の終わり、平戸港がオランダやイギリスに開放されたがヨーロッパから回航してきた南蛮船を入港しにくい平戸港

 に入港させた当時の船乗りたちの技量に敬服する。

 動力のない南蛮船は小回りが利かないので港へは小舟に引かれて入港し錨をおろし、積荷も小舟に積み替えて陸におろした。

 

 平戸海峡

 

 平戸港

 

 平戸港は狭い。近くの島を往復するフェリーも接岸に苦労していた。

 

  オランダ桟橋

 

 オランダ商館跡前面にあるオランダ桟橋。積みおろしに便利な場所にある。

沖合いに碇泊している南蛮船から小舟に移し替えられた積荷はこの桟橋におろされた。

 ジャガタラお春もこの桟橋から小船に乗って沖の南蛮船に渡ったことだろう。

 

平戸港入口にある常灯の鼻。昔の灯台。

 

 1636年に長崎に出島が完成して外国貿易の窓口が出島のみに規制されるまでは、平戸は外国貿易の中心地だった。

 特に1609年にオランダ商館、1613年にイギリス商館が開館したあとは賑わった。

 イギリス商館はオランダに押されて1623年に閉館し、オランダ商館も1641年に出島に移っていった。

 平戸の街にはこの頃の色合いが残っていて、街の人々もそれを誇りにしている。

 

 オランダ塀。オランダ商館の目隠しに使われた塀

 

 オランダ塀。右側にオランダ商館があった。

 

  オランダ井戸

  オランダ商館の敷地内にあった井戸

 

 オランダ橋(幸橋) オランダの技術で造られたという石橋

 

 平戸の街で最大の特色は城と寺院と教会が不思議に調和した風景にあるだろう。

 ときを経てきた者が持つ風格が漂っている。

 

 平戸城と教会。お城の右手に教会の尖塔が見える。

 

 寺院と教会

  平戸カトリック教会は鉄筋コンクリート造りで1931年(昭和6年)に建立され、平戸のシンボルともなっている。

  この教会はフランシスコ・ザビエルが平戸を3度も訪れたことを記念し、1971年(昭和46年)には聖フランシスコ・ザビエ

  ル記念聖堂と改名された。

 

聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂。

 境内の殉教者顕彰慰霊之碑が光に輝く。

 

 

 ステンドグラス

 

 平戸殉教者顕彰慰霊之碑。右にフランシスコ・ザビエル像

 

 

  教会からの風景

 

  教会からみると平戸海峡を挟んで九州本土がすぐそこに見える。 

 

 平戸は、また、別れの街でもあった。

 1587年の秀吉によるバテレン追放令以来、家康、秀忠、家光と弾圧が続いたがとどめを刺したのが16371638年の島原の乱

 を契機にする鎖国令だろう。

 この鎖国令により、長崎に住んでいた混血児たちは、いったん平戸に集められて、それからオランダ船に乗せられてバタビア

 (ジャカルタ)に追放されていった。

 追放された人々から日本に出されたジャガタラ文というものが平戸観光資料館に残っている。

 “こしょろ”という無名の女性からの文が名高い。

 

日本こいしや、こいしや、かりそめにたちいでて、

    又とかえらぬふるさととおもへば、心もこころならず、

    なみだにむせび、めもくれ、

    ゆめうつつともさらにわきまへず候へども、

    あまりのことにちゃづつみ一つしんじ上候、

    あらにほんこいしや、こいしや、にほんこいしや、

                                こしょろ

     うばさままいる

 

 

 

 この文は何枚ものさらさを縫い合わしたふくさに書かれていて、“こしょろ”は素性も分からない女性である。

 資料館の説明員の話では、ふくさにしたためたのは秘密裏に文を託したので、

“発見されない手だてだった。”

とのことであった。

 

こしょろは、歌などで有名なジャガタラお春とは違う。

 ジャガタラお春は1625年に長崎でイタリア人航海士の父と日本人の母の間に生まれ、長崎で暮らしていたが1639年秋に母、姉

 とともに平戸に集められてバタビアに追放された。

 お春とこしょろは同じ船で追放されたのかもしれない。

 ジャガタラお春は追放されたバタビアで平戸生まれのオランダ人と結婚して子にも恵まれ、夫は東インド会社に入って出世し

 早死にしたが莫大な遺産を引き継いだ。

 彼女は、その後、再婚し1697年に亡くなった。

 お春が死ぬときに遺産配分を指示した遺言書がジャカルタの文書館に残っているそうである。

 

 

 ジャガタラお春のジャガタラ文は江戸時代、西川如見という学者(徳川吉宗にも接見したことがあるとのこと)が1719年に

「長崎夜話草」に書いたもので、その流麗さゆえに作者の加筆・創作が混じっていると言われているが、僕が読んだ本では

「全くの創作とも言えない。お春から実際に来た手紙を参考に書いたと思うのが素直な解釈である。」とあった。

 

 

 こしょろやジャガタラお春たちはオランダ船、ブレダ号に乗って平戸を後にした。

 

 抜錨し、出帆は夜明けだったに違いない。

 これからの長旅、心細かったことだろう。

 振り返っても平戸は遠くなるばかり。

しばらくすると左に九十九島の島々、右に、かすんで五島列島が見える。

島原、天草の沖を通るときは前年に終結した島原の乱が心をよぎったことだろう。

 

 しかし、原城跡は島原半島から海に突き出た海の出城であるが、平戸から南へ向かう沖の航路からは見えない。

 

ジャカルタまで、約1か月の船旅である。

 

  

僕は、むかし、ジャガタラ文を読んで異国に追放されて悲惨な生涯を送っている女性の切々とした望郷の手紙と思って感動していた。

 

 いまは、考えが少し違う。

 彼女たちは、異国でそれなりに幸せに暮らしていたのではないか・・?

 バタビアでは日本人社会が出来ていて、互いに助け合い、生活には不自由がなかったらしい。それに、精神的な自由はあったはずだ。

 心ならずも日本を離れて二度と帰ることが出来ない立場であるが生活と精神の自由があれば、まだ救われる。

 そこは明治期以降の“からゆきさん”たちとは少し違うのでないか。

 そもそも、あの時代、遺言書で遺産の行方を指示できる女性がどれくらいいたことだろうか。

 

ジャカルタに追放された人々のなかにも運不運はある。ジャガタラお春も二度目の結婚は不幸だったらしい。しかし、運・不運はど

 の時代、どこの土地でもしかたのないことだ。

 

 

外国留学や外国駐在の経験を持つ友人や知人たちは、

 “もっと外国で暮らしたかった。日本には帰りたくなかった。”

 と言う人が多い。

 日本は何かにつけてせせこましく暮らしにくいそうだ。

 外国での暮らしや仕事は大変なことも多いだろうが、苦労することによって人間的にもスケールが大きくなる人が多いのだろう。

 

 生まれた土地を離れて暮らしていると、望郷の念はある。

 望郷の気持ちとそこの生活が幸せかどうか、は違うものだ。

  誰かが言っていたではないか

 

 “ふるさとは遠きにありて思ふもの”

 と

 

 

 

 

ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの

  よしや うらぶれて異土の乞食(かたい)となるとても

帰るところにあるまじや

    ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ涙ぐむ 

「室生犀星 小景異情」より 

 

 

 ジャガタラお春の文

 

 千はやふる神無月とよ うらめしの嵐や まだ宵月の空もうちくもり

 しぐれとともにふる里を出しその日をかぎりとなし 又ふみも見じあし原の

浦路はるかにへだてれど かよう心のおくれねば

 

 おもひやるやまとの道ははるけきも

 ゆめにまぢかくこえぬ夜ぞなき

 

(中略)

 

かへすがへすなみだにくれてかきまいらせ候 しどろもどろ よみかね申べくまま

はやはや夏のむしたのみ入候 我身事今までは異国の衣裳しょう一日もいたし申さず候

いこくにながされ候とも 何しにあらえびとは なれ申べしや 

あら日本恋しやゆかしや 見たや見たや見たや

 

日本にて

 おつた様まいる

                      じゃがたら

                         はるより

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