2/10 2006掲載

   コンチクショウ  2006−1(悲劇喜劇は紙一重)

 

 

年末、忘年会費払おうとしたら、財布がない。
 急遽、帰宅して棚の上チェックしたが見あたらない。
電車の中で、後ろからしつこく押されたあのときにスラれたに違いない。少々のお金は取られても良い

が、カードとか手続き等が面倒だ。

去年は取られた財布の中身が3万円と言ってしまって皆に笑われた・・今年は30万円と言うことにしよ

う・・、などと思いながら駅員に財布スラれたと報告しようと思ったが、もう一度家に帰ってGパンのポケ

ット探したら、出てきた。すごく幸せな気持ちになった。
 「幸せとは不幸でないことだな」と、いつもより謙虚な自分を発見した。

 

ラッキーと  アンラッキーは  紙一重

 

 

 先輩I・Kさんが、クモ膜下でお亡くなりになられました。
ヘビースモーカーで美食家(筋子・キャビア・ウニなどが大好き)、「おれはいつ死んでもいい」

と言っていた。少し短気なところはあるが、面倒見のいい男気(おとこぎ)のある人であった。

 「またソファで寝てる」と思って、奥様が「頬をつねってみたけど起きなかった」って。夫の

最後にしてあげたのが「つねった」だった・・せめて「揺り起こしてあげればよかった」って、

毅然と笑みを浮かべながら・・一筋の涙が印象的だった。

 

       死んじゃ駄目  夫のほほを  捻りあげ

 

 

 サイトーが、天神岩田屋で学生アルバイトしたとき、ある女性店員を好きになった。

彼は、交際を申し込もうと、博多から久留米まで、何回か同じ電車に乗って後を追ったが、結局

つけまわしただけに終わってしまった。これを大学の悪友たちは、「サイトーのストーカー未遂

事件」といって、今でも笑い話にしている。彼は非常にずうずうしい男であるのに、女性に対す

る直接的願望が強すぎて、一般の女性とは口が聞けない難点を持っていたのである。

そんな彼も、結婚し子供もいる。経緯を確認すると、就職先の岡山で部下の女性を毎日、車で

一時間ほど家まで送った成果だという。一年後の申し込みの言葉は「しあわせにしちゃるがの

ー」であったという。

どう考えても、「これもストーカー未遂事件だ」と、皆は思っている。

 

      片思い  彼の場合は  ストーカー

 

 

事業企画部の連中と寄鍋を日本酒で楽しむことにした。

 で、「人肌の燗」を注文したが・・、すごく温(ぬる)いのが出てくる。原因は、年配の仲居さんの肌にあ

るのではないか、と言うことになり、H沼氏が「すみません、若い女性の人肌でお願いします」と注文し

ていた。 我々のひそひそ話が聞こえていたらしく、ひどく・・・熱いのが出てきた。

 

       若肌の   熱燗のめば   大やけど

   

不○建設執行役員の加藤さんのお便り 1

最近本当に人間が謙虚になりました。きっと天国に行けると思います。

(タバコやめた  コーヒーやめた  僕も きっと天国に行けると思う・・無休)

 

 

加藤さんのお便り 2

 不動のチェ(ジウ)さんに、昨日児玉さんからとんこつラーメンをご馳走になったと報告した

ところ、自分も行きたかった(正確には「食べたい」)と強い希望を体で表現しておりました。

 

      とんこつは  私も大好き  「フォ〜ッ!」 (HG風に)

 

 

 とんこつデートを実現しないまま、一月が過ぎ、チェ(ジウ)さんからメールが来た。

「とんこつスープのお風呂に入っておぼれる夢を見ました・・・。」

 

      とんこつの  スープになっちゃう  「フォ〜ッ!」



 昔、N○○社から来られた某社の某社長は、支店に来るとき社員全員を玄関に迎えさせ

る。列車の中まで鞄を運ばせる等、わが侭で口うるさいと評判であった。

あるとき、某支店にやってきて「味噌煮こみうどん」を食べたいという。

名物であるが、美味くはない。某社長が食べて怒り出されてはかなわん、と誰かが「マツ

タケ」を一本入れて歓待することを提案し採択された。

味はどうだったかと社長に聞くと、「別々に食わせろ」とやはり叱られたそうだ。

(それにしても会社の近くにある「総本店の味噌煮込みうどん」は、不味かった)

     

     味噌煮こみ  どうやって喰っても  うまくない

 

 

 九絵(くえ)をくった。幻の魚といわれて、滅多に口に入らない。一度是非食べたい

というお客様にご相伴(?)して、刺身と鍋でくえくった。

ふぐが小娘なら、くえは熟女というところかな?(好みによるが私は満足した)

 

     くえくった  くえというから  くえくった

 

 

 KURATA博士は今にも結婚しそうなことを言っていて、突然また振られたと報告にくる。

学生の時「15少年漂流記」、中学生で「狭き門」読んでない男は、人の気持ちが判らない男

になる。だから君は結婚できん!と、忘年会で叱った。

「僕は野球少年でした。活字は読みません」と抵抗していたが、年末の挨拶にやってきて、

「あの本2冊とも買いました。お正月に読みます」と言う。
>
「バ〜カ、38歳になって今更読んでも、もう遅い」とは言わなかった。

 

      読んだのか?  いえまだです   難しくって

 

 

あなたはウエイター(もしくはウエイトレス)で、客がビールのジョッキにハエが浮いているとカンカン

に怒っている。 あなたは、なんと言って誤魔化すか?

 

 みいちゃんの答え      「アラ、こんなところで 酔いつぶれちゃったのね」

と言って すかさず 新しいジョッキを持っていく。

「ゴメンね 今度は うちで飲むように 言っとくわ!」

 

無休の答え          自爆テロみたいなやっちゃな・・・ほんまに!

 

yuuさんの答え  「あら〜また 泡風呂と間違えちゃったのねっ」

 

なかさんの答え       ケース1  美味しい証拠です!

                ケース2   いい出し汁、でてますかね?

                ケース3   水泳能力開発中、ハエ君ガンバ!

                                 (君は客からなぐられるな、多分・・無休)

 

 

 

(ある忙しい主婦の日記より)

最近始めたテニス・・・素敵なコーチに心をときめかす今日この頃。
気持ちを悟られないように、悟られないように...

通い始めた歯医者・・・銀歯がとれたので最近通い始めた歯科医院。
歯科医が気になる今日この頃...
気持ちを悟られないように、悟られないように...

 

     だんな以外  み〜んな素敵で  いそがしい

 

 

川柳編


ホリエモン  着ぐるみ脱げば  ムイチもん


   女子フィギュア どこ見ているのと 叱られた

 

   じいさんに  どんどんなってく  孫遊び  

 

  雪ふって 地固まって 滑っちゃう          (yuu)


家族風呂 わたしが出ると お湯半分   (みいちゃん)

 

大晦日  あしかけ二年の パーマ掛け    (みいちゃん)



 

 

(私がモテた話)

昔、学生の一人旅で足摺岬に行った。

急な崖を灯台の下まで降りると、海を目の前にゴロゴロした岩があり、その一つに鳩より

二回りほど大きな鳥がうずくまっていた。近づいても逃げないので、ヒョイと抱えてそこ

に胡坐をかいて座った。鳥は私のひざの上でじっとしていた。

10分ほどして、こちらが疲れたので元の岩の上に乗せると、鳥はパタパタ飛び立って

いった。私には不思議な聖なる力が宿っていると感じた。

 

     渡り鳥さん  休憩中を お邪魔さま

 

 

昔、香港新空港の大屋根工事に携わっていた頃、黄金海岸から香港島にフェリーで渡っ

たときのことである。前の座席に居た、金髪で目がグリーンの女の子がこちらを振り向い

たので「こんにちは」と挨拶した。すると彼女は、ずっと振り返ったまま幼児語の英語で

話しかけてきた。名前はナターシャ、横の兄はリチャード、ママはママであった。好きな

食べ物のこと、動物のこと、遊びのこといろいろ話してくれた。

香港島に着くと彼女は私のところにやってきて手をつないで、一緒に行こうという。

両手に大きな荷物を抱えた母親(ママ)の顔をみると、お願いしますというように肯く。

少し危険な桟橋を、私は慎重に慎重に、決して彼女を落とさないように、手を引いて歩い

た。波止場に降り立ったとき、彼女は、母と並んでいつまでも「バイバイ」と手を振って

くれた。天使のような子だったよね、ノブ君(同行者)。

 

      同行者  マカオの酒肉  妄想中

 

 

真っ暗な道をほろ酔いで歩いていると、行く手の闇の中を黒い大きな犬が動いている。

放し飼いにしたのはどこのどいつか?襲われたら逃げれるか?死は免れるか?

とっさに様々なことが頭の中を駆け巡った。引き返すことも考えた・・が、私は真っ直ぐ

進むことを決心した。噛み付きたいのなら噛み付かせよう、死ぬことが運命なら受け入れ

よう、と一歩一歩進む。黒犬は、道の真ん中で動かない。

 犬が私に飛びかかれる距離になったとき・・・、緩やかにゆれているシッポに気がつい

た。ばかやろう、そういうことなら早く言え!私は恐怖で、死にそうだったんだぞ!!

 

      犬のくせ  人懐っこくて  役立たず   

目が回る  犬のシッポの  のみ夫婦

 

 

タイのオリエンタルホテルの庭園は、映画「エマニュエル夫人」のロケにも使われた名 

所である。前夜の二日酔いの酒を覚まそうと朝の散歩に出かけた。庭園に入ると、一匹の

アヒルが出迎えてくれた。太りすぎで足が短く羽も汚れているので無視して通り過ぎると

私のすぐ後ろをとことことついてきた。

庭園は緑が生い茂り、そこかしこに小川が流れて何故か妖艶な感じがした。途中で、ア

ヒルが美女に姿を変える可能性はないとも限らないが、姿を変えてもキタナイ美女に違い

ない。私が「あっち行け!」と蹴飛ばしても、「フギャ」といって逃げるが、またついて

くる。ポケットをひっくり返して、「エサを持ってないよ」と分からせてもついてくる。

急に走っても横道にそれても、一生懸命追いかけてくる。

とうとう20分の散歩中ずっと私を慕う妹のようについてきて、私がホテルのドアに入

るとドアの外をいつまでもウロウロしていた。

(これが、私のモテタ実体験の全てである)

 

       わがフェロモン 犬猫アヒルには  よくもてる

 

 

 

 

 

 

悲劇・喜劇も紙一重   米原万里著「必笑小咄のテクニックに」よると、どんな
悲劇も笑話にできる、という。それにチャレンジしてみた。

 

    戦争末期の満州国、戦雲が怪しくなり始めた頃、裕福な農家の主人だった男が元芸者の

愛人と二人でさっさと日本本土に帰国してしまった。そして、その妻女と若い娘二人と中

学生以下の子供3人の6人が奉天(今の瀋陽)にとり残されていた。

満鉄の職員だった私の父は、次女(後の母)を愛していたので、一人で帰国せずその農

家に住み込んで、6人を保護し養った。父は口の利けない満人を装い、最も汚れた仕事(死

体洗い・運搬、便所汲み取り等)をしながら日々の食い扶持を稼いでいた。

 

       男道(おとこみち)  地獄天国  紙一重

 

 

母と伯母と隣人の娘の三人が突然現れたロシア兵に連れ去られたことがあった。帰宅し

た父は雪の上のそりの跡を追いかけて、ある建物の二階にとらわれていた母と伯母を助け

て連れ帰った。隣人の娘は別室に居て助けることができなかった、という。

時々、ロシア兵がやってきて、家にある金目のものは全て持っていった。金目のものが

なくなると棚や壁を壊して帰っていった。母たちは、屋根裏や、隠し部屋、もしくはとう

もろこし畑で、死を覚悟して潜んでいた。祖母は、子供たちに包丁の刃を見せ、見つかっ

たら私が命を絶ってあげるから安心しなさい、と言って抱き寄せた。子供たちは、何時間

も暗闇のとうもろこし畑で息を殺していた。

 母も伯母も、頭は坊主にしており男の服を着ていた。顔もよごして、すぐに女と分から

ない格好をしていた。そんな母と父が、裸電球の下、5人の家族に囲まれ、わずかな食物

をささげて挙式した。全く同じ格好をした二人の坊主頭が、今でも鮮やかに記憶に残って

いると小学生だった叔父が言う。

 

 終戦の翌年5月、そのような状況下に私は生まれた。

わたしの第一声は、家族全員に光と力を与えた。しかし、食べるものを食べていない母か

らは乳がでず、とうもろこしを噛んで唾液とともに飲み込ませて、わたしを育てざるを得

なかった。

私が生まれてまもなく、終戦一年後の日本国への逃避行が始まる。当時、私は栄養失調

で泣く元気もない子供であった。生きているか死んでいるか母だけが知っている状態であ

った、と言う。だからこそ、過酷な逃避行に耐えられたのかも知れない。

それでも、わたしが生きていることが皆の希望であり、「この子を日本に」が暗黙の誓

いの言葉となっていた。死と生、エゴと救い・・極限のなか全員が帰国し、日本の土を踏

むことができた。

 

    酔って少し語ることもある。

しかし、皆、黙して語らない。

語りたがらない。

 

 生前の、特に元気であったときの父を、性格の違いから私は必ずしも好きではなかった。

しかし、一人で帰国せず、6人の子女を連れ帰った父に最大の賛辞を送りたい。置き去り

にした祖父と比べれば英雄的行為である。連れ帰った後も叔父たちが独り立ちするまで面

倒を見てきた父に改めて尊敬の念を送りたい。

帰国後、土建会社の営業マンとし、また後年は経営者として超人的な仕事をして、2度

目の脳溢血で倒れた父は、全てを母に委ね寝たきりの5年間を経、穢れを落とした無垢の

人となって天に召された。

        平成6年 72歳で父、没す

 

祖母はしっかり者であった。いつも黙々と働いていた。体は小さいが骨は太く頑丈だ、

丈夫で長持ちが取り柄だといい、席が空いている電車やバスでも決して座ろうとはしなか

った。誰よりも私を愛してくれていた。頑丈な体の祖母は、心身ともに病んでも永らえて、

最後は自裁により、天に召された。 

             平成元年 89歳で祖母、没す

 

   (祖父は、名古屋の地で貧しく孤独のうちに死んだ、と言われている。)

 

 

追記  父と母は、それぞれ剣道と薙刀の満州国代表の一人として、京都の武術専門学校

に通っていた。その頃、どちらか先に見初め、強い思いを抱いていたのか分からな

い。この話になると二人は必ず、先に惚れたのはそっちだということで大喧嘩にな

っていた。

私の目からは、二人はいつでもどこでも喧嘩しているように見えた。決して仲の

良い夫婦には見えなかった。でも、脳溢血で倒れてからの5年間、父もそれを望ん

でいたが、母は誰にも任せることなく一人で世話を続けながら、「やっと自分だけ

の夫になった」と、喜んでいた。

                         (母、80にして健在)

 

 

家族捨つ  祖父の血もまた  我にあり

戦地にて  いがぐり二つ  挙式の展

世が世なら  戦災孤児か  白系か

ドサクサに  産んで生まれて  還暦だ

年かさね   希望の星も  髪うすく

 

         ここにいる  悲劇喜劇は  紙一重  

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