「ユニークなエジプト王アクエンアテンの彫像に対面できたエジプト展」
 2001年3月


3月8日、寒い日でしたが万博公園の国立国際美術館で開催されているエジプト展を
観てきました。
私は元来エジプト史にはあまり関心が無かったのですが、娘の同僚のお嬢さんから薦
められた「誰がツタンカーメンを殺したか」(ボブ・ブライアー著・原書房)を読み、その中に
描かれているアクエンアテン王の悲劇にひどく惹かれるものを感じていた矢先に、その
お嬢さんの知らせで今回の展覧会でそのアクエンアテン王の彫像が展示されることを
知ったため、同展に行ったのでした。

幼いころ福岡でルーブル美術展が開催されたときに親に連れていってもらったことを覚え
ているので、多分、ヒエログリフ(象形文字)碑文の実物は見たことがあったとは思うの
ですが、意識してそれを見たのは今回が初めてであり、さすがに感激しました。

花崗岩や玄武岩、石灰石で作られた色々な彫像、碑文の刻印されたモニュメント等が
四千数百年もの年月に耐えて確固たる姿を目前に表している光景は、やはり深い感
動を催させられます。

今から28年前、大阪で中華人民共和国出土文物展が開催されたとき、そこに展示
された「呉越同舟」や修猷館応援歌にもある「会稽山下の恥をそそぐ」の故事でも有
名な越王句践の銅剣を見た父が、我が家に帰宅後、「あの越王句践の銅剣を目前にし
たときは体がふるえた」としみじみ語っていたことが思い出されました。

多くの展示物があり、一緒したMさんが熱心に時間をかけて一つ一つ見てまわるの
で私もそれに付き合わざるを得なかったのですが、心はただひたすらにアクエンアテ
ン王の彫像に向かっておりました。
そして、展示会場を半ば以上過ぎたところでその王の彫像は他のどの展示物よりも
大きく、周囲を圧して屹立しているのを目にしたのでした。1メートル近くの台座の
上にアクエンアテン王の高さ152pの像は据えられていたのです。


アクエンアテンという名にほとんどの人が耳慣れない名前と思われるでしょうが、
ツタンカーメンの父、と言えば皆さん、おおっ、と声をあげられることでしょう。
この王は、長い古代エジプト史の中でもたいへんユニークな存在でして、まず、多
神教の支配する王朝だった古代エジプトで太陽神アテンのみを唯一の神とする一神教
を打ち立てた宗教改革者であったこと、写真で判るように非常に異様な風貌(現代の
医学では骨格的な一種の奇病を病んでいたと推察されているらしい)をしておりなが
ら、それを粉飾することなく、ありのままの姿を彫像に残させたこと、軍事を嫌う
平和主義者であり、家族愛に没頭して王都をアマルナの地に移し、国政からは遠ざ
かってしまったこと、王宮の床に描かれた絵でもわかるように自然主義(アマルナ美術
と言われております)の信奉者であったことなどが、この王のユニークさを際立たせ
ていると思います。
そしてこの王の悲劇は、その死去とともに一神教を憎む正統派のエジプト人たちか
ら徹底的に否定されたことでして、アマルナ王宮は完全に破壊され、王の存在したこ
とそのものもエジプト王朝の記録から抹殺されたことでした。



写真の金の襟飾りは長い年月、ツタンカーメンの一代前の王スメンクカラーのもの
とされていたのを近年では記録を抹殺されたアクエンアテン王のものとする説が有力
となっているそうです。この襟飾りの彫金細工はまことにもって見事なもので、その
薄さたるや、魚を焼くときに使うアルミ箔を連想するものがありました。

写真の太陽神アテンの光を受けるアクエンアテン王と妃、そして娘メリトアテンが
描かれたレリーフ像は、像の両側に同じものが彫られているのですが、どちらも王と
王女の顔は削られたようにつぶされておりました。
このことは解説書には何も記されておりませんでしたが、私は何となくそのような
予感がしていたので丹念に調べたのです。Mさんにそのことを指摘したところ、彼女
も胸がうずきましたようで、「私も『誰がツタンカーメンを殺したか』を是非読んで
みます」と言っておりました。
自分の趣味に耽溺し、宗教的伝統を壊し、家族愛にのみ安息を見出し、国政を省み
なかった王がその国民に否定されてしまう道理はよく理解できますが、己の決して美
しいとは言えない風貌をも後世に残そうとしたこの王の屈折した心理を推察し、その
ラディカルさゆえに記録からも抹殺された悲劇を思うと、私は何とも言えぬ痛ましさ
と愛着をこの理想主義者に感じてしまうのです。