ニューデリー通信(番外編) 西インド大震災について
小川 忠(2001.1.28 ニューデリー)
新聞、テレビでご存知のとおり、1月26日西インドで直下型地震が発生し、独立以
来最悪の事態となっています。何人かの方々からお見舞いメールをいただきました。
ちょうどこの日は共和国記念日という国民祝日で僕は自宅にいたのですが、揺れにほ
とんど気付きませんでした。妻が10秒ほど揺れたというので、どこかヒマラヤの遠
くで地震があったのかな、というくらいの印象でした。インド全土で揺れが観測され
たという大地震ですが、ニューデリーは震源から遠く離れていて被害はありませんの
で、ご心配なく。
しかし震源地のグジャラートは大変な状況です。(グジャラート州は、マハトマ・ガ
ンディーが生まれた州で、パキスタンと国境を接する、インドで最も西の地方)震源
近くのブージュでは建物の9割が倒壊したといいますし、大都市アーヘメダバードも
多数のビルがこなごなに崩れて、多くの人々が今も生き埋め状態になっています。被
害者の多くは、こうした建物の倒壊によるもので、テレビ報道で見る限り阪神大震災
のような大規模火災は発生していないようです。インドの国営テレビは、夥しい死者
が火葬場に運ばれる映像を放送しています。地震発生初日、死者は千人とか報道して
いましたが、阪神大震災の時と同じように、時間が経つにつれて犠牲者の数は増えて
おり、3日目の今日は2万人が死んだと報道され、10万人近くなるのではないかと
いう観測も出始めています。
懸命の救出作業が今も続いています。この未曾有の危機に対して、インドから救援
物資が被災地域に輸送されています。外国政府や赤十字などの民間救援チームも続々
現地に向っているようですが、とにかく被害規模が巨大で被災地域が広大なので、全
てが不足しているという状態。2年前のサイクロン被害もそうでしたが、救援体制の
非効率、腐敗で、きちんと救援物資が被災者に届くかどうかも心配です。まだ現地の
知人と連絡がとれませんが連絡体制が確立したら、僕なりに支援ルートを作りたいと
考えています。
数年前に、国際交流基金でインドの民間公益活動のリーダーを日本に招いて、神戸
の地震被災者支援ボランティアと交流してもらったことがあります。インドの公益活
動リーダーたちは大きな感銘を受け、インドが学ぶべきことが多いと
述べていました。今こそ、神戸の経験をインドに発信していく時ではないでしょうか。
2年前に書いたニューデリー通信を再送します。
99.1.20
ニューデリー通信(9)
阪神・淡路大震災から4年。あの日、ちょうど国際交流基金に新しく開設されるア
ジアセンター準備室への人事異動発令を受けることになっており、いつもより少し気
持ちが高ぶらせながら出勤すると、事務所のテレビが信じられない光景を映し出して
いました。高速道路や鉄筋ビルの倒壊。六甲山を背景に東西に伸びる見慣れた都市の
各地であがる火の手。時間を追うごとに増えていく犠牲者の数。自分が生まれて育っ
た町が地震の直撃をくらうとは......。
僕のが5才になるまで家族が生活していたのは、兵庫区の会下山町。古い繁華街、
新開地に近い庶民的な町で、信心深い婆さんが仕切る地蔵盆が隣近所総出で行なわれ
て大人たちがせっせと準備に精を出していたことや、銭湯のそばに当時はまだ勢いが
あった日本映画の封切館があって、新しく封切られる東宝の怪獣映画のポスターにわ
くわくしたりしていたことを、35年たった今でも鮮明に覚えています。僕にとって
の神戸は、毎度観光ポスターに登場する北野町の異人館やポートアイランドではなく、
港の仕事から夕方になって戻ってきて飲み屋で気炎をあげるおっちゃんたち、銭湯の
女湯で貧弱な子供だった僕をからかうおばちゃんたちがいた、ちょっとわい雑で活気
のある普段着の町でした。
地震発生から3週間ほどして独り暮らしの叔母に物資をとどけるために神戸を歩
きました。会下山町あたりを歩くと倒壊した家の屋根が狭い路地をふさいでいて我が
家があった奥の方までは立ち入ることができない状態でした。道路はラクダの背中の
ように波打っています。この辺では多くの人が亡くなったのでしょう。
あちこちに花が添えられていました。まさか自分の故郷の町が、と思うと、どうし
ても眼前の光景は現実のものではないという想念がわいてきて、それは振り払っても
振り払っても消しようがないものでした。多くの人々がボランティアに駆け付けたの
に、仕事の忙しさを口実にして何もしなかった自分自身に対して、今でも釈然としな
いものを感じています。
昨年11月、国際交流基金は、インドのNGO・NPO、民間助成財団の関係者10
名を日本に招きました。日本の公益活動関係者とのネットワーク作りを進めるためで、
東京でNPO法案制定について関係者から話しを聞いたり、奈良の伝統的街並み保存
活動を視察したり、広島市長や平和市民活動家と交流したり、多彩なプログラムが組
まれていました。より多くのインドの公益活動関係者に、彼らの体験を共有してもら
うために、我が事務所が音頭をとって帰国報告会を開催しました。様々なプログラム
の中でも、最も感銘を受けたのが、神戸の震災被災者支援活動の関係者との交流だっ
たと、皆が声をそろえて言います。
デリーで青年ボランティア活動グループを組織しているアシュラフ・パテルさんは、
就職に響くと当初反対していた両親の意識を変えていった大学生震災ボランティアの
例をあげて、一人のボランティア参加は周囲の意識改革にもつながるのだという話し
をしました。また、高齢化社会の問題は神戸にも様々な影を投げかけているが、若い
ボランティアたちが新しい形の若者と高齢者の信頼関係を築こうとしている、と語り
ました。(その後、彼女にインドと比べて日本の大学生一般の社会参加意識が低いのは
なぜだ、と聞かれて困りましたが。)ボンベイでNGO養成講座を教えているD.D.パ
テル氏は、「神戸の被災者支援組織は神戸の経験をもとに災害被災者に迅速に支援を提
供するシステムの研究を行っている。インドでは毎年のように災害で多くの被災者が
出るのに、こうした研究が行なわれていない。我々は神戸から学ぶできではないか。」
と提起しました。僕は、インドで公益活動に真剣に取り組んでいる人たちが神戸を訪
問して神戸から学んでくれたことは、被災者や神戸でボランティアをしている人たち
にも大きな励みになるはずだ、と礼を述べました。
今年の1月17日は、インド南部、バンガロールにいました。ヒンドゥー至上主義
者によって引き起こされた社会摩擦にどう対応するか、話しあうためのNGOの会議
に出席していたのです。80年前の関東大震災の時には朝鮮人虐殺事件が発生したの
に、神戸ではこういうことは起こらなかった。なぜ神戸で起こらなかったか社会メカ
ニズムを調べると、インドが神戸の経験から得るものがあるのではないか、と話しま
した。
ヒロシマがそうであったように、神戸の経験をインドの人々は繊細な感性で我がこ
とのように感じ取り、そこから普遍的なものを見いだそうとしています。震災前に進
められていた「国際観光都市神戸」とは異なる意味で神戸は新しい日本の国際交流の
拠点となりつつある、そんなふうに思えました。
阪神・淡路大震災で亡くなった方々に黙とうをささげます。(了)