滋賀道中記

6/25 2001 HP掲載

 私は今回の滋賀の旅ほど、心に残る旅は今までしていなかったように思う。そんな

感動を忘れたくないという想いから、この道中記を書くことを決意した。

 

ついに行ける事になった

 2日前(3月17日)の晩、母の兄である雅和さん(まかちゃん)の1本の電話か

ら、それは始まった。

 「お母ちゃんが危ない状態なんや。お前のことばっかり言うて、逢いたがってるん

やけど来てくれへんか」

“そんな言われたかって・・・”当時の母の心境とすれば、こんなものだったに違い

ない。今までも滋賀に遊びに行く話はチョロチョロと出ていたが、その度に「車もな

いし・・・遠いしなぁ」の母の一言でおじゃんになっていた。しかし、今回はわけが

違う。なんせ<ハハキトク、スグカエレ>なのである。この非常事態に「車がない」

「遠い」だのと、うつつをぬかしている場合ではない。電話を切った後も、母は行く

ことをとても悩んでいた。周りの皆は一斉に「こんな時に行かなくてどうする」と母

に滋賀行きを促した。しかし、母はいまいち決断に踏み切れないようだった。

 「なんなん?何がそんなに不安やねんさ」私はなかなか首を縦に振らない母に苛立

ちを覚え、少し荒っぽい口調で尋ねた。

 「う〜ん・・・、なんちゅうか、行きづらいわな・・・。何年逢うてへん思ってん

ねん。25年やで。せやさかい、皆の目が怖いなぁ・・・。それに店どないすんねん」

 「・・・明日が日曜やから、明日の晩に出て、で、次の日が月曜やから休み取れば

いいし、俺が運転したるで」

 黙って話を聞いていた師匠が口を開いた。“明日の晩?そらまた急な話でんなぁ”と

私の方が昔の大阪の商人口調で驚いてしまった。でも、ずっと滋賀行きを希望してい

た私は今まで漠然としていた滋賀行きの話が少しずつ「決定」という方向に進み始め

ているのを感じ、ドキドキしていた。“あ〜お母さん、早くオッケーサイン出してくれ

ないかなぁ”ということだけを願いつつ、胸は期待と緊張と不安のブレンドした、何

とも気持ちの悪い状態を保っていた。こんな時ばかりは、普段はテレビに出ていると

チャンネルを変えるくらい苦手な<Ok伊東>に出てもらい、“ンン〜オッケェ〜イ、

ベ〜イビィ〜”といつもの甘い声で囁いて欲しいくらいであった。

 その後も5分程平行線の話し合いが続いたが、「今しか行ける時ないんやから」の誰

かの一押しで、母はついに重い首を縦に振った。“やったぁ!!ついにこの<吉野鮨>

から一歩、いや350km外へ出ることが出来る!<魚元>の大豪邸を拝むことが出

来る!おばあちゃんやまかちゃんやじろちゃんや従姉に逢うことが出来る!”私の心

のなかでサンバが鳴り響いていた。あの時、魂だけは“お先に〜”とばかり既に滋賀

へ飛んでいってしまっているような気がした。それから先のことは記憶が途切れ途切

れになっているからだ。気づけば私はオイオイ泣いていた。家族の前で泣くのはいつ

ものことであったが、その日は向かいのマンションに住むお兄ちゃんもいたため、か

なり恥ずかしいやら情けないやらで、なんともやるせない気分だった。泣いた理由は、

ここではあえて伏せておくが、この時の私の<泣き>は単なる序章にすぎず、滋賀に

到着してからが本番だった。

 

妊婦の出発

 その後の会議の結果、滋賀行きメンバーは母、師匠、私の3人。兄には留守番をお

願いすることになった。そして当初の予定では日曜の晩に出ることになっていたが、

昼にはもう出発することになった。またも私のサンバのリズムに心が弾んだ。そして

驚いたことに、母は<魚元>にお邪魔するだけでなく、泊まらせてもらうのだと言い

出した。なんということだろう!<魚元>の敷居をまたげるだけでも光栄なのに、そ

の上一泊できるなんて!サンバとロックとラテンにまみれた私の心はどうにも止まら

ない、リンダ状態だった。(天にものぼる心地)を体験した私は、天ではなくそのまま

2階へとのぼった。

 自分の部屋に戻った私は、さっきまでの会議の模様が夢か現か判らなくなっていた。

もしここで、(ドッキリカメラ)などと書かれた看板を誰かが持ってきたら、この心の

中のサンバをどうしてくれようか。ここまで舞い上がった私の気持ちを、もう誰もひ

っぱりおろす事なんか出来るはずがない。その一方で、2階に上がってきた母が「さ

っきの話なぁ〜おじゃんになったでぇ」なんて事を言い出すかもしれないと不安を抱

き始めた。ので、さっさと寝ることにした。結局、母が2階に上がってくるまで寝付

けず、少し話をしたが、さっき心配していたおじゃん話が出ることはなかった。

 翌日、母は朝から忙しかった。洗濯物やら、会議やら、神社やら、予定は沢山詰ま

っていた。私はいつもどおりの時間にいつもどおりのまぬけ面で目覚め、いつもどお

りの仕事を始めた。さっき、魂だけが八日市に向かっている事を話した通り、普段以

上にボケーっとしていた。<心、ここにあらず>とは今の私の為に創られたような言

葉だと思った。しかし、それではいけないと反省し、残された肉体だけでも酷使しよ

うと心に決めた。(矛盾)

 昼のお客さんというのは普段あまり来ない。しかし、滋賀にいくのならお金はいろ

いろと必要になる。なんとかして一稼ぎしたいものだ、と考えていた。

 ミヤちゃんから予約の電話が入った。私は徐々に商売モードに転換していった。山

崎さんの相手をし、ミヤちゃんの話相手をしていると、オーチャンが入ってきた。こ

れはいい調子だ。私は内心ニヤリとした。そうこうしているうちに、3組目の甘利さ

ん。これは満塁だ!さっきのニヤリ、がニヤニヤに変わっていくのを心の隅で察知し

た。

 母も用事を全て済ませ、家路に着いたのはもう1時半。私は行く準備を整えながら、

早く行きたくてムズムズだかウズウズしていた。

 2時半近くになり、少し憂鬱な気分になっているのを感じた。なんだろう、このな

んとも気怠い椎名林檎のような脱力感は。ん〜これがマタニティブルーというものな

のか・・・と、してもいない妊娠のせいにして、妙に納得していた時、母の「もう出

るよ〜」との声が聞こえた。私は“そうか・・・もう赤ん坊が出るのか”と想像であ

ったハズの妊娠気分を引きずりながらワゴンRにいつものように背を丸めながら向か

った。きもち、お腹をさすりつつ。

 

夢にまで見た八日市

 さて、気づけば小黒川SAである。この地が何県であるかなど当然分かるはずもな

く、なんとな〜く、<小黒川>なのだ。SAは小さい頃から何故か好きだ。高速に乗

る楽しみを二つ挙げるなら、ひとつは早いスピードが楽しめる、とすれば、もうひと

つは当然、SAに寄れるというものである。もうとにかくあの雰囲気が好きで、何時

間でも居たくなってしまう。SAというものは基本的には広いトイレがあり、自販機

がズラリとならび、食堂と土産屋のドッキングした建物があり、タコ焼き・ゴヘイモ

チ・きりたんぽなどの屋台が並んでいるだけであるが、都会寄りのSAにはモスバー

ガーがあったり、31アイスクリームがあったりして、ブランドや肩書きに弱い私は、

それだけでクラクラと来てしまい、“さすが都会は出す店が違うわぁ〜”などオバサン

のようにしみじみ感じてしまう。小黒川は、と言えば、前者のいたってシンプルな田

舎の香り漂うSAであった。そして小黒川で初めてハイウエイカードを5.000円

分買うと5.200円付いてきて、200円のオトクになることを知った。

 小諸を出て6時間半、ようやく八日市に辿り着いた。と書いてしまえば一瞬だが、

道中は本当に長いものだった。思えば私はこの6時間半もの間、ずっとモンキーズを

聴いていた。陽が照っていようとも、陽が沈んでいこうとも、強風に煽られてワゴン

Rが傾こうとも、そうまでして片時もモンキーズを耳から離さなかったのは、あの1

960代サウンドがその当時の私の気分にピッタリだったからに違いない。

(滋賀道中記というくらいなのだから、3頁目にしてここからが本番である)

 八日市1Cをおりて、はて、病院はどの辺にあるのだろうか?こんな夜に面会はで

きるのだろうか?まかちゃんはもう来ているのだろうか?たくさんの「?」が3人の

頭の中を駆け巡った。とりあえず車を停めてみた。そして師匠が煙草を吸いに車を降

りた。師匠が何やら前に止まっている車の中を覗いているのが、暗い暗い車内からほ

んのりと見えた。“あれ?師匠誰と話てんねんやろ?”と思っている間に前の車から一

人の男性が降りてきて、うちの車の方に歩いてきた。鈍い私でもそれが誰なのかすぐ

判った。“まかちゃんや!!”私は靴のストラップもそのままに、転がる様にして車か

ら出た。母が何やら喋っている。私も何か喋らなければ・・・。モジモジを通り越し

て挙動不審になっている怪しげな私にまかちゃんは気づいたようだ。「初めまして・・・」

ドキドキしながら挨拶を交わしたのをハッキリと覚えている。「これ(車)に付いてき

ぃや」とだけ言い残し、挨拶もそこそこにまかちゃんはすぐ車に乗ってしまった。病

院に向かう車の中で、私は今さっきのことをおさらいしていた。“え〜と、さっき八日

市1Cおりて・・・今まかちゃんに逢ったばかりで・・・これからおばあちゃんに逢

いに病院にいって・・・”なんだか色んな出来事が猛スピードで駆け抜けてゆく感じ。

頭のなかで全然整理ができていない。

 ICから病院はあっという間だった。話には聞いていたが実際走ってみると本当に

近い。それにしてもおっきな病院だ。そもそも病院なんてこんなに間近に見ることな

んて小諸にいればなかっただろうに。病院の敷地内に入るのは多分初めてなんじゃな

いかと思う。それくらい、私にとってここは生活するのに無関係な場所であった。

 師匠を車に残し、私達3人は足早に病院に向かった。みんな、殆ど無言だった。昨

日まで普通に自宅で暮らしていたのに、急遽入院することになったおばあちゃん。突

然具合がわるくなっちゃったのかな。この偉大な母を産んだおばあちゃんって、一体

どんな人物なんだろう。まだ・・・元気でいるよね。私は色んな事を考えておばあち

ゃんのいる部屋を目指した。部屋の前まで来た時・・・私の足は何故かすくんでしま

った。急に逢うのが怖くなってしまったのだ。逢うために来たはずなのに、今は無性

に逢いたくなくなっている。部屋に入った瞬間、全てが止まったような気がして、な

かなか一歩が踏み出せないでいる私をまかちゃんは「ほら・・・」と軽く、入るよう

促した。

 

初対面

 部屋に入ってまず目に飛び込んできたのは、まかちゃんの娘さん2人、つまり私の

従姉妹達だった。「初めまして」と私は何度も深く頭を下げた。“今までずっとおばあ

ちゃんの事を見ていてくれてありがとう”という気持ちで一杯だったからだ。ベッド

に横たわるおばあちゃんがいた。母は「おかあちゃん・・・」と、今にも泣きそうな

声でおばあちゃんに話し掛けた。私は、といえば・・・ひたすらくうくう泣きじゃく

るだけだった。初めて見るおばあちゃんの姿は、しわしわで、点滴をしていて、酸素

マスクを着けて、うつぶせ気味だった。とってもとっても、小さく感じた。別に死ん

でしまったわけじゃないのに・・・なんでこんなに泣けてくるんだろう。それはきっ

と、おばあちゃんに寄り添う母の姿が、何十年か後の母と自分の姿と重ねて見ていた

からなんだろう。母もいつかは、今のおばあちゃんのような姿になってしまうんだろ

うな・・・。そう考えると泣かずにはいられなかった。

 「おかあちゃん、元子がなぁ来てくれたんやで」そう言ったまかちゃんの目にも涙

が溢れていた。

 「おかあちゃん、おかあちゃん。来たよ。ずっと帰れへんかったんやけどな・・・。

30年も逢うてへんもんなぁ〜」母は一所懸命に話し掛けていた。

 「おかあちゃん、分かるか?この子がみっちゃんやでぇ、久里ちゃんとよう似てる

やろ」まかちゃんは、そう言うと私を指差した。私はまだ涙が止まらない状態で、化

粧の崩れたグチャグチャの顔でニコリと笑ってみせた。多分、すごい形相をしていた

に違いない。今もし、その顔を写真に撮ってあるから見てみたら、と言われても絶対

見たくない。おばあちゃんは口にこそ出さなかったが、たいそう気味悪がったことだ

ろう。

 私はおばあちゃんに「初めまして・・・美智子です」と言うのがやっとだった。と

にかく喋ろうとすれば、先に涙が流れて邪魔をされてしまうのだから。おばあちゃん

は何度も何度も「よう来てくれたねぇ・・・」と言ってくれた。私はその言葉を聞く

度にくうくう泣いてしまうのだから始末に終えない。母はおばあちゃんに「また明日

もくるからね」と言うと、私達は病室を後にした。

 

和風ベンチ

 病院の駐車場まで戻ると、まかちゃんは俺の車に乗っていかないか、と提案した。

私は、母はてっきり断るものだと思っていたが、数分後には私はまかちゃんとの2き

りの束の間のドライブを楽しんでいた。

 話したいことは山ほどある。しかし、なんといって切り出してよいのかサッパリ分

からない。このまま沈黙通しでドライブ終了はいくらなんでも悲しすぎる、とうな垂

れていると、まかちゃんが何やら話し掛けてくれた。それからはずっと途切れる事無

く色んな話をした。と言っても、餃子の王将がなんちゃら、とか、なんとかフクロウ

というお店が全国的に有名だとか、走っていて目についた物や店について話していた

程度なのだが、それでも私はとっても幸せな気分だった。まかちゃんとこうやって話

していることをまるで夢のように感じていた。

 「ここやで」というまかちゃんの言葉とほぼ同時に<魚元>の看板が目に飛び込ん

できた。私はなんともいえない感動に、再び胸がサンバのリズムを刻んだ。正確に言

うならば、少し大人の落ち着いた雰囲気のあるジャズといったところだろうか。とに

かく、もう、どうしようもないくらいの嬉しさに、“看板が拝めただけでもいいや・・・

このままUターンもありだなぁ・・・”とバカバカしい考えまで浮かんだ。しかし、

もちろんそんなことは<現実的な自分>が許すはずがなく、“今考えた事は嘘で、もう

一人のバカな私が、勝手に考えたことやから本当になりませんように・・・!!”と、

<夢うつつの自分>の勝手な想いを慌てて訂正した。

 ついに<魚元>の玄関に足を踏み入れてしまった。胸が一気に高鳴った。これは翌

日発覚したことなのだが、玄関が驚くほど素晴らしいのだ!入ってまず目を奪われる

のが立派な棚に並んだ立派な置物達。これは見るからに景気が良さそうである。置物

達にウットリした後にふと右後に振り向くと、昔の団子屋にありそうな・・・まるで

水戸黄門だか暴れん坊将軍だかの甘味処のワンシーンで実際に使われていたような、

そんな趣さえある和風ベンチがしっくりと<魚元>に馴染んでいる。ウチにもこんな

風情漂うベンチがあったらいいのに・・・と羨ましく思ったが、もしこのベンチが我

が店へやってきたところで、しっくりと馴染む保障は何処にもない。この真っ赤な敷

物が店の雰囲気に馴染まず浮いてしまえば、逆効果もいいとこである。私は“お前は

この<魚元>さんに一生ついていって、生涯このお店に来れたことを感謝しつづけて

尽くすんよ、いいね”とベンチを諭した。私は本当にそう思ったのであり、これを単

なる強がりととって欲しくないのである。

 荷物を置いて、もう寝るのかな?と思ったのも束の間、まかちゃんが「行くで」と、

これから何が起こるのかサッパリ分からない私達を外へ出るように促した。時計は午

後10時を回っていたが、私はまだまだ寝たくなかったので、楽しみでしょうがなか

った。

 

関西で有名なココス

 一同、まかちゃんの新車であるマークUに乗り、どこかへ向かった。何だろう?観

光名所を案内してくれるのかな?それは楽しみだ!あれ、そういえば<魚元>を出る

ときに何か言っていたような・・・などと考えていると、母が子供のようにはしゃぎ

だした。「ココ!○○さんやん!懐かしいわぁ〜。あ!○○紙店変わってへんやん!こ

の商店街のアーケードは前からこうやなぁ。伊田歯科!この隣がうちとこの家やった

んでぇ〜!ノノミヤ神社!よう遊んだねん、毎日行ったなぁ」などと、私と師匠には

全く判らないディープな会話が次々と繰り広げられていった。早口でまくしたてる母

を最強だと思っていたが、所詮井のなかの蛙、上には上がいるもんだ。さすが母の兄、

まかちゃんは母に輪を掛けて早口だった。これは灯台下暗しであった。この方こそ真

の早口チャンピオンと言えよう。

 チャンピオンが決定した矢先、目的地に着いたようだった。車を降りると大きなフ

ァミリーレストランがデンと構えていた。そうか、まかちゃんは私達のお腹を案じて

連れてきてくれたのか!玄関先で言われたのも、ご飯のことだったような気がする。

まかちゃんの細やかな気遣いに、それだけでも胸もお腹もいっぱいになってしまった。

 ファミレスなんて何年ぶりなんだろう。最後に行ったのがいつだったか忘れてしま

うぐらい、私達はファミレスとは無縁の生活をしていた。まかちゃん自身もそうだと

いうことを言っていた。それにしても<ココス>というファミレスは、初めて聞いた。

私が呪文のように「ココス、ココス、ココス・・・」と連呼していると、「ココス知ら

んの?関西じゃ有名なんやでぇ」というまかちゃんの声が聞こえてきた。そうだった

のか、ココスは関西にしか手を広げていないのか・・・餃子の王将みたいなものなの

か・・・、王将といえば、聞いた話によれば店内のテーブルはいつ行っても汚れてい

るらしいぞ・・・しかし餃子は大きくて美味しいらしいな・・・、などと話が全くく

だらない<餃子の王将>の方に行ってしまった。

 先程、まかちゃんの気遣いにより満タンになったお腹は、メニューのティラミスを

見るなり、早くも空っぽになってしまっていた。なんという現金なお腹なんだろう。

さっきの感動はどうしたのだ、と自分のお腹を責め立てた。しかしお腹は何処吹く風

といった調子で、私の話なんか聞いちゃいない。言うことを聞かないお腹に少々腹を

立てながら、私は再びメニューに目をやった。

 ドリアにグラタンにティラミス。これはあまりにも食べ過ぎだろうか?まかちゃん

に支払ってもらうのに、そんなに食べていいはずが無い。しかし脳がそれらを注文す

るように命令しているのだ。総司令官の命令を無視するわけにはいかない。都合のい

い私は、こんなに食べることを全て総司令官である脳のせいにしてしまい、自分は何

事もなかったように♪フンフンなどと鼻歌を交えつつ涼しい顔をしてやりすごした。

しかし、総司令官も、言うことを聞かないお腹も、きれいに平らげてしまった胃腸も、

全部ひっくるめて私なのだ。こんな夜遅くにこんなに食べたら1キロ増は確実に違い

なかった。私は帰宅したら、早速ダルマに目を入れてやろうと決心した。

 

二郎ちゃん

 <ココス>を出る車の中では、何故か母の弟である<二郎ちゃん>の話題で持ちき

りになった。「二郎ちゃんに逢ってみたいなぁ」私はまかちゃんに聞こえるように咳い

てみた。もし近くにいるのならばゼヒゼヒ逢ってみたい。まかちゃん、たのんます!

という心境であった。それが通じたか「二郎のバイトしているところ行ってみよう

か?」と素晴らしい提案をしてくれた。母は少しためらっていたようだが、そんなこ

とはおかまいなしだ。ココまで来てじろうちゃんに会わずして小諸に帰れようか。志

半ばにして倒れるなんてことは私にはできまい、と滋賀にきてから私の心はいつのま

にかにタフになっていた。

 <スナック結城><居酒屋ユウキ>と2軒のお店が一つの敷地内に建っていた。経

営者が同じ人なんだろうな、とすぐ分かった。こんな鈍い私でも見破れるくらい安直

なネーミングに戸惑いすら感じた。余談だが、居酒屋の方は、元は<貴鳥>という名

前だったということを後で二郎ちゃんから聞いた。経営者も他の名前を考えるのが億

劫になって、“スナックが結城なんやから居酒屋の方もユウキでええかぁ”くらいの考

えで決めてしまったに違いない。それが経営者の<結城さん>(多分)が大の藤子不

二雄ファンで漫画「ミキオとみきお」にちなんでつけたと思われる。まぁ、前者の方

が有力といえよう。

 「二郎、元子が来たで」それくらいの軽い紹介だったと思う。奥から気の良さそう

な背の高いお兄さんが出てきた。“この人が噂の二郎ちゃんなのか?”私は自分の目を

疑った。こう言ってしまうのは失礼にあたるのかもしれないが、私はもっとヤクザ風

味満載の怖〜いあんちゃんを想像していた。でもこの人が二郎ちゃんで本当に良かっ

た。二郎ちゃんは目をまんまるくして驚きを隠せないといった様子だった。そして私

の方を見て「この子は・・・?」と母に尋ねた。私は例によってペコリと頭を下げて

軽く自己紹介をした。滋賀に来て何度目の自己紹介だろうか。

 店先に立ったまんまの私達を見かねて、まぁ、上がって、と言ってくれた。玄関で

靴を脱ぐ居酒屋は初めてだった。無論、居酒屋なんてものは19年生きてきたけれど、

殆ど利用したことがない。未成年だからだろうか。来年成人式を迎えるが、成人した

途端に足繁く通うことになるとは考えられない。もしかしたら最初で最後の居酒屋に

なるかもしれないから、ゆっくり大人になった気分でくつろいでみたい。

 それにしても全席堀りごたつ式とはこりゃまた珍しい。小上がりもスッキリサッパ

リしており、見ていてすがすがしいものがある。居酒屋というものは、客の吸いまく

った煙草の煙がそこら中にプンプン漂っていて、壁はそのヤニで黄ばんでいて、カウ

ンター後ろの棚にはわけの分からない趣味の悪い置物なんかがあって、旅行に行った

ときに買ってきた数々のペナントが所狭しと貼られていて、おまけにマスターという

のか、オヤジさんの不精髭が気になって料理を味わうどころではないような、そんな

所だと思っていたが、こんなにキレイなものか。私はキョロキョロと、獲物が見つか

らない間抜けなハイエナのような顔で辺りを見渡していた。時間は11時を過ぎてい

た。

 

太郎坊の山

 いや、それにしてもすごい居酒屋だった。店の造りといい、雰囲気といい、文句な

しの素晴らしさ。たまに二郎ちゃんの後ろを横切るオジさん(ミニマムな彼、とでも

呼ばせてもらおう)は通るたびにヘコヘコしていて、なんだか可笑しかった。相当腰

の低い人なのか、関係のない私の方を見てもヘコヘコしていた。ミニマムな彼に「も

っと胸を張って人生いきなはれ」と変な関西弁で、心の中で叱咤した。それにしても

食べ物屋さんで甘納豆とポテトチップスの顔を見ることになるとは本当に驚いた。二

郎ちゃんが「ポテトチップス持ってきて」とミニマムな彼に頼んでいるのを見て、ま

さかとは思ったが本当に出てきた時は卒倒した。居酒屋って何でもありなのか。

 明日また逢う約束をして、二郎ちゃんとは別れた。居酒屋でまかちゃんが、しきり

に「この子(私)はええ子や」と言ってくれたことが、とても嬉しく、印象深く心に

残っている。

 <魚元>に向かう車中で母が何かを発見した。「あ!太郎坊山ちゃう?珍しいなぁ」

母は<珍しい>と<懐かしい>を滋賀にいる間、ずっと間違えっぱなしであった。初

めの1、2回は「珍しい、ちゃう!懐かしい、の間違いやろ」とその都度訂正してい

たが、あまりにも間違い過ぎるため、訂正するのが面倒になっていった。早口2位の

母が言うと<太郎坊>という単語が、たらぼ、か、たろぼ、にしか聞こえないので“は

ぁ〜ん、この山はタラボ山っちゅうのか”と間違えたまま覚えていた。この辺りでは

きっと太郎坊山はかなりメジャーな存在なのだろう。街の至る所で太郎坊の看板?を

見かけた。それが本当に半端な数ではない。清水町の辺りでは、太郎坊はみんな同じ

顔をしていたのに、八日市ICに続く国道か何かの大きな道にヒョロリと立っている

太郎坊は地元の幼稚園の子か小学生が描いたものであろういびつな顔をしていた。目

の大きさが全く違っていたり、鼻があらぬ方向へ曲がっていたりして“これでええの

か?太郎坊”と心の中で呼び掛けた。

 母の言葉に「今から行こうか?太郎坊山」とまたしても、まかちゃんは嬉しい提案

をしてくれた。まるで私の心の内を見透かしているかのように、色んな所へ連れてい

ってくれる。時は既に0時に近くなっていたが、興奮しているのか全然眠くならない

し、寝るくらいなら一晩中八日市を探検してみたいと思っていたのだ。

 山は頂上の方まで灯りがついていた。こんな夜遅くまで?と思ったが、私達の他に

も山を訪れている人が何人かいて、妙に納得してしまった。

 山の途中に夜景が一望できるところがあり、そこに車を停めて景色を満喫すること

になった。「うわぁ〜〜〜〜!!」キレイ!本当にキレイすぎて思わず叫んでしまった。

この夜景の前では名古屋の夜景だって、ラスベガスの夜景だってどんなにキレイと騒

がれている夜景だって霞んでしまう。ひとしきり感動した後、この夜景を知人にも見

せたくなり、写真に収めようと思ったのだが、この綺麗さはウチのカメラでは到底再

現しきれないだろうと思って、折角の夜景を台無しにしたくなくて、シャッターをき

れなかった。知人には申し訳ないが、こればかりは自分の眼で堪能してもらうしかな

い。この夜景で、今まで私を含め何人の人が惚れ、ウットリしたのだろう。ここから

一歩も離れたくない!そう思わせる太郎坊山はかなりのやり手だな、とひとり感心し

ていた。

 

まさかの地獄

 山をおりた後、もうそろそろ帰らねば、ということになり今度こそ<魚元>を目指

した。私としては先程も述べたように、まだまだ力も有り余り、もっと見たいぞ〜ヤ

ァ〜ッ!などと雄叫びをあげるくらい、いっぱい探検してみたかった。しかし、その

ことを母に告げる勇気などはびた一文とてない。それにこれ以上、まかちゃんに迷惑

をかけちゃいけないなぁ・・・私の欲望はアッサリと理性に負けた。でもそれで良か

ったのだろう、と今思う。

 私は八日市に来たときからずっと気になっていた例の太郎坊を写真に収めたくてウ

ズウズしていた。が、いた!と思っても車でシュン、と通ってしまうので、なかなか

シャッターチャンスがない。勿論、それだけのために「今の太郎坊を撮りたいので車

を停めてください」とお願いするのは、あまりにも非常識すぎるため、またも「太郎

坊を撮りたい」という欲望より「そんなことは自分の勝手にすぎないから、後で歩い

て一人で撮ってこい!」という理性に軍配が上がった。いつもそうである。私の欲求

なんてものは却下されまくりだ。裁判で言うなら(敗訴)という感じだ。しかし、被

告側も原告側も私自身なのだから、誰かを責め立てることはできない。そこが独り相

撲の悲しい性である。もうそろそろ<魚元>に到着しようかという時に、一筋の光が

差したように思えた。信じられないことに太郎坊は<魚元>の駐車場近くのゴミ捨て

場の橋につつましく立っているではないか!私は一刻も早く太郎坊の元へ走って行き

たくなった。車が停まると同時に、私は一目散にダッシュした。しかし、その数秒後、

私はドサリと倒れこんだ。その瞬間「ギャー!」と心の中で叫んだ。それが声になっ

ていたかは定かではないが、激しく地面に叩きつけられたカメラを助けてやることも

できず、ただただ有刺鉄線に絡まっているだけであった。これじゃ毒グモの巣に、い

とも簡単に捕まった間抜けなトンボじゃないか。自分の情けない姿に、おいおい泣き

たくなった。これでは太郎坊どころではない。堪え難い足の痛みに撮影は泣く泣く諦

めた。「別に今撮らんでもええやん。明日の朝撮れば?」・・・いたって冷静な師匠の

意見はごもっともだった。確かに夜にわざわざフラッシュをたいて撮らなくても、明

るくなってから撮ればいい話じゃないか。別に太郎坊が逃げるわけでもない。翌朝も

いるんだから。「はぁ〜・・・」私は全身の力が抜けていくのをうっすらと感じた。な

んて私はこうなんだろう・・・。自分の馬鹿さ加減にほとほと嫌気がさしてきた。そ

の間も足はズキズキと疼くのであった。傷に密着する細身のズボンを今日ほど恨めし

く思う日はないだろう。その傷は今も完治していない。膿んだ所をフーフーと息で吹

いて乾かしながら、こうしてキーボードを叩いているのだ。いつかこの傷が治ったと

しても、跡は残ってしまうだろう。そして、その跡を見るたびに滋賀での事を思い出

すだろう。しかし、それは忌々しい過去とかではなく、「痛かったけど、皆が心配して

くれたし、何より楽しかったからいいや!」と良い思い出だけが残るに違いない。

 

減塩食パン

 何という目覚めのいい朝なのだ!!私は昨夜Tシャツで寝たのだが、全く寒くなか

ったし、この部屋の日当たりの良いことといったら!滋賀は町並みは小諸と多少似て

いるかも知れないが(それも滋賀が100歩譲った話)気候の点では、小諸なんぞ滋

賀の足元にも及ばない。気持ちのいい日差しが<魚元>の至る所から浴びることが出

来る。特にそれを感じたのは、床をホウキで掃除させていただいた後、ホウキを元の

場所へ戻しに、厨房にある裏の戸?から出た時だった。目の前には私の兄(大ちゃん)

が好んで遊んでいたという川が広がり、日差しが暖かく、“あ〜幸せやなぁ・・・”と

しみじみ感じた。小諸にいては、あの気持ち良さは味わえないだろう。そう考えると、

ここに来て本当に良かったなぁ、とつくづく思う。

 それにしても広い厨房だ。大きな冷蔵庫がいっぱいある。一部屋が丸ごと冷蔵庫に

なっているのもあり、あれにはさすがに驚いた。夏はあの中で昼寝したらさぞ快適だ

ろうに・・・などとバカらしい考えまで思いついた。

 昨晩、寝る前にまかちゃんから「パンを用意しとくから、食べや」と言われていた

パンを早速焼いて食べてみた。母はまかちゃんのお手伝いをし、師匠はホタルイカと

格闘している。私だけがノホホンとパンを食べているが・・・良いのだろうか?それ

にしてもこのパンはなんて美味しいのだろう!袋には<減塩食パン>と書いてあり、

実際はどの辺りが減塩なのか、このパンを作った工場の人に説明してもらわないと分

からないのだが、そう銘打ってるからには、減塩してあるのだろう。なるほど、減塩

するとこんなにもパンは美味しくなるものなのか?まてよ、それとも<魚元>の厨房

で食べているから、美味しく感じるのだろうか?もしこのパンを小諸に持って帰り、

同じように焼いて食べても、このパンの美味しさは変わらないのであろうか?結局、

真相は分からないままだが、何しろ、美味には変わりないのだから良いではないか、

という結論に達した。

 気づけば厨房に二郎ちゃんの姿があった。いつの間に現れたのだろう。しかし、昨

日交わした約束どおり、しかも早朝からちゃんと来てくれた彼に好感を覚えた。聞け

ば、二郎ちゃんはアパートで一人暮らしをしているらしい。子供とも一緒に暮らして

いないの?一人で寂しくないんですか?・・・色々聞きたいことはあったけれど、そ

のあたりの質問はタブーなのかもしれない、と思い、自粛した。こういった質問は、

もう少し仲良くなってから聞いてみようと思った。仲良くなれるという保障は何処に

もないのだが・・・。

 まかちゃんが手際よくチャッチャと皿に盛り付けていく姿は、見ていて「おーっ」

と歓声をあげたくなる程であった。私もあんな風に出来たらなぁ・・・と思いながら

ずっと見ていた。

 皆がせっせと働いている間に私は写真を撮りにいった。母のバカチョンと、自分の

昨晩負傷したポロライドと、まかちゃんの立派な高価そうなカメラの3台を担ぎ、プ

ロになった気分で悠々と歩いた。<魚元>の門構えを数枚撮っていると、チャリンコ

に乗ったおばちゃん2人組が「ちょう、先通らしてな」と、<魚元>の前を足早に去

った。再びシャッターをきろうとすると「これ<魚元>撮ってどうするの〜?新聞に

でも載せるの?」といきなりおばちゃんに聞かれ、「え?あ、いや・・・」としどろも

どろになった。「はい、そうなんですよ〜」とでも言えば面白かったのかもしれないが、

初対面の人に嘘をついてしまうのに抵抗があったのと、新聞というマスコミュニケー

ションを使い嘘をつくことに恐怖感があったのだ。うまく説明できないのだが、テレ

ビ局に時限爆弾などを送り付けたりする事件が昔あったが、それてお同じくらいの罪

悪感を感じてしまう。

 その後も私は3台のカメラをとっかえひっかえ、沢山の写真を撮った。どの写真を

どのカメラで撮ったのか、もはや分からない状態になった。左の写真は、まかちゃん

のカメラを拝借し撮影したものだ。これは、今日送ってきて戴いたものであり、私も

これを早く完成させ、送らなくてはならない。滋賀から帰ってきたその日の晩から書

いているにもかかわらず、3日経った今でもまだ出来ていない。自分の文才の無さと

頭の回転の悪さにはほとほと呆れてしまう。でも、いくら遅れたって良いから絶対最

後まで完成させたいものだ。私は小説などを書くのが好きで、これまでに10作以上

書いてきたのだが、完結させた試しがない。どの小説も3日坊主ならぬ、3ページ坊

主である。折角ワープロ検定で2級を取得したのだから、是非とも何百枚という原稿

を超スピードで書いてみたいものだ。今のところ、2級の腕前は宝の持ち腐れと化し

ている。

 厨房に戻ると、既にお客さんに出す料理は出尽くしていた・・・。私の大馬鹿!!

これでは何をしにきたのか分からないじゃないか。肝心なときにホロホロと外へ出て

写真を撮って喜んでいる自分が本当に情けなかった。

 そして何もお手伝い出来ぬまま、昼食の時間となった。その日のお客さんと同じメ

ニューが食べられるということで、私はかなり舞い上がっていた。運よく5000円

の料理を注文したお客さんに巡り合えたお陰で、私達も誠に豪勢な昼食を頂けた。<

魚元>さんに感謝すると同時に、そのお客さんにもチップをはずんであげたい気分に

なった。

 

心の料理

 料理を見てまず驚いたのは、それぞれの素材の色が存分に生きているということ。

春満開、といった料理に私は胸を躍らせた。どうしても濃い味付けに合わせ、濃い色

になってしまう小諸の料理ではこういった事は不可能かも知れないと思ったが、それ

は単なる言い訳にしか過ぎないのだろう。そして、薄味ながらもしっかりとした味が

ついていてフキなら、ちゃんとフキの味がするのだ。フキの味が調味料に負けていな

いくらい、主張しているところがとても気に入ってしまった。きっと調味料は最小限

度しか使っていないのだろう。とにかく、美味しいのだ。この一言に尽きる。実は私

は日本料理が苦手で、自分から好んで食べることはまずなかった。しかし<魚元>の

料理は絶対食べてみたかったのだ。

 今まで絶対に食べられなかったアン肝を食べられた時は自分自身は勿論のこと、母

まで驚いていた。アン肝ってこんなに美味しいものだったのか。ウチで食べたときは

一口で「もう結構」という感じになってしまったのにこの違いはなんだろう。初めて

完食したアン肝はチーズのような味がした。こんなにも洋風な味だとは知らなかった。

いや、もしかしたら、<魚元>流にアレンジしてあるのかもと思い、まかちゃんに尋

ねてみたが、何にも手を加えていないという驚くべきこたえが返ってきた。それでは

何故、ウチのアン肝とああも味が違うんだろう・・・。アン肝、アン肝、アン肝・・・。

夢に出てきそうである。

 豪華なお膳に、天ぷらまでついていて、さらにはデザートまでご馳走になり、私の

心の中でクラシックが上品に鳴り響いた。曲名は定かではないが、さしずめビバルデ

ィの「春」といったところだろう。デザートが出てきた瞬間、早くも私の目には涙が

溜まっていた。こんなんによくしてもらったのに、何もお返しになるようなことが出

来ない自分に歯痒さと苛立ちを感じた。こんなことなら、さっきカメラで遊んでいな

いで少しでもお手伝いをすれば良かったのに・・・。

 <魚元>の料理一品一品に心がこもっていて、それがすごく感じ取れる。もし全く

同じ料理を他の店で出されたとして、果たして私はどれだけの料理を食べることが出

来たろう。<魚元>の心の料理だからこそ、こんなに美味しく頂けたんだと思う。も

うこの味を知ってしまったら、他の店には入れないなぁ・・・と思った。

 部屋の中でまかちゃんはいろんなお話をしてくれた。まかちゃんは何事に於いても

「やる気の問題や」と言った。本当にそうだと思った。吉野鮨での自分の行動を振り

返ってみた。思えば、動きはダラダラとして鈍いし、楽をしようとばかり考えて生活

していた気がする。この料理とまかちゃんの言葉によって私は今までの生活を改め、

生まれ変わることを決意した。何事も一所懸命に頑張るぞ!もう朝寝坊はしないぞ!

仕事中あくびなんかしないぞ!グラスはあんまり割らないようにするぞ!ヤァーー

ッ!気分が最高潮に達した時、我に返った。そうかぁ・・・もう帰らなきゃいけない

んだ。もっともっと色んな話をしたかったのに・・・。あまりの居心地の良さに、帰

ることをすっかり忘れそうになっていた。気を抜くと流れてしまいそうな涙をぐっと

堪えて昼食の後片付けをした。

 

帰ることになった

 荷造りを終えた母が玄関に立つ。私はお尻のポケットに細心の注意を払った。ポケ

ットにはさっき部屋にひとりでいた私にまかちゃんが渡してくれたものが入っていた。

「5千円やから」といって渡された封筒は、本当に申し訳ないような気がして受け取

れなかった。こんなによくしてもらった上に、お金なんて頂けるわけがない。「これで

また滋賀に来てな」まかちゃんの優しい言葉にまた号泣、である。封筒をしっかり受

け取り、ポケットに入れたはいいが、落ちたらどうしよう・・・と気が気ではなかっ

た。

 “5千円なんて大金、どうしよう・・・”といいつつ、これでまた滋賀に行けるん

だ〜!とワクワクしながら帰りの車中で封筒の中を覗いてみて卒倒した。5千円でも

十分な大金なのに、それの10倍ってアンタ、これじゃ大企業の社長夫人のお小遣い

だよ・・・なんて訳の分からない事を口走り、即座に母に預けた。この方が安心だと

思ったのだ。渡す際、私は何度も母に念を押した。「これで滋賀に行くんやからね!!」

 玄関口で文子さんに挨拶をし、ついに<魚元>と別れる時が来た。どうしようもな

いくらい、涙が出てくる。こんな泣き虫の自分は大嫌いだ。本当はもっと笑顔で軽や

かに別れたい。最後のマークUに乗る時が来た。初めてマークUに乗ったのは病院か

ら<魚元>に向かった時、私ひとりで。緊張している私にまかちゃんは沢山話してく

れた。車にテレビがついているのが珍しくて驚いたのを覚えている。2度目はその直

後、ココスに連れていってもらった時に全員で。そして3度目。病院に向かっている。

乗っているのは母と私。もうマークUに乗れないのか・・・そう思うとやっぱり泣け

てくる。

 病院にはあっという間に着いてしまった。二郎ちゃんは車の中で昼寝をして待って

いてくれた。病室に入るとおばあちゃんは元気そうで、まずひと安心だ。私も涙が出

る気配はく、好スタートを切れた。

 数分話した後、看護婦さんが入ってきた。大柄な看護婦さんだが、とても美人であ

る。おばあちゃんと看護婦さんのやりとりが少しあって、母はおばあちゃんに滋賀を

出る話を切り出した。「ほなな、おばあちゃん。もう帰るさかいな」おばあちゃんは泣

いていた。おばあちゃんだけでなく、まかちゃんも、二郎ちゃんも、母もみんな泣い

ていた。私にいたっては、目を覆いたくなるような形相で大号泣していた。私も折角

おばあちゃんに逢えたのに、もう帰らなきゃいけないのはすごく悲しかった。「ほんま

に来てくれてありがとう」そういったおばあちゃんは、おもむろに両手を合わせた。

私は本当に涙が止まらなかった。“私もおばあちゃんに逢えて嬉しかったです。ホンマ

にありがとう”と言いたかったけれど、喋ることすら出来なかった。

 病院を出れば、本当にお別れなんだ。胸がキューッと痛くなった。帰るのが本当に

辛かった。今度こそ笑顔で・・・と思っているのに、涙のせいでうまく笑えない。最

後、まかちゃん、二郎ちゃんとギュッと握手したらすごくホッとした。2人の手はと

ても温かかった。病院を離れ、小さくなっていく2人をじっと見ながら、またすぐに

逢えるように心の中で願った。

 

     18、19日の2日間で、小諸から出て八日市で過ごして私が感じたことを全て

文章にしてみました。当初、誰にも見せずに自分だけの記録にしておこうと思い、書

き始めたのでありますが、母にこれを少し見てもらいましたところ「まかちゃんに送

って読んでもろたらええやないの」と言われました。“こんな訳の分からない文章をま

かちゃんに見てもらうやなんて失礼にあたらないかなぁ?”と思い始めるようになり

ました。初めは5枚くらいにおさまるのかな、と思って書いていたのですが、書き終

えたら13枚になっていました。文中にもあるとおり、私には本当に文才が無く、読

み返すのも恥ずかしいくらいの酷い出来になっているとは思いますが、19歳の無知

な若人が書いたと思って、お許しください。私の、どうしようもない道中記に最後ま

でお付き合いくださいまして本当にありがとうございました。心より感謝申し上げま

す。共に後書きの挨拶とさせていただきます。

3/23/2001 みちこ