京都の夏と、ブンガクと

横谷佳子

 

 某月某日

 事務所の窓外に広がる北山の緑も深くなった。もう夏だ。

 昼さがり、仕事を早く仕舞って、街へ出ようと近くのバス停まで。しばらく歩くと

汗ばんでくる。ちょうど下校の子供らの制服も、いつのまにやら半袖に替わっている。

茶の帽子、茶のランドセル。近所にあるN学園付属の小学枚、府下でも有数のリッチ・

スクールの生徒たちだ。皆湯あがりのような清潔な皮フをしている。のほほんとした

表情の子が多い。ただ、見識あるなと思うのは、ほとんどの子が揃いの運動靴をはい

ていること。ほんの数名が革靴だが、この伸びざかり遊びざかりの年齢にあんな高い

モンはかせてどうすんだと思う。ま、それもこれも大人たちの思惑、本人たちはいた

ってふつうのガキンチョである。

 二年生くらいの男の子が三人、何やらカン高い声で呼びかわしながら駈けてくる。

うち一人は目立って鈍い。二人はあっという間にそばを駈け抜けて行ったが、彼一人

はだいぶ遅れた。先の二人は横断歩道のところで立ち止まり、おそい彼を一種嗤う顔

つきで待っている。孤走の君はそれでも、急ぐでもなく羞じるでもなくごくのんきな

顔つきで、あいかわらずのろのろと駈けてくる。私の前、数歩のところで、彼は半分

口をあけて上を見た。私もつられた。傍らの家の塀からはみだし、頭上を覆うように

咲き乱れる薔薇・・・・! 咲き誇る花に目を据えたまま、彼は私の前を過ぎ、二人

に追いついた。その後ろ姿を見送って、私はなんとなく、この子はからだがあんまり

丈夫じゃないんだなと思った。『ヴエニスに死す』の科白を思い出した。どこかはかな

げな美少年に、作家が遠くから告げる別れの独白。

「さよなら、タッジオ。短いおつきあいだったね」。

そして「お仕合わせにお皿暮らしよ」

 

 某月某日

 八〇と七六の父母が広島からやって来る。満州は大連第二中学の父の同窓会で、当

時の生徒たちは日本中に散らばっているから、日本のほぼまん中の京都で、というこ

とらしい。会は一泊二日だが、たまの京都だからと三泊してゆくことになった。さて、

何をしてお相手しょうと考えて困った。なにしろ、会の二日目は祇園祭りのハイライ

ト、山鉾順行当日なのに、出席者の誰一人見学を希望しなかったという。彼らの年齢

では、暑くて・人ごみ・昼日中というのは論外だそうだ。父が最年少というのだから

無理もあるまい。

 しかしそうなると選択肢は限られてくる。炎天下の神社仏閣まわりは当然却下だろ

うし、南座(歌舞伎座)には目下芝居が掛かっていない。映画はどうだ、お、原節子

『めし』、いいんじゃないの、ナニナニ「― 倦怠期にある夫婦がふとしたことをきっ

かけに亀裂を深めてゆく・・・・」やめておきましょう。だけど洋画じゃ字幕と見較

べてるうちに筋がわかんなくなっちゃうだろうし・・・・

 そこで思いついたのが保津川下り。宿の目の前の駅からトロッコ列車で上流へ、そ

して船頭さん三人の漕ぐ小さな乗り合い舟で二時間かけて嵐山へ下ってくる。

 正解だった。水面をわたる録の風、刻々姿を変える峡谷の眺め、処々現れる急流を

乗り切る船頭さんの手練の棹さばき。誰ともなく漱石『草枕』をもちだしてくる「情

に棹させば流される ―」「とかくこの世は住みづらい ―」「その前は?」「埋に

んだっけ?」「かたむけば?」「なんかちがうね」口々に言いかわしているうち早や嵐

山に到着。少し歩いて古い湯豆腐屋で森嘉の豆腐。座敷を出しなに、いれちがいに松

葉杖の若い娘さんが案内されてきた。目礼して縁先から庭へ出る。隣の靴ぬぎに、き

れいに光ったハイヒールがひとつポツンとあった。

 * 『草枕』出だしは次のとおり。

    「山路を登りながら、こう考えた。智に働けば

     角が立つ。情に棹させば流される。意地を通

     せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」

 

 某月某日

 暑い。ラジオの予報では三十六度まで上がるそうだ。もうどうとでもしてくれであ

る。

 我が家は大徳寺にほど近い一軒家。向かいの大家さんが下の二問を納戸に使い、残

りを私が借りている。二階の三間と一階の台所その他いっさいである。広い。贅沢で

ある。家賃は五万。幸せすぎてコワいくらいだ。

 ただし、暑く、そして寒い。京都の気候も気候だし、木造なので石油ストーブ禁止、

そして私はクーラーを持っていない。風通しは抜群なのだが、いくらビュンビュン風

が吹いても、黒い瓦屋根を戴いた南向きの二階というのは夏の日中に居るところでは

ない。昼寝をする場所を求め、枕を抱えて下におりる。玄関先の二畳ばかりの板の間、

ここが家中で一番涼しい所なのだ。ころりと寝ころがると床の板がひんやりと背に心

地よい。夏目鏡子『漱石の思い出』を読む。う−ん難儀な人だ。いい人の時はすごく

いい人なのだが、「あたまの険悪な時」はヒドイ。一人で怒って周りに当たり散らし、

それでますます荒れ狂う、といった調子。鏡子夫人もその辺を思い出すと腹が立つみ

たいで、次から次へと思い出し、もう止まらない状態。それでも夫君を誇りに思う気

持ちも大変なもので、そのコントラストが漱石の体温を感じさせ、いい本だと思う。

それにしても、妻子はもちろん、母や弟妹にまで手ばなしで敬慕された家長・鴎外を

どうしても思い出してしまう。漱石と鴎外を比べる愚は百も承知なのだが・・・・。

だって、『漱石の思い出』の解説がこうだ。

 ― 漱石の筆頭弟子の小宮豊隆はその著『夏目漱石』で、『思い出』中の病的な漱石

の描写を「悪意に近い不満を持って」、「真っ向から否定しようとしている」が、やは

り『思い出』が本当である。「というのも、私自身が、こうした険悪な父の家族に対す

る理不尽きわまる振舞いを、限のあたりに眺め、かつその恐ろしさを身をもって体験

しているからである」。この後に.その「恐ろし」い体験談が続く。書いているのが次

男坊。思わず苦笑してしまったが、泉下の漱石先生もあるいは同じ思いであろうか。

 

某月某日

 君が愛せし 綾蘭笠

 落ちにけり 落ちにけり

 賀茂川に 川中に

 それを求むと 尋ぬと せしほどに

『梁塵秘抄』

 

賀茂の川を渡る時、たまにこの歌を思い出す。八〇〇年も昔の歌だが、今の私たちと

そうも変わらない一人の日本人がこの川面をのぞきこんで、「落としてしもうた」なん

て焦ったんだろうなあと思う。まったく京都というのは古い町だ。そこらじゅうに人

が生きて暮らしていた痕がある。地面を掘れば骨やら家やら出てくるし、歌に詠まれ

た山も川もそのままだ。古く裁きの場だったという糾(ただす)の森には今も家庭裁

判所があり、憎い上京税務署辺には道綱母が住んでいた。(住んでいる、と書くところ

だった。)私の住む紫野は、その昔は都のはずれもいいところで、一面紫の花の咲く野

っぱらであったという話だが、それでも近所には牛若丸の産湯の井戸があり、紫式部

のお墓がある。ありとあらゆる人々が生きた土地なのだ。

さて、賀茂川だが、今でも水はずいぶんきれいだ。出町柳辺りまで行くと、子供が

泳いでいる。たまに大人も泳いでいる。私も泳いだことがある。この御時勢、県庁

所在地(京都は府庁だが)の街の川で泳げるというのは結構ステキなことではある

まいか。出町の橋のすぐ上ではよく水中眼鏡の子供たちがもぐっている。直径一メ

ートル半ほどの排水孔の水の落ち口になっているので、そこだけちょっと探いのだ。

そばに置いてある籠をのぞくと、エビやらカニやらが動いている。なぜその場所で

獲れるかというと、そこの水が富栄養だからだろう。なぜ富栄養かと言うと―、考

えていたらあんまり涼しげな風景に見えなくなってきたので、暑さにかすむ比叡山

の方へ目をそらしつつ橋を渡った。

 

 八月一六日

 今日は送り火、大文字焼きの日。まだまだ暑い京都だが、この日でなんとなく夏も

ひと区切り、といった感がある。私はこの送り火が好きだ。スケールの大きさがいい。

山の斜面から夜空に向けくっきりと浮かびあがる火の色を見ると、あーこれで御先祖

たちも広い明るい道を帰ってゆける、と安らかな気持ちになる。

 いつの時代だったか、京大のイタズラ者たちがこの夜、大の字の左肩あたりに潜ん

でいて、点火と同時に懐中電灯かなんかをいっせいに燈し、大騒ぎになったことがあ

るらしい。即刻とりおさえられたけれど、なんとか退学は免れ、停学処分になったと

きくが・・・・。そりゃ、マズイよ、卿先祖さまに対して《犬》じゃ。せめて《太》

にしとけばよかったのにネェ。

 例年この日は五山が見晴らせる友人・知人の家に押しかけたり、お弁当・ビール持

参で河原や丘といった見物スポットにくり出すのだが、今日は一人さびしく事務所に

居残り。昨日の深酒がたたって仕事が終わらない。先パイ達今頃酒盛りかな、いーな

ーとブツブツ言いながらデスクに向かっていたけれど、やっぱり八時の点火タイムが

近づくとソワソワ、三階の踊り場に上がっていった。ふだんはこの時刻にはさびしい

くらいのこの辺りなのに、どこから湧いて出たのか人がいっぱい。大文字山と妙法を

望む角地に建つ事務所の周りの金網にとりつかんばかりにして、ぐるりの歩道で点火

を待っている。ウチは割合に広い敷地があるので、今ゲート開けてここ開放したらず

いぶんユックリ送り火見物できるのになあと思いつつ窓からソット首をひっこめた。

気分は『わがままな巨人』。来年ここだけ春がこなかったらどうしよう。

 さて息をひそめるようにして見た大文字。よく見えた。だけど、一人でしらふじゃ、

あれ、間がもたない。人とワイワイ言いながら眺めるから盛りあがるんであって、1

人でだまってこの頃亡くなっただれかれを思い出しながら見ていたら、気持ちがしん

としてしまった。それが本来の姿なんだろうけど・・・・。そそくさと仕事にもどっ

た今年の大文字であった。

 

 *大文字五山送り火

孟蘭盆会の伝統行事。八月一六日夜、大文字、妙法、船形、左大文字、鳥居形の

五山に、左回りに順次点火される。盆の入りの迎え火でやってきたって来た先祖

の霊を、彼岸に送り返すためのもの。

 

横谷佳子(よこやよしこ)

横浜生まれ広島育ちの36歳。高校卒業後、「大旅行家」をめざしてインドへ出奔。し

かし滞在一年のうちほぼ十ヶ月を同じ村で暮らしてしまう。帰国後「大女優」をめざ

して芝居に身を投ずる。が、ザセツ。同時進行であったレンアイにもザセツし、自分

に愛想が尽きそうになる。が、「バカだからいけないんだ、よし、カシコクなろう!」

と大学入学。赤貧であり、あまりカシコクもならなかったが、幸福な四年間を過ごし、

京都の出版社に就職。〆切さえ守ればいつどこでしてもよく、また冬場にはまったく

仕事がない、という受験問題集校正者の仕事柄を生かしているのか翻弄されているの

かよくわからぬまま元気な日々を送っている。