2/17 2003掲載


編集長殿

 

これは系統別伝言板にかつて載せた文です。

v.Kさんの「プラハの春」を見て補足説明として会員便り欄に載せていただけたらと思い、

コピーしました。

 

森脇久雄

 

「プラハを救ったスボボダ大統領」

 


私はチェコスロバキア動乱が起きた1968年、浜松で修行中のかたわら、新聞テレビで

見聞きしたことをリアルタイムで克明に日記に記し続けたのですが、今、その日記を探

したところ、1968年の分だけが行方不明になっているのです。

思い当たるのは、東欧の共産圏崩壊が生じた1989年の年にドプチェク氏が復権したこ

とやチャウシェスク・ルーマニア大統領が失脚したことなどに深い感慨を覚えて日記を

引っ張り出してきて見た後、別のところにしまってしまったのだと思われます。

日記を参照にして書きたかったのですが、記憶を頼りにあの当時の印象に残る政治家

たちのことを記します。

 

プラハの春というと人間の顔をした社会主義路線を陣頭指揮したドプチェク第一書

記の名が多くの人の脳裏に残っていると思いますが、私はスボボダ大統領の名を忘れ

ることができません。



ワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに侵入してアッと言う間に首都プラハを制圧

し、ドプチェク首相を初めほとんどの閣僚をモスクワに拉致し去ったとき、「ドプチェク氏

の身に何か起きたとき、私は大統領を辞任するし、チェコスロバキア国民の行動を制御

する保障はできない」という声明を発表してソ連を牽制したスボボダ大統領の判断と勇気

は新聞記事で読んだとき、体が震えるほどの感動を覚えたものでした。

 

これはその10数年前のハンガリー動乱でハンガリーに武力侵攻したワルシャワ条約機

構軍が改革派の旗印であったナジ・ハンガリー首相を拉致し、モスクワで処刑してしまっ

た過去があるため、それを防ぐためにすぐさまこのような行動にスボボダ大統領は出た

のでした。

ハンガリー動乱のときは実際に戦闘が起こり、多くのブダペスト市民の血が流れたので

す。我がmitiko姉が幼い私に「今、ハンガリーでは戦争が起きているのよ」と悲痛な声で

話してくれたときの表情を今でも覚えております。

 

そしてスボボダ大統領はソ連首脳陣との直接交渉のためにモスクワに乗り込み、単身で

ソ連を初めとするワルシャワ条約加盟国の首脳陣らのこのような事態になったことへの

責任に対する激しい追及や罵倒の中で一歩も譲らず、ワルシャワ条約機構にチェコスロ

バキアが今後も残ること、改革をより緩やかなものにすることを条件に、ついにドプチェク

首相を初め閣僚たちの釈放、そしてワルシャワ条約機構軍のチェコスロバキアからの撤

退を勝ち取ったのでした。

 

スボボダ大統領は勇敢さと粘り強さをもって国難のときに国と国の名誉と政府首班たち

の生命を守った政治家です。

マリアさんが写された夢のように美しいプラハの街はスボボダ大統領のおかげでもって

戦禍から免れたと言っても過言ではありません