新宮山彦ぐるーぷ関西支部 NO.2
阪神大震災被災地への新宮山彦ぐるーぷ支援物資の搬送
実施日 H7.02.19
参加者
猪飼久子・田中 亨・田端祐二・森脇久雄・森脇教雄・森脇裕美子
今回の阪神大震災に際してほど、自分が新宮山彦ぐるーぷに在籍していることの有り難さを身に染みて感じたことはありませんでした。ここ数年、山彦の山積する奉仕活動にほとんど協力することもできなかったのに、この苦し紛れに泣きついた私の無心を快く引き受けてくださり、大量の救援物資を送り届けてくださった玉岡様、山上様を初めとする新宮山彦ぐるーぷの皆様のご厚意には感激のあまり言葉もないくらいです。まず冒頭にこの感謝の気持ちだけ先に述べさせてもらいます。
あの1月17日の早朝、震源地からかなり離れた震度4の地の寝屋川市でも、あまりの激しい揺れに、家屋の倒壊、そして一瞬、死の覚悟さえした恐怖を経験しただけに、その後の報道で5千人以上の犠牲者が出たことを知ったときは、あの恐怖の思いのなかでそんなに多くの人々が亡くなって行かれたのかと思うと、恐ろしさと痛ましさで胸が塞がるようでありました。その後、町内会や関係する各団体の義捐金には応じたもの、私自身、昨年末、25年勤めた組織を辞めて独立開業したばかりで経済的余裕もなく、心に納得できるほどの金銭を供出したわけでは無く、何か、被災者にこの体で助けになることはできないかと思い悩んでいたところでした。そこへ2月13日に、震災地の救援本部で3人の息子達とともにボランティアに従事されている友人の篠原三千征氏から電話があり、物資が有り余っているいうマスコミの報道のおかげで、現地の被災者に送られてくる日常物資が急速に減りだしてきてたいへん難儀しているので、私の周囲の出来る限り多くの人達へ援助を呼びかけるよう動いてもらえないかと要請がありました。しかし、私自身、これ以上多くの救援物資を調達することが出来ないのに、誰でも状況は一緒であろうに他人へ声をかけることは大変気の重いものでしたが、息子とその友人が翌日、現地に行ってみるというので、取りあえず二つのザックにペットボトルやカイロ、インスタントラーメンを詰めさせて、篠原氏が詰めている神戸市東灘区の御影中学校に送り出しました。そしてその後、私は誰それに声をかけたらよいのかと思い悩んだ末、結局、私が甘えられるのは新宮山彦ぐるーぷの玉岡様しかいないという結論に達し、今回の震災発生後は誰よりも早く救援への行動を起こしてそれなりのつとめを果たされておるに違いないことは百も承知でいながら玉岡様へ援助要請の電話をしたのです。有り難いことに、玉岡様は二つ返事で引き受けてくださり、山上様と相談して早々に物資を揃え、拙宅宛に送る約束と、しかも良いきっかけを作ってくれたと感謝の言葉まで頂きました。電話を切ったあと、ああ、これで篠原氏への義理が果たされる、荷物を現地に運んでいって私自身わずかでもボランティアの一助に加えてもらうことができるといった安堵感に満たされました。
新宮からの救援物資は5つの段ボールに入って16日の午前中に我が家にとどきました。被災者でもない私ですがどんなに嬉しく励まされたことでしょうか。現地に届ける役目は、初めは山彦の関西支部のメンバーにお願いするつもりでしたが、期日の2月19日日曜日があいにく、平田氏を除く他の皆様の都合が悪く、平田 保氏と友人の田中 亨、田端祐二の両氏の計4人でいくことに決めたのですが、前々日になって息子と娘が行くと言ってくれたため、また、しるこやカップ麺のケースは軽いから手分けして両手に持てば良いという息子の提言で、ご自身、被災者でもあり、遠方から我が家までわざわざ来てもらわなければならない平田氏には直前になってお断りしました。ただ前日夜、同僚に勤務を代わってもらうことができたからと電話されてきた猪飼久子様には、近いこともあってご協力を願うことにし、19日は、結局、総勢6名で東灘区の御影中学校に出向きました。復旧した一番神戸よりの鉄道駅、阪神御影までの電車は結構込んでおり、乗客の多くが、窓から食い入るように被災地の沿線の様子を眺めていた様子から外部の人達のように推察されるのに、意外と荷物を持っている人が少なく、これは後から篠原氏に聞いたのですが、親戚を見舞にきたり被災地を見学にくる人達の群だそうで、同じ来るならわずかでも良いから物資を持ってきてくれたらどんなに有り難いことかと彼は嘆息していました。震災後、西宮市までは何度か来たことがあるのですが、芦屋市を過ぎてから沿線の被災の様子が一変するのには驚かされました。古い家屋は軒並み崩壊しておりましたが、奇妙に思われたのは、古くはあるけれども結構立派なビルや鉄筋のマンションが1階が潰れて大きく傾いたり、比較的新しい木造家屋が倒壊しているのに、すぐそばの安普請の文化住宅が無傷でたっていたりしていたことで、特にプレハブ住宅などが被害が少なかった様子は印象に残りました。御影中学校は阪神御影駅から5分ほどのところで、学校外の路上で篠原氏は待ち受けており、「ああ、随分多くの物資を持ってきてくださったのですね。皆さん、山彦の方々ですか?」とこぼれるような笑みを浮かべて迎えてくれました。早速、正門を入ったところの本部受け付けでザックの中味をそれぞれ段ボールの箱に移し換える作業にはいりましたが、乗ってきた電車の車中の様子で解るように救援物資を直に持って来る人が激減しているようで、ボランティアの人達の誰もが口々に「有り難うございます。」と何度もお礼を言っておられました。私が求めに応じて、ノートに玉岡憲明・新宮山彦ぐるーぷと記帳するのを見守っていた割かし年輩の方(被災者の代表)が、「新宮から来られたのですか?」と驚かれるので、我々は新宮山彦ぐるーぷという山の会の関西支部の者で、これらの物資は本部から送ってきたものであることを伝えると、深々と頭を下げて感謝の意を表明されました。荷ほどきしている間に、一人の女性が近づいてカップ麺の幾つかをもらってよいかと尋ねられるのを、ボランティアの人が「まだチェックがすんでませんので後にしてください」と制止されていましたが、それらを見て、山彦の皆様の尊い志は決して無駄になることなく早急に被災者の方々のお役にたてることを確信して大変嬉しく思いました。物資を渡し終えたあと、篠原氏に校庭の天幕の下に案内されお茶の接待を受けましたが、若いボランティアの青年達の中に、篠原氏の長男と次男の姿を発見し、それに奇遇にも、娘の通う京都橘女子高校の生物の実験の助手の方(篠原氏の次男の友人とか)を娘が見つけ、相手の青年もまさかこんな所で自校の生徒に出会うとはと驚いていました。篠原氏の二人の息子さんとは8年前に私が大峯奥駈縦走をやった最終日に吉野道で篠原氏と一緒に偶然出会った時以来でして、見違えるようなたくましい青年達となっておりました。
被災者の方達は体育館と幾つかの特別教室で生活しており、状況を見ないかと篠原氏に誘われましたが、プライバシーの無い生活を強いられている被災者達の気持ちを考えるととても行く気になれず、断りました。ただ、今回の震災の実態は是非、直に目で見てもらって外部の人達に話して欲しいと乞われ、これは新宮山彦ぐるーぷの一員として見ておく義務があると思い、用事のある息子と娘を先に帰らせ、残りのメンバー3人と一緒に、篠原氏運転するワゴン車に乗せてもらって神戸の街中を東は長田区から西は芦屋まで2時間にわたって案内してもらいました。あちこちでビルの傾いている三宮界隈や大火災となった長田地区の被害模様はテレビで見慣れたものでしたが、ときおり、ぽこっと存在する国道脇の狭い公園に立ち並ぶ青いテントとそこで生活されている被災者達の佇んでいる姿や、通り行く国道沿いの随所に長蛇の列を作る人達の風景はメーデーの日を除けばおそらく現在の日本ではまず見ることの無い光景だと思います。長田地区で「何度も前を通りながら一度も黙祷を捧げていないから」と篠原氏が車を国道脇に止め、我々は大火災現場に足を踏み入れてそこで亡くなった多くの犠牲者の冥福を祈って黙祷しました。
ときおり渋滞する中、車中で語る篠原氏の話は、震災2日後に神戸の地に入り、間断無く現在までボランティアに専念しているだけに、マスコミの報道では知り得ない生々しいものでした。報道関係のテレビカメラが設置してある被災本部だけが頻繁に報道されるために、救援物資がそこばかりに集中したため物資が余っているとか、女性生理用品が不足と報道されると今度は食料はがた減りとなって生理用品のみが大量に送られてくるとか、彼が詰めている御影中学校が極端に物資不足となったため他の豊富にある拠点にもらいに行くと勝手に横流しは出来ないからと断られてそれでは関係所轄当局に交渉にいっても一向に埒があかず結局あちこちのお役所で大喧嘩になったとか、地震後一週間後には東灘中央郵便局は前の国道上まであふれるほどの全国からの救援物資が山積みされていたのになかなか御影中学まで来ないので業を煮やして交渉に行くとここでも相手にされず、いつのまにかに郵便局前からは物資の山が姿を消していたとか多くの苦労をされたようです。義捐金で、鍋とかコンロを買って大阪から運んできたら一夜にして10数個のそれらの品物が外部の被災者達(自宅の倒壊を免れて家に居住している近隣の人達)によって持ち去られ、次は練炭のコンロを買ってきてそれからは夜も交代で見張りをたてるようにしたそうです。それでも彼は黙って備品や食料を持っていく被災者達のことを責めることは決してしませんでした。逆にときどきささやかれる被災者達への非難めいた言辞には激しく抵抗し、「被災者がボランティアに甘えすぎている」と言った記事には、定年を迎えささやかな退職金で得た家と老後の生活を一夜にして失った年寄りたちが将来に絶望し、何事にも無気力になったからと言って誰が責められるか、自分がその立場になってから物を言え!と憤懣やるかたない表情でした。また、救援物資のおにぎりを捨てているという報道には、おにぎりを捨てたのはここ御影中学校でもあったそうで、発送されて一週間もたっていたために、サランラップにつつまれてこの寒い季節であってもこちらで食べる段になったときはすでにすえたような悪臭を放っていたためやむなく廃棄処分にしたのだそうです。また衣類などを薪代わりにしているといった報道も、送られてくる衣類の内でも下着類はたいへん貴重なそうですが、その中には、洗濯したとはとても思えない、汚れたままのものがあったり、焼き芋でもくるんでいたのか芋の皮がいっぱいこびりついたままのおそらくゴミとして処分するつもりだったのをそのまま送ってきたのではないかと思われるような物があったりして、あまりのことに紐解いていた女性が「ひどい!」と泣き伏したそうです。聞いていた私たちも信じられない思いでしたが、これが事実なら、この心ない仕打ちが、開明的で誇り高く抜群のおしゃれセンスを持つことで知られる神戸の人達の心をいかに傷つけたことか、胸の痛む思いです。中国の古い諺に、「士は殺すべけれども辱めるべからず」というのがありますが、誇り高い人には、敵対してやむを得ず殺すことになっても決して辱めてはいけないという、いにしえの中国人の礼節に対する深い思いが胸中によぎりました。また、震災直後の2日間、水がまったく手に入らない地区もあって、そういうところの住民が清涼飲料水の自動販売機を破壊し、中味を持ち帰ったということが続出したそうですが、彼らはつい前日までは日本国中どこにでもいるごく平均的な常識を持った市民なのであり、このパニックのなかで生存に欠かせない飲み水を手に入れるために解っててそのような違法行為に走っているのだから、彼らの胸中はいつかこの弁償はしますという気持ちでやっていたに違いないと思いやったらいいではないかと、弁護する篠原氏の言葉、本当に同感しました。未曾有の天災によって何十万の人達の一人一人がとても背負いきれないような重荷を負わされているのです。安全地帯にいる我々部外者はこの被災者達への気持ちの持ち方、言葉の発言はよほど慎重に選ばなければならないと思いました。
車が東灘区と芦屋市の境に来たとき、そこらの住宅地の惨状には息をのむ思いでした。加速計の針が上限を振り切ったといわれる今回震災の最大激震地だとのことです。ここらは住宅地のため大きなビルがあまり無いのですが、それだけに国道の両側が奥の方まで見渡せ、倒壊家屋や傾いた家屋のおびただしい数にもってきて、中央区や長田区のようにはまだ撤去作業が進んでおらず、震災直後の生々しい様が残っており、窓からカーテンがぶら下がっていたり、半分崩れ落ちて、断面図を見るかのように、家屋の1階と2階の構造が丸見えで、冷蔵庫や食器棚が並んで傾いて2階のフロアにとどまっている姿はぞっとするようなリアル感がありました。ここの地区の住民の8割が居住宅を失ったそうで、あまりの規模の大きさに、震災後の新聞に掲載された海から見た神戸市の写真に添えられていた「悲しみの街、神戸」という言葉が写真とともに思い出され、涙があふれそうになりました。阪神芦屋駅についたのは午後の4時でした。別れ際、篠原氏は、「皆さん、きょう見た神戸の惨状をどうか一人でも多くの人に伝えてください。物資はまだまだ決して足りているわけではないことをどうか強調してお伝えください。きょうは、本当に有り難うございました。」と言って、にこやかな笑みを浮かべて車とともに走り去って行きました。聞くところによると、家業を一手に引き受けている彼の奥様は、商売用の車は奪われ、家(大阪市鶴見区)は、近辺から集まる救援物資の集積場と化し、夫と3人の息子は代わりばんこに神戸に出かけて家には滅多にいないという降ってわいたような騒ぎに大変な嘆きようとかですが、本当に頭下がる篠原一家の献身ぶりだと思いました。猪飼久子さんも「本当にすごい行動力の人ですね。」と感嘆しておりました。
新宮山彦ぐるーぷの皆様、今回、皆様の提供してくださった救援物資は150名という御影中学校の被災者にとっておそらく1日か2日ぐらいのささえにしかならないだろう思います。しかし、誓って言えますが、これらの物資は一つの無駄もなく被災者達の役にたってくれることでしょうし、夜はストーブをたくことを禁じられている体育館に住まう被災者達に、わずかな間だけでも新宮山彦ぐるーぷの提供したカイロは役だったということを考えてください。それに24万8千円の義捐金を拠出した後にこのように物資を遠い新宮の地から送られたということがいかにボランティアに従事する人達への励ましになることか、このことが最も大切なことだと思います。本当に有り難うございました。
H7.2.22 関西支部 森脇久雄