登山路の無い尾根の縦走

        台高山系・大台ヶ原から加茂助谷ノ頭へ)

森脇 久雄

 

 加茂助谷ノ頭は、新宮山彦ぐるーぷの玉岡さんが2年前に行き、その印象を大変素晴らしい雰囲気の山と語っていたので、一度は行きたいと心に掛けていたのだが、何しろ尾鷲まで大迂回してのアプローチとなり、山を歩く時間よりも車を運転している時間が大半を占めるという遠距離にあるだけに、熊野での山行のついでにしか行けないと思っていた。 しかし堂田さんが、大台ヶ原から尾鷲辻を経て尾根通しに行くことを提案し、地図を見るとそんなに起伏も激しくない尾根であり、未知の尾根歩行には眼のない平田さんも私も即座に山行を決めたのである。弥山川右岸のトサカ尾根経由の弥山行き、上多古川左岸の鐘掛尾根経由の山上ヶ岳行きと、今までに堂田さんが提案した登山路の無い尾根コースはいずれも素晴らしい山行が経験できたので、新緑の折でもあり、私はかなりの期待感を今回のコースに持ったのである。

 6月1日午前8時、近鉄橿原神宮駅で一同待ち合わせ、私の車で一路、大台ヶ原に向かう。7年ぶりの大台ドライブウエーの走行であるが、堂田さんなどは山登りを覚えるずっと以前の15年前に来たきりだそうで、初めて意識して見る快晴下の大峯山脈の素晴らしい展望に「これを見られただけでも今日来た甲斐がありました」と大喜びである。私も12年前、ここから眺望される大峯山脈の景観に魅了されてから大峯狂いが始まったのである。

 大台ヶ原駐車場着、10時半。いつも食事係をしてくださる小田さんが用意した食糧を荷分けし、先週の熊野奥駈の疲れが残っている(?)私と小田さんは16キロ前後の荷物におさえてもらい、平田、堂田の両氏に20キロの荷物を押しつけ、午前11時駐車場を出発する。

7年ぶりに歩く尾鷲辻に向かう遊歩道のまわりの樹林帯は以前よりも荒れているような感じで、新緑の一番良い季節にもかかわらず、何か精気が無いように感じられた。ただ、だいぶん前に全滅したと聞いていた大台ヶ原のシラベは、駐車場近辺のところでもあちこちに植生しており、いい加減なニュースが流れるものだと思ったものである。一度も行ったことがないという堂田さんのために尾鷲辻でザックをデポして大蛇嵒まで往復し、戻ってきて昼食をして尾鷲辻を出発したのは午後1時であった。

 尾鷲辻を過ぎると急に人影は見なくなり、樹林相も気のせいか精彩を取り戻してきたような感じでやっと本来の大台ヶ原に来たという実感がしてくる。堂倉山手前の鞍部はたいへん雰囲気のよいところで、昔からある尾鷲への道はここから右に曲がっていくが、我々は踏み跡のない正面の堂倉山の緩やかな斜面を登って行く。ここからはブナやミズナラの落葉高木が多く、駐車場周囲のトウヒ、シラベの針葉樹林帯と違って緑の色が美しく実に気分が良い。

 堂倉山の頂上はだだっ広く、ブナ、ミズナラ、ヒメシャラ、ヒノキが間合いを空けて林立し、やや雑然とした感じではあるが休憩にはもってこいの明るい樹林帯である。堂倉山からの下りはやや傾斜を強くしており、やがて伐採跡地の広い鞍部に出る。左側は、大台ヶ原の正木ヶ原から正木嶺にかけてのゆったりとした山嶺から左側手前に大峯の鉄山に似たピークを持つ尾根が今降りてきた堂倉山間近まで出っ張っており、山嶺右側手前には正木嶺から派生する尾根が一番手前で堂嵒の岩峰として立ち上がっていて、たいへん絵になる景色である。堂嵒は七面山の絶壁岩峰によく似ており、そう言えば奥の大台ヶ原の山嶺は弥山のミニアチュアと言った雰囲気である。大台ヶ原に来る登山者の九割以上がまず見ることのない方向からの大台の眺めであろう。

 この鞍部を倒木や切り株の間を抜けて方向を北北東に転じて地池高のピークを目指すが、この山腹の斜面からこれから先、我々を悩ますスズタケの薮が続くのである。最初はちょっとした登りがあり、スズタケはどういうわけか葉っぱを落としていて、スズタケの先っちょが顔にあたって痛く、慎重にかき分けながら登って行く。

 ゆるやかになったところで薮が切れ、ヒメシャラの林に出たところで休憩し、汗を拭う。「この先も薮があるんですかね」との堂田さんの言葉に「あると覚悟しておいたほうがいいな」と台高山系に詳しい平田さんが悲観論を口にする。そして平田さんの予感は当たり、ここを出発するとまたスズタケの群生となるのである。ただ、傾斜はごく緩やかなのとケモノ道があるのが救いであり、コースは薮の連続であるが、ブナやヒメシャラ、ミズナラの樹木は途切れることなく群生しており、大峯の八人山のような殺風景な薮だけの風景でないのが慰められる。

 午後3時5分、地池高に到着。このピークも薮は少なく静寂な樹林帯である。休憩後、南南東に見える1341bピークを目指して降りていく。すぐに右の方に巻いていき、伐採されたゆるやかな鞍部に到達。ここから初めて左奥に加茂助谷ノ頭のピークが姿を現す。目の前のピークから続くなだらかな自然林におおわれた尾根の先にすーっと持ち上がるように鎮座する加茂助谷ノ頭の姿は実に優美なたたずまいで思わず一同嘆声があがる。

 1341bピーク手前は倒木が多く、歩きやすいところを選んでいくために先頭が本来目指すべき尾根を乗り越えて行きすぎ、後ろからストップをかけて少し引き返す場面もあり、ルート選定と茂みや倒木を乗り越えていくためどうしても歩行は遅くなって予想以上に時間がかかってしまう。それでも今日中に加茂助谷ノ頭まで行く予定であり、「この調子じゃちょっと無理だな」と平田さんが言うのを、いつもなら弱気の私が、「そんなこと言わずに根性で何とか行こう」と一同を励ます。しかし、絶え間なしに続く薮こぎはさすがに我々の疲労感を急激に増させ、今日中に加茂助谷ノ頭まで行くことは時間的にも無理であることが解ってきた。根性だけでは山を登れるものではない。さすがに平田さんは山をよく知っていると思った。

 そして1341bピークの次のピークを越えた下りの斜面の途中で平坦なヒメシャラとミズナラの林に着いたとき、一同迷うことなく今日の行程はここで打ち切ることにしたのである。時刻はちょうど午後4時半であった。そこは広々としており、キャンプサイトには絶好の地であった。

 一服休憩した後、私と堂田さんがテント設営を、小田さんが食事の仕度、平田さんが焚き火の木を採集にと分担して野営の準備にかかる。夕食は小田さんが関西支部に加入して以来、定番のメニューとなっている湯豆腐に小田式玉葱サラダとカマアゲうどんである。小田さんのおかげで以前は貧弱だった関西支部の夕食は豪華なものになり、酒も大いに進む。食後に焚き火のまわりにマットを各自広げて横になり歓談する様は古代ローマ人のようであり、女性もいないため清談(?)にも華が咲く。今回はいつものようにひどく酔っぱらうこともなかったようで8時半ころに自力でテントへ行って寝につくことができたが、それでも靴下などを堂田さんに脱がせてもらったり、宴の後かたづけは3人にやってもらうなどと相変わらず人様の世話にだけはきっちりとなっていた。

 

 ぽとぽととテントをたたく雨音に目が覚める。外の気温も暖かいようで、テントで4人も寝るとやや暑いくらいである。何時だろうとヘッドライトを点灯して時計を見ると午前3時40分であった。トイレに行きたいがみんなを起こしてはまずいな、と思いながら横を照らすと堂田さんがぐっすりと寝ている。横から見ると高い鼻をしているんだなとしょうもないことを考えながらじっとしていると、小田さんが「うう、寒い」と言いながらすっと上半身を起こしたので、チャンスとばかり私も起きあがり、テントを出て用足しに行く。霧が立ちこめているが雨は降っておらず、雨音と思ったのは樹木から落ちる水滴であった。タバコをふかしながら霧のもやう樹林の景色を眺めながらしばし物思いにふける。我が家や山小屋よりもテントで寝るのが一番熟睡できる私にとって、この山中での寝泊まりは確実に身心のリフレッシュになっていることを痛感し、このようなことを続けられる自分の境遇を本当に幸せだと思う。

 テントに戻ると小田さんはもう起きる準備をしており、平田さんも眼を醒ました。小田さんは暑苦しかったので寝袋なしで寝ていたそうで、それではいくら何でも寒かろうに、と思った。

 4時過ぎに全員起床し、朝食の準備にかかる。いつもの如く夕べの鍋物の残りにパック米をほうりこんで作るおじやである。たっぷり食べた後、テントをたたんで荷造りをし、霧つゆで濡れているだろう薮を警戒して全員カッパを着込み、またいつか野営しにきたいなとの思いを残して午前6時30分、テント地を出発する。

 コースは相変わらずのスズタケの群生で、背丈ほどもある笹をかき分けて進んで行く。今日はもともとルート選定に難しい地点がいくつかあるところにもってきて、笹の薮とこの霧でまわりの展望がきかず、かなり難儀するのではと懸念していたが、予測どおり随所でコンパスと地図を見比べなければならなかった。ただ、霧がひどいものではなかったので、尾根がない方角は前面が明るく、尾根がある方角は樹林の影響でかすかではあるが、黒っぽくなっていることが尾根の方向を決める手がかりとなって1240bピーク向こうの鞍部まではたいして迷うことなく行けたのである。

 しかし、この次のピークが山行前から迷うのではないかと懸念していただだっ広いところで、頂上らしき地点で笹薮の無い空き地に来たところで進路を正面の方角に定めて笹薮の中の獣道に入って行くうちに前面のガスが晴れてき、進路の前方が落ち込んで向かいに別の尾根から派生しているとしか思えないような山容(橡山に至る尾根か?)が見えた地点に来たとき、コンパスが南をさしていることから間違い方向に気づいたのである。一同、後戻りして元の空き地にもどってき、そしてそこにある点標石に93の文字が彫り込んでいるのを堂田さんが見つけ、仲西政一郎氏の山岳地図にその点標が記されていることから我々が現在いる地点が解ったのである。現行の台高の山岳地図にはこの点標は記入されておらず、我々はここでも仲西さんの地図の貴重さを改めて認識したのであった。

 この地点から北東を目指し、すぐに東に方角を転じて尾根ぞいを外さないように徐々に北に変えて行けばこの広いピークを抜け出し、堂倉高の尾根にたどりつけるものと想定し、小田さんを先頭に北東方角の獣道の笹薮に突入する。笹をかき分けて進むこと十数分、広くはないがピークらしい空き地に到達したところで前方左から右にかけて明るい空間になっていることから尾根が無いと判断し、今来たコースを少し引き返し、今度は東に方角を転じて薮の中をこいで行く。ところが進むうちに手に持つコンパスの針が南南東から真南に変わって行くのに気がつき、後はひたすら南の方角に進むばかりなので、あわてて小田さんに左の方へ転じるようにしきりに声をかける。

 何度か左に方角を転じてやっと北に向いてきたのに安心して進んでいくと、ヒメシャラそばの倒木を乗り越えるところで先頭の小田さんが振り返って、「ここの場所は何か見たことないですか」と言うのである。「そう言えば何かこの倒木を乗り越えた感じもするなあ」と平田さんも首を傾げたが、こんな似たようなところはどこでもあるのではないかと一同そこを通過したらすぐに先がたの空き地に来たのである。そこは間違いなく方角を転じたところであった。我々はここを起点にぐるっと円を描いてまた元の出発点に舞い戻ってきたわけで、一同呆れ、私や小田さん、堂田さんはもちろん、何百回と山行をしてきている平田さんもこんな経験は初めてとのことである。それにしても笹薮の中をかき分けての歩行なのによくも同じ所に戻ってきたもので、意識したってできることではないだろう。

 さあ、ここでどの方角に行けばよいのか議論が紛糾したのだが、周囲は、さっき間違えて行った方角を除くと全部明るい空間になっており、どこに尾根があるのか検討もつかず、まず、この地点が一体どこであるかを確かめなければならなかった。現行の台高の山岳地図も詳細に調べると、この広いピークには仲西さんの地図には載っていない二つのピークが記載してあることから、現在地はこの二つのうちのどちらかであるかということで議論が分かれ、4人ともいっぱしに地形を読む力を持っているものだからそれぞれ意見を主張してなかなかまとまらなかった。

 東のピークはすぐ東側の等高線が狭まっており、さっきの円運動をして元の場所にもどってくるような広さは無いと私は思ったが、長時間の議論の末、結局、衆議はここが東のピークということに結論し、この空き地の北西に向いているケモノ道をしばらく降りてやがて北に転じれば尾根に行き当たるのではないかと推量し、そこを降りて行くことにしたのである。そのケモノ道は今までになく急ですぐに踏み跡もなくなり、平田さんが「これは違うぞ」と言いだしたころには、「船頭多くして舟、山に登る」の諺が脳裏に去来する。もっともこの場合「船頭多くして舟、谷に転落する」と言うべきか。

 すぐに下の方で「良い道に出た」と言う小田さんの声がし、そこに降りてみると左右によく踏まれた道が出現したのである。小田さん達は左の方角に進みかけていたが、急いでコンパスを調べると、この道は東西に走っており、このとき、私は今降りてきたピークが西のものであり、この道はこの広いピークの北側を堂倉高の尾根に向かって巻いている道と直感し、皆に後戻りするように声をかけ、今度は私が先頭になって、この道を逆の東の方角にどんどん進んで行くと、嬉しいことに道は少しも下降することなく徐々に北東に転じて行き、やがて正面右手に尾根らしき鬱蒼とした山陰が見えてくるではないか。そして小さな涸れ沢に面したところを右手の尾根の方に登っていくと尾根ははっきりと北に走っており、もう間違いないと確信したのである。

 ここからは北に向かって歩き、ゆるやかなピークの左側を巻いて次のピークを巻き終えようとしたとき、最後尾の堂田さんが、「コースはこの右のピークを越えなければダメですよ」と声をかけたので、平田さんは右折して右のピークを目指して登って行く。堂田さんはよくも正確に地図を見ていたもので、制止されなければ私もそのまままっすぐ行ってしまうところであった。

 たいした高度差は無く、すぐに上り詰めた樹林帯のピークが堂倉高であった。平たい頂上に見事な角をつけた鹿の頭骨が落ちていたが、毛や軟骨もまだ付いており、気味が悪くて持っていける代物ではなかった。ここを乗り越え、次の1276bピークを越えて緩やかな坂を下りていくとやがて、左手に薮の無い広く開けた所に到着し、ここで軽食をとることにして休憩する。後方は細いヒメシャラの純林が東側の谷への緩やかな斜面の上に広がり、左方から前方にかけてはミズナラの林が広がって大変いい雰囲気である。霧もだいぶ薄くなってきたようで上空にも青空が広がってき、この調子だと加茂助谷ノ頭に着くころには周りの景色も見られるのじゃないかと一同喜ぶ。朝作っておいた小田式玉葱サラダをはさんだフランスパンに紅茶の軽食は最高に美味しく、明るくのどかな雰囲気に談笑もにぎわい、45分も休憩してしまった。

 10時半、ここを出発し、ミズナラの樹林の広い尾根を登って行く。10分ほど行った頃だろうか、前方で平田さんが誰かと喋っている声に驚き、樹林を抜けたところに着いてみると2人の熟年の男女がいるではないか。そこは、我々が加茂助谷ノ頭登頂のあと、下山に使う予定であった堂倉谷林道からの登山路が尾根に合流している所で、右手も伐採してあり、昔のキンマ道の峠であるらしい。2人は夫婦らしく、物静かな丁寧なしゃべり方をする上品な人達で、昨夜は粟谷小屋に泊まって、ここに登ってきたそうで、ここら辺りの雰囲気が好きで何度も来ているとのこと。ここで1時間ほど滞在したそうで、先がたの我々の休憩地での喋る声がずっと聞こえていたと言われるものだから、この薮こぎの尾根で人に会おうとは夢にも思わなかった我々は、馬鹿でかい声で何か品性を疑われるようなことは言いやしなかったかと必死に思い返す。この先の南のピークは大変好きで何度も行っているが、その向こうの北のピークはまだ一度も言っていないとも言われた。

 下山するこの夫婦を見送った後、 我々はザックをこの地に残し、加茂助谷ノ頭に向かう。10分も行かないうちに、岩場のせまいピークへの登りとなり、すぐに頂上に着く。見晴らしも良く、私と堂田さんはここが加茂助谷ノ頭ではないかと思ったが、「三角点が無いから違います。」と平田さんはずんずん降りていく。霧がふたたび広がってきているので周りの景色が見えないが、前方にぼんやりと山陰が見えるので多分、ここはさっきの夫婦が言っていた南のピーク(与八郎ノ高か?)と納得し、平田さんらの後を追う。

 「着きました。山彦ぐるーぷの標識があります」と、すぐに次のピークに達した平田さんの声がし、振り仰ぐと頂上に立つ平田さんと足元にお馴染みの山彦の標識が眼に入ったのである。上辺を赤く塗った白い山彦の独特の標識は、一週間前の奥駈道中で散々眼にしていたので、「第○次刈峰行」の文字が書かれているかのように錯覚したが「加茂助谷ノ頭」と記されていた。ついに目指す加茂助谷ノ頭に到達したのである。昨日は3時間半、今日は4時間半と距離に比べて異常に時間のかかった加茂助谷ノ頭への行程であった。それだけに感激も大きく、また大変絶賛されていた玉岡さんの言葉どおり、加茂助谷ノ頭の雰囲気は素晴らしく、大いなる満足感に充たされたのである。頂上はせまい岩場となっており、我々が来た南側に比べて北側の尾根の傾斜は急で、ブナやヒメシャラの林立するその下り坂の景色は素晴らしい。先ほどの夫婦は北のピークには行ったことが無いと言っていたが、この加茂助谷ノ頭のことなのだから何ともったいないことをと思ってしまう。

 山彦式万歳三唱をして午前11時20分、頂上を後にする。デポ地でザックを拾い、先ほどの夫婦が降りていった堂倉谷林道への道を降りていく。最初、山行を計画したおりには、帰りも昨日今日と通った尾根道を戻る予定だったのだが、あの薮こぎの再現はとてもする気にはなれなかった。先がたの夫婦が山の初心者のような印象だったので、あの人達が登ってきたのならこの下山路は楽勝、と我々は思っていたのだが、何の何の、結構急で足場も悪く、伐採地のところの踏み跡も不確かで、良くこんな所を登ってくる気になったものだとみんな口々に言う。

 やがて完全に沢らしきところの岩場を滑らないように降りる段になったころには「彼らは本当にここを登ったのだろうか、我々が降りるコースを間違えたのではないか」と思いだすくらいこの下山路は厳しかった。30分ほどかかって、やっと林道が見えてきたときは本当にほっとしたものである。

 ここから粟谷小屋まで1時間の林道歩きである。舗装されていないので歩きやすく、2日間にわたる薮こぎを強いられてきた我々にはいつになく好ましく感じられる林道歩きであった。途中、遥か彼方の下方に見える堂倉谷の谷底の連瀑は周りの林道がなければいかにも秘境の谷と言った感じである。尾根を越えた隣の大杉谷ばかりが有名だが、大台ヶ原の東側の谷はみんなこんな秘境めいた感じなのではないかと思った。疲労も増してき、お腹も空いてきたので粟谷小屋10分ほど手前の所で昼食休憩をする。粟谷小屋着、2時55分。大杉谷へのコースとの合流地点である。10年前に大杉谷へ降りて行ったおりに、こんな所で林道を横切ったことなぞ全然記憶に無かった。粟谷小屋は新しく、清潔な小屋である。

 ここからはよく踏まれた大台ヶ原・日出ヶ岳への登山路の歩行で、昼食を取ったあとは見違えるように元気になり、緩やかな登りを気持ちよく登っていく。勾配の急になる石南花坂に来てもまったく疲労を感じず、歩行中の体の燃料補給がいかに大事かということを痛感する。花のはずれ年と言われる今年は大峯ではさっぱりだったが、ここ石南花坂は結構、シャクナゲの花が咲いていた。大峯のに比べて薄いピンク色で、その色合いはアケボノツツジにそっくりである。この大杉谷へのコースは多くの人がご存じだと思うが、石南花平から日出ヶ岳直下までの尾根の雰囲気は素晴らしく、特に石南花平を過ぎたところのブナやヒメシャラの細木が林立する比較的せまい尾根の景観は絶品であった。12年間、大峯の山々を歩いてきたが、こんな美しい魅力的な雰囲気の尾根を見たことは幾つも無いと断言できるほど、ここの風景には魅了された。青空が現れ、午後遅くの斜光に照らされた新緑の美しさもこの景色をより一層引き立てているのだろうが、地形的な起伏もこの尾根の美しさを決定づけているようにも思われる。まさに傷のない洗練された第一級の芸術品とでも言うべきたたずまいであった。今年の2月に閉門まぎわの法隆寺の講堂から振り返って見た人気のない回廊内にたたずまう五重塔と金堂の息を呑むような美しさに心を震わされたときと同じような感動を感じたものである。10年前にここを通ったときには何の印象も残していないのだから、その間に私の山への審美眼も随分と研ぎ澄まされてきたのかと最初は思ったが、どうも、下から見上げるようにして登ってきたからこそ、この様に感動が大きいのではないかと考える。そして私は、一度、宮川側からこの大杉谷のコースを登ってみようと決心したのである。

 日出ヶ岳頂上直下のヒノキの巨木が根っこを這いずり回して林立する平坦地も素晴らしい雰囲気で、大台ヶ原は日出ヶ岳を一歩大杉谷側に踏み込んで降りてくるとこんなにも雰囲気が一変するところかと驚かされる。しかし、このことは世間にはあまり知らせたくない。こんなところまで、もしコンクリート製の遊歩道が作られたらこの神々しさは永久に失われるのである。エゴイストと言われようとそんな悪夢だけは絶対に見たくない。色をも香をも知る人にぞ教えてあげよう。

 日出ヶ岳頂上着、午後4時20分であった。ここで我々関西支部の2日間にわたる桃源郷の旅は終わったのである。「あの長い薮こぎを考えると、もう加茂助谷ノ頭の尾根に行く気にはなれないな」と平田さん、堂田さんが不埒なことを言っていたが、私は是非もう一度同じコースを再アタックしてみたく、1人では心細いので、今回参加できなかった猪飼さん夫婦をうまく言いくるめて連れて行こうと、これまた不埒なことを考えるのであった。