『熊野の山へ後南朝の遺跡をたずねて』
(台高山系・三之公川からカクシ平を経て馬ノ鞍峰へ)4/2 2001
森脇 久雄
はっと眼がさめたとき、まだ午前2時ごろだろうと思って時計を見ると、なんともう6時数分
前である。すぐさま起きて洗面、着替えをし、駐車場に車を取りにいき、昨夜のうちにトランク
に入れておいた山行用の荷物以外の品々を玄関から運び入れ、寝屋川のわが家を出発したのは6
時20分であった。
交野市から生駒市に出て、一路南下し、王寺を経て吉野を抜け、奈良県川上村の大迫ダム分岐
に着いたのが8時50分。そこから入之波(しおのは)への道をとって、三之公谷の林道詰め
に到着したのは午前9時20分であった。
日帰り登山であるが、一応道に迷ったときの最悪の場合のことも考えて、ツェルトとシュラー
フカバーを持って9時40分出発し、カクシ平まで続く立派な山道を登っていく。カクシ平とは、
後南朝の親王が北朝の追求の手から逃げ隠れてそこで没した三之公行宮跡とその墓所があると
ころで、川上村によってその史跡がきちんと保存されている。
途中、明神滝への分岐を横に見ながら寄らずにまっすぐに歩を進め、次第に傾斜の急になって
いく道を黙々と登っていく。周囲の風景にもちらほらと紅葉が目だち始め、秋の山に来ているこ
とを実感する。
10時50分、行宮跡に到着。二つの谷が合流するところに広がったちょっとした台地で、杉
林のなかにひっそりと石造りの記念碑が建っている。そばの標注に次のように記されている。
「文政五年(1448)、尊義王(小倉宮皇子)は、神璽を奉つって自天王と忠義王を連れ、
都から三之公へ潜居された。尊義王は、川上郷民の助けを借りて、吉野朝復興を画策したが病で
倒れられた。尊義王が北朝方を避け、八幡平から移り住んだ御所の跡である。 川上村指定文化
財 史跡・三之公御所跡」
2年前の秋に初めてここを訪れたとき、こんな山奥、まさしく登山する者でなければやって来
ないような文字どおりの山奥のなかに行宮があることにショックに近いような痛ましさを覚え
たものだが、今回の私は比較的こころも平静で、写真を4、5枚ほど写してそこを出発し、二百
メートル先の尊義王の墓所に向かう。行宮跡の台地をおりて、涸れ沢をわたってちょっと登った
ところが墓所である。木立の中の平坦なところに、不そろいな石垣組みした5メートル四方の台
座の上に墓石があり、その様式は行宮跡のものとそっくりである。そばの記念標石に次のように
記されている。
「尊義王の墓(万寿院宮) 南朝系第99代後亀山天皇の孫にあたり、二人の皇子を伴ない、
この地に御所をかまえ自ら南帝(中興天皇)として即位。南朝再興を画策したが望みがかなわず、
1455年45才で病に倒れられた」
前回、ここを訪れて尊義王のことに深く心引かれた私は、下山後、後南朝関係のことを調べた
のだが、尊義王のことに関する歴史的資料というのは1アマチュアの歴史好きにしか過ぎない私
の周囲で目に触れ得る書物の中にはまったく見いだせず、ただ偶然本屋で見つけた「太平記幻想」
(上総英郎著・春秋社刊)のなかにのみこの尊義王に触れた記事を見つけることができたが、そ
れも前述の自天王、忠義王の父として述べられているに過ぎず、「自天王と忠義王らの父母、祖
父は誰かも、口承によるしかない。父は尊義王、母は近江君ヶ畑出身の山邨御前といわれている
が、たしかな系図はない。山邨御前らは母子三人で天河から険阻な峰を越えて八幡平にたどりつ
き、そこに一応仮御所をつくったが、足利方の間者に狙われて危険なので、さらに山奥の隠し平
に住居をつくったという。」という書きぶりなのである。
南朝の系列は後亀山天皇までが皇統としても認められているが、それ以降の後南朝の諸王たち
は皇統はおろか歴史学の世界でも完全に無視されており、この尊義王に至っては史書や物語にも
まったく名を留めていない存在であることを知ったとき、私は深い胸の痛みを覚えずにはおれな
かった。
尊義王の二人の皇子、自天王と忠義王は後に北朝方の放った刺客によって暗殺され、これは長
禄の変として「上月記」と「赤松記」という史書に記述されているそうで、その時に南朝のもと
にあった神璽も奪われようとしたが川上村の郷士たちによって妨げられたという記事があるら
しく、これらのことから、北朝政権は確かに自天王と忠義王の皇統の血脈を信じていたことが推
察され、それはその父親の尊義王が後亀山の血を引くものの証左とも思われるのに、後世から一
顧だにされないこの皇族が痛ましく思われるのである。
明治時代、大逆事件の幸徳秋水が「いまの天子は、南朝の王子を殺して王位を手に入れた北朝
の裔ではないか」と発言して法廷を大混乱に陥れたそうであり、谷崎潤一郎も小説「吉野葛」で
この三之公のカクシ平を取り上げ、実際に取材に現地まで訪れており、三島由紀夫は死の直前、
「ぼくがたとえ天皇陛下万歳と叫んだとしても、それは北朝の末裔である今の天皇を指すもので
はなく、五百年前の南朝の末裔、吉野の奥で殺された若い王子のことなんだ」と知人に心の内を
漏らしたそうであるが、後南朝に関心を持っていたこの三人の著名な文人の脳裏にも尊義王は存
在しなかったのだろう。
前回もここで、平田さんと二人で、深い哀悼の意を込めて冥黙したが、今回は柏手を打って神
式に礼拝し、あとに般若心経を唱えて冥福を祈る。
人っ子一人いないこの台高山系の山深いところでいにしえの高貴な人の墓前で休息をとるの
も何ともいえぬ感慨に満たされる。前回は、こんなところに一人で来たらかなり気味が悪いので
はないか、と平田さんと話したものだが、後南朝の悲話を知った後に、いざ独りで来てみるとそ
んなことはまったく感じず、静寂な雰囲気にこころも浄化されるようである。
「秋墳、鬼は唄う鮑家(ほうか)の詩、恨血(こんけつ)千年土中の碧(へき)」という
中国・唐時代の李賀の詩の一節を二度口ずさむ。「私の眠る秋の墓場に亡霊たちがやってきて、
私の愛した詩人の詩を歌ってくれることだろう。そして恨みを呑んだ私の血は千年の後には土の
中でエメラルドと化すことであろう」というのがこの一節の意味である。27才で夭折した李賀
の異様な雰囲気をもつこの七言律詩の詩が好きで日頃よく口ずさむのだが、このときほど状況に
ぴったりしたこともないと感じた。私はこういう風流を楽しむために漢詩をそらんじることに励
むのである。
私には北朝、南朝のどちらにもひいきは無いが、個人的には、権謀術数にたけた後醍醐天皇よ
りも、温厚な歌人として有名であり、退位したのちに巡礼としてさすらいの旅に出、吉野まで足
をのばして対立する南朝の後村上天皇に会いにまでいった北朝初代天皇の光厳院のほうに心引
かれる。「折々の歌」にのっていた光厳上皇の「ともし火に我もむかはず燈もわれにむかはず己
がまにまに」の歌は、この方の内省的人柄を感じさせて現代人である私にも深い共感を感じさせ
てくれる。
11時5分、ここを出発。ここからは道はなく、前回はこの墓所の前の踏み跡を方向も確かめ
ずに安易にたどっていったために方角違いの尾根に上がってしまい、以後、コース選定に手間取
り、馬ノ鞍峰頂上にたどりつくのにずいぶんと時間がかかったので、今回は、前回下りに選んだ
尾根から南東にのびる急傾斜の枝尾根を立木の助けを借りて強引に登ることにしていた。その尾
根はこの墓所の右側の谷をはさんだ向いになるのだが、沢へ降りてみると、その目指す尾根のふ
もとのところの立木にいくつかの赤テープがつるされており、それらは目指す尾根を横ぎっても
うひとつ向こうの尾根に導いていた。知らないコースを行くことにためらいを感じたが、比較的
新しいテープなのに引かれ、その導くままに尾根を横ぎって、その向こう側の沢に出てみるとそ
こでテープの道標は途絶えてしまった。引き返そうかとも思ったが、そこの沢が水が無く、ゆる
やかに上のほうに向かっているのを見てこの沢を登ることにし、もし、上の方で悪場とか登れな
いような崖に遭遇したら、右手の本来目指すはずだった尾根に逃げ込むという心づもりで、沢の
黒っぽい石肌の斜面を登りだしたのである。大きな岩もなく、岩肌は湿ってはいるが滑ることも
なく順調に登っていくと沢はだんだんと傾斜を大きくしてき、ところどころ正面からは乗り越え
られないような岩場の段差も出現し、横手のザレ場を滑り落ちないように根っ子や岩角をつかみ
ながら卷いたり、ときには岩に根をはった木を手がかりとしてよじ登るようにして乗り越えると
いったなかなか変化に富んだ登りとなってくる。
やがて上の方に尾根らしき明るい空間が見えてきたが、このあたりからスズ竹の薮こぎとなり、
これをつかみながら体を持ち上げるようにして、なおかつかき分けて行くといった複雑で骨のお
れる登りを強いられる。もう尾根は目の前なのになかなか前に進めず、右往左往しながら11時
30分、尾根に達する。それでも下の行宮の地から25分で上がってきたのだからまったく無駄
なく、順調に馬ノ鞍峰へと向かっているわけである。前回、平田さんと来たときは、全然方角違
いの尾根に登って右往左往したためここにたどりつくのに2時間もかかったのだからえらい違
いである。
尾根は痩せており、北の方角になる向こう側の谷に面して鋭くそそりたっている。対面の山腹
の紅葉もかなり進んでいて、稜線から谷間までの黄、赤、緑と色とりどりのすそ模様を見せてく
れる。風が強く、5分も休憩すると寒くなってくるが、誰もいない痩せ尾根の上で風と樹木のざ
わめく音以外何も耳にせず、秋の深山の風景に魅入られるといった、このまさに自然と一体にな
った状況に深い満足感を覚える。
ここらでもう一つ詩文をといきたいところだが、急激に寒さを感じだし、いつまでも優雅な雰
囲気にひたっているわけにもいかなくなったので早々と出発する。
ここから馬ノ鞍峰頂上までは尾根をたどっていけばよいが、このあたりは尾根が痩せて切り立
っているので慎重な行動が必要で、つまずいたりして左側の谷へ落ちたら無事ではすまない。
朝から天気は良かったのに急に曇ってきて薄暗くなったと思ったら、パラパラと音がしだした。
最初は雨かと思ったのだが、音の派手なわりにはあまり濡れないので、地面に落ちるのをよく見
るとあられであった。そうとう気温が低いようである。ときどき雨混じりに強くふるときもあっ
たが、樹間の中で葉がさえぎってくれるのでカッパを着るまでにはならなかった。しかし、曇っ
て薄暗くなってきた山中の歩行はさすがに気持ちも沈みがちになってき、先ほどまでの晴れ間の
ときのすがすがしい気分とは対称的である。
40分ほど歩いただろうか、ヒメシャラの樹木に囲まれた少し開けたところに到着する。2年
前に平田さんと野営したところである。一度でも野営したところはその地に特別の思入れを感じ
るものだが、そのときは道に迷ってそうとう苦労して登ってきただけにここでの野営は特に印象
深く懐かしい。この1年、長田さんも平田さんも忙しくてなかなか山に御一緒することがなく、
今ここに一人たたずんであたりに林立するヒメシャラのだいだい色の樹肌を眺めていると、辺り
の暗さと寒さも影響して何とも言えぬ寂しさを感じる。だいたい山に独りで行くとき、このよう
な寂寥感に襲われることが往々にしてあるが、これも山歩きの屈折した一つの魅力だと思う。
寂寥感という情感は、寒々とはしているが青白い月の光のような浄化された美しさがあり、単
独の山行を好む人間はだいたいこの美意識に魅力を感じる人が多いのではないだろうか。
ここから馬ノ鞍峰までは急な登りとなるが10分ほどで頂上につく。四方からせりあがったよ
うなピークで頂上は随分とせまく、馬の鞍峰の標識がたっている。昨年、9月に新宮山彦ぐるー
ぷの団体登山で登った国見山が東方に見えるはずなので捜すが樹木に邪魔されてなかなか確定
できない。まぎらわしいのがいくつかあって、コンパスでやっと確定できた国見山はそんなに目
立つものではなく、距離から想像したほど間近にも感じず、いささかがっかりした。
朝、コンビニエンスストアで買った弁当で昼食をとる。喉がかわいてないのと、寒さのために
ビールがひとつもうまくなく、三分の一ほどでもてあましてしまい、こんな日は日本酒がしきり
になつかしく思われる。
食事を終えると早々に身支度をし、12時半頂上を後にした。この寒さに見通しの悪い展望の
頂上に未練は無くすたすたと降りていく。ところが、ヒメシャラの広場を過ぎていくばくかもし
ないうちに道を間違えたことに気づき、ヒメシャラの広場に急ぎ引き返して、方向を検討し、間
違えたコースよりも右より、つまり、頂上からヒメシャラ広場まで来る道をそのまままっすぐに
北の方角に進む踏み跡に方向をさだめた。前回も同じような間違いをしたためすぐに気がついた
のだが、正しい道のほうが荒れているので間違えやすいようである。
しばらくは荒れた薮こぎをしいられる道だが、すぐにしっかりした尾根道になる。さてこの尾
根から左手に降りていく下山路の選択であるが、行きの沢は下れないこともないが同じところを
通るのも面白くなく、最初は前回、平田さんと共に降りた南南西に向いた小さな枝尾根を降りる
つもりだった。この尾根への分岐はきょう登ってきた尾根到達地点よりもまだ向こうがわの西よ
りのところにある。ところが行きがけに気がついていたのだが、きょうの尾根到達口の手前に真
新しい赤テープが立木に四箇所もつけられた分岐点に来たとき、時間の余裕も十分あることだし、
この下山路をちょっと調べてみようという気になったのである。元来私は山では臆病なほうで
(女房の前でもだが)、大峰や台高の山々はちょっと下山路を間違えると往々にしてとんでもな
い絶壁の上に出くわすことを骨身にしみて知っており、ましてや単独行の今回、こんな登山路の
無い山で知らないコースを降りることはまずやらないのだが、赤テープがいかにも自信たっぷり
に幾重にも木に巻きつけられているのを目にし、しばらく降りてみてもまばらな樹林のなかに等
間隔で立木にテープが着けられているのを見ると何かすごく頼もしい下山路ように思えて、この
コースを降りることに決めたのである。
この下山路は幅が広く傾斜もなだらかで、まばらな樹林帯のなかをテープをたよりに降りてい
くのはなかなかに快適な気分だったのだが、傾斜が幾分急になりだしたところから懸念していた
とおり道しるべの赤テープが無くなったのである。最後のテープのところでずいぶん慎重にあた
りを探しまわったのだがテープは見つからず、鏡餅の表面のようなだだっぴろい斜面でこんな道
しるべの終わり方をされても方向の定めようがなく無責任ではないかとぼやくが、先人をなじっ
てもしょうがなく、元の尾根までもどる気になるにはあまりにも降りすぎたのでそのまま磁石を
たよりに降りていく。斜面の傾斜はだんだん急になり、立木をつかみながら降りていくが、これ
でこの先、通行不可能になってこの斜面を登り返すことになったときの労力を思うとひどく複雑
な気持ちになる。
やがて下方に黒ぐろとした密林帯が見えてき、その向うがわ下方部の状況が解らない地点に来
たところで、一瞬、コースを左右いずれかにふろうかとも思ったが、そのまままっしぐらに密林
帯に突入する。大きな樹木のなかに大小様々な潅木が立ちこめるところをそれらを手がかりとし
て斜面を降りていくうちに徐々に傾斜がゆるやかになってきたと思ったら右手に沢が見えてき
たのでそちらの方に抜け出してみると、なんともうそこが尾根が終わるカクシ平の入口のところ
でその沢は行きに通った涸れ沢だったのである。やれやれの思いで登山路に使ったその沢の上部
を眺めながら休憩する。尾根からおおよそ30分の下りであった。
数分後に尊義親王墓所に到着。無事に降りれたことへの感謝の気持ちをこめて合掌し、またの
再訪を声に出して約束する。この地には山伏の林谷さんを同行してこの薄幸な貴人のきちっとし
た供養をしたいと思ってたし、玉岡さんも新宮山彦ぐるーぷの例会にこのの馬の鞍峰をとりあげ
ると言っておられたので必ず訪れることになると思う。
ここからの下りは立派な山道があるので何の緊張感もなく、いつのまにかに晴れてきて明るく
なった秋の午後の山の風情を楽しみながら降りていったのである。
三之公谷隠し平行宮跡 |
三之公谷尊義王墓 |