11/28 2002掲載

 
森脇久雄
 
 第5話『(無題)』 (by 芦塚英子)
 
波に浸食されて急な傾斜を見せる波打ち際をはなれて、素足の女は俺のそばに来た。
「の-たりたりかな」
 座りざまにそう言って、女は砂浜に寝ころんだ。
「春の海、ひねもすのーたりたりかな、ヘソっていう国語の先生がいてさ、」
「ヘソかあ、いたなあ、俺の時代と同じギャグ使ってんだな」
「あ、そおなん?芭蕉の俳句でしょ?ちがった蕪村だったかな、いいや誰でも。石川啄木
か?」
 自販機で買ったコーラがのどにつまった。俺はせき込みながら言った。
「おいおい、それはわれ泣きぬれてかにとたわむる、だろ」
「はは、おじさんの目も涙で赤くなってるよ、はい、ティッシュ、おじさんって教養派なんだね」
「そのおじさんはやめてくれよ」
「じゃ、おにいさん?いやよ、ジョージって呼んでくれ、なんてのは。おじさんなんて名前?」
「ジョンだよ」
「ウッソ。そんな鼻ぺちゃのジョンなんていないわよ」
「ブルドックだったら、鼻ぺちゃじゃないか」「なんだ、犬の名前? 愛犬ジョン? おじさんの
犬の名前か。 そんなに淋しいのか?.......『虚しい空間を埋めるのは、いつも自然だ』.」
「こんどは誰だ?」
「まちがいなく、ゲーテ」
「ゲーテって?」
「ゲーテはゲーテよ、知らないわ、それ以上。だからさ、あの夕焼けをごらんよ。きれいじゃ
ない。ほら、桜貝だってみつけたんだから、あげる、おじさんに」
 小さな貝殻が俺の手の平にのった。半分欠けているが、たしかに桜貝だ。胸が熱くなった。
「まだ淋しい? だったら、水族館の前に、兎の耳ってホテルあったじゃない。あそこに
行ってあげてもいいよ。私はジョンじゃなくてジュンだけどさ」
 また咳が出た。
「ハイ、ティッシュ、うそだよ。おじさん。私は犬じゃなくって、いのしし、干支がね、だから猪突
猛進、やるぞー」
「えらいがんばってるな、なにやる気だ?」
 女は立ち上がって、尻についた砂をぱたぱたと払った。「山の向こうの青い鳥..探しにゆくよ...
その前に、垂水のおばあちゃんち行って、旅費カンパしてもらおーっと、おじさんありがとう、
夕焼け見てたら、元気になったよ、わたしも。おじさんは車のある右。私は駅のある左、じゃ、
ね、さよなら」
 
第6話『海の匂い』 (by 奥野洋子)
 
「人間の身体の大半は、海でできているのではないかと思う。だから、涙も汗も血液も、
みんな塩辛いんだ。」
 昔、そんな事を教えてくれた人がいた。
 
 何年前か忘れたが、若い頃海辺の町に住んでいたことがあった。
 私は家から歩いてほどない距離にある、浜辺が好きだった。
 夏の夕暮れ、松林を歩きながら、海のかなたに黄金色の光芒を放って沈んで行く太陽を
よく眺めた。そして防波堤の先端まで歩いていき、そこで暮色に染まる海を、星が輝くまで
眺めるのだった。
 真っ赤に染まった空を、黄昏の太陽に金色にふち取りされた雲が次第にシルエットを濃
くしながら漂っていく。海は太陽が沈んでいく辺りだけを金色に照り返して、次第に海よりも
濃い藍色に沈んでいく。
 時折、モータの音がして、船が目の前を通り過ぎる。ふと、漁船が向かう方向を見ると、
小さく港の明かりが瞬いている。薄闇の中に瞬く明りは、やけに奇麗で、はかない。
 私は、この体の中まで黄昏に染め抜かれるような時間が好きだ。そうしていると、さまざ
まな事が心に浮かんで、通り過ぎる。
 この間受けた、資格の試験の結果、ここへくる途中に出会った、化粧品のしつこいセール
ス、深夜に電話してきた友人の別れ話、
「お見合いしたら」とうるさい叔母…
 あまりにも美しい時間の前に、そのような日常の出来事はいつか流れ去り、後には静け
さだけが残る。
 私は独り、その静かな時間を楽しんでいた。
 
 その日も、私はいつものように防波堤を先端に向かって歩いていた。しかし、間近に来て
脚を止めた。
 誰かがいる。私の気配に気がついたのか、防波堤に仰向けに寝転がっていた人影が身
体を起こした。
「ごめんなさい。」
 私は慌てて引き返そうとした。
「いいんだ。君も夕焼けを見にきたんだろ。」
 寝転がっていたのは、私とそう年は違わない青年だった。
「君、イルカ座を知ってる?」
「知らない。」
「もう少ししたら、星が出る。教えてあげるよ」
 私は初対面の人間に不思議な質問をされ、戸惑っていた。
「寝転がったほうがよく見える。君も寝転がったら。」
 妙なことになったなと思いながら、私も防波堤の上に寝転がった。既に夏の夜空は星が
瞬き始めていた。ぼうっと天の川が煙って見える。
「ほら、真上に天の川を挟んでわし座のアルタイルと琴座のヴェガが光ってる。アルタイル
から少し離れた所にちょっと暗いけれど、小さなひし形に星が並んでる。それがイルカ座だ
よ。見える?」
「よく分からない」
「こっちへ来て」
 突然腕を引っ張られて彼の近くへ身体を寄せられた。見知らぬ男の体温と筋肉の感触を
身近に感じて、私は緊張した。
「僕の指先を見て。」
 その指先にほのかに輝く小さなひし形が浮かんだ。
「見えた!」
「あれが昔ギリシア神話でポセイドーンがアムピトリーテーに求婚した時に、彼を運んだイル
カさ。それでトリトーンが生まれた。」
 彼が何か話すたびにその振動が、彼の胸に触れている私の片頬に伝わった。
「良く知ってるね。」
「イルカに教えてもらったんだ。」
 不可解な彼の返答に少し困惑しながらたずねた。
「でもイルカ座って目立たないじゃない。イルカはどうやってそれを見つけるの?」
「イルカにとってはイルカ座は故郷の星だよ。どこの海にいたって彼らは見つけるさ。」
「イルカって星から来たの?」
「そうさ。彼らの星から来たんだ。」
「地球の海に遊びに来て、そしていつかは彼らの星にかえるのさ。」
 私は彼の相変わらず不可解な言葉を黙って聞いていた。体温が穏やかに伝わってきて、
彼の鼓動がうっすらと分かった。いつのまにかまどろむような気分で夜空を見つめていた。
私たちの上に夏の星が降るように輝いていた。
 
「ごめん、遅くなったね。送ってくよ。」
 突然彼は身を起こした。私もはっと我に返った。
「乗って」
 私は不器用に400ccの後ろにまたがった。彼はバイクを飛ばして家まで送ってくれた。
「ありがとう」
 私があまりにもバイクから降りにくそうなので、彼は手伝ってくれた。
「じゃあね。」
 バイクにまたがった彼に思いがけない言葉が口をついて出た。
「あ、あの…」
「何?」
「また会える?」
「明日の夕方、防波堤で待ってるよ」
 軽く微笑んで彼は行ってしまった。私は熱に浮かされたように頭がふらふらした。心臓が
激しく鼓動していた。
 その夜、私は千匹のイルカの夢を見た。
 
 それから、私とイルカの君との夕方のデートは続いた。最初に出会った時のように身体を
寄せ合って星を眺めた。彼の胸に頭を寄せて心臓の鼓動と呼吸の音をきくと懐かしい気持
ちになって安心した。
 彼の呼吸に合わせていると、時々自分の体の中から海が溢れてくるような気がした。そし
て決まって夜寝る前、彼に電話した。
「ねえ、何か海の話をして。」
「うーん、そうだな…」
 そして彼はいつも海やイルカの話をしてくれた。彼の話はいつも海の匂いがした。受話器
から聞こえてくる彼の言葉に耳を澄ましている内に、私はいつも心地よい眠りの海に船出
してしまうのだった。
 そこで私は眩しい太平洋の太陽の光や潮風を身に浴び、あるときは海底深く体が沈んで、
そこで何十年も真珠を宿しているという大きな貝になったりした。夢の中では波はいつもや
さしかった。私の身体を皮膜のように包んで、私は水棲生物のようにその中でたゆたってい
た。
 私は彼と出会って満ち足りていた。
 
 ある夜、いつものように寝る前に電話をした。ところがどれだけ待っても、彼は出なかった。
留守なのだろうか。何度も電話したが、彼は出なかった。その事が、ひどく私を不安にした。
 夜中どこに行っているというのだろう? 私に何も言わなかった所をみると、何か秘密でも
あるのだろうか? だれか別の女と逢っているのだろうか?
 嫌な考えが頭を占拠して、私は息が苦しくなった。蒸し暑い夜で、気持ちの悪い汗で身体
がべたべたした。その夜、私は眠れなかった。
 
 次の日、私は防波堤の上で彼におそるおそる聞いた。
「ねえ、昨日の夜、どこに行っていたの?」
「暑かったから、眠れなくて、海を見に行っていた。」
「一晩中?」
「うん。一晩中。」
 彼は何かを隠している様子もなく、弁解する様子もなかった。いつもと同じように穏やかに
答えた。私は安堵と寂しさが吹き出して、彼に飛びついた。
「昨日、何度も電話したのに出ないから、心配しちゃった。」
 いつのまにか涙が出て、声が震えた。
「ごめん。急に一人になりたくなったんだ。」
 震えている私の身体を彼の腕がやさしく抱きしめた。彼は何も変わっていない、最初に出会
った時と一緒なんだと、私は自分に何度も言い聞かせた。
 
 それからも私は以前と同じように夕方にデートをし、寝る前に電話をした。彼は以前と同じ
ようにやさしかった。私はそのやさしさに満足し、安心して甘えていた。しかし、たびたび彼は
黙って不在になった。それはいつも蒸し暑い夜だった。その度に私は激しい不安にかられた。
何度か不在の理由を彼に繰り返し尋ねた。しかし返ってくるのは「海を見に行っていた」という
悪びれない返答と、その度に泣きじゃくる私を慰める抱擁だった。
 私の心の隅に巣食った不安と疑いの思いは、もはや彼に理由を尋ねることでは解決できな
くなっていた。彼の私への態度さえ、不安のために素直に受け取れなくなっていた。疑惑の棘
が、私の身体を串刺しにしていた。別れようかと思ったが、それはできなかった。どんなに疑っ
ていても、心のどこかで、そんなことはない、と一抹の希望にしがみついていた。
 
 その夕方も蒸し暑かった。きっと今夜も寝苦しい夜になるだろう。私は彼と一緒に防波堤を歩
きながら、ある決意をしていた。いつもと変わらない彼の態度を確認して、彼と別れた。
 私はうちに帰ると、そのまま車に乗り込んだ。そして、彼の家へと向かった。
 彼の家の玄関先が確認できる場所に見つからないように車を止めた。そして、車に乗ったま
ま、私は待った。
 何をしようとしているのだろう。今自分のしている行為に対する疑問がふと頭を持ち上げた。
自分の行動を監視されていたと知ったら、彼はどう思うだろうか。後ろめたい気持ちにわしづか
みにされたが、不安と疑惑がそれに勝った。確かめなければ。本当の事を確かめなければ…
汗でぬめった手でハンドルを握りしめた。
 
 真夜中を過ぎた頃、誰かが家から出てくる気配があった。彼だ。400ccにまたがり、海の方へ
走り出した。私はバイクに気付かれないよう、距離をとりながら後を追った。
 彼は凄いスピードで海岸道路を西へ走っていく。どこへ行くのだろう? この方向だと、やはり
海しかない。彼の言葉は本当だったのだろうか? 何故海へ? 一晩中何をしに? 私たちが
いつも夕方に来る防波堤を過ぎ、さらに西へ走っていく。すると、美しい渚が見えてきた。今まで
来たことがない場所だ。彼のバイクはそこへ降りていく。
 やがて彼はバイクから降り、渚へ向かって砂浜を歩き出した。私は少し離れた所に車を止め、
ガードレールに身を隠すように歩いて彼の後を追った。静かで、清らかな渚だった。砂がほの白
く夜の光に反射している。波の音しかしない渚を、彼は海の方へ誰かを探すように歩いていく。
 私は海辺の小屋に身を隠すようにして彼を見つめていた。突然彼が立ち止まり、服を脱ぎ捨て
た。そして、海の中に入っていく。一体何をするつもりだ? 私は目が離せなくなった。
 その時、渚に近い波の中で何かが光った。波を跳ね上げた飛沫が飛んだ。彼は手を伸ばし、
その何かを抱き寄せた。とたんに、それは彼の身体をしがみつかせたまま、泳ぎ出した。
 イルカだ…夜の明りの中で海水にぬれた人間の身体と、イルカの身体が光っていた。鍛えられ
た人間の体が優美な曲線を描くイルカの身体と戯れている。あのイルカは女性なんだろうか。
イルカの身体があれほどセクシーだとは思わなかった。イルカは岸近くにいる彼を誘惑するように
沖まで緩やかに泳いでは、波を跳ね上げている。そして彼の側へ戻ってきて、身体にまとわりつく。
彼が観念したように沖へ泳ぎ始めると、イルカはぴったりと側を泳いでいる。やがて二人は抱き
合い互いの体温を確かめるように海面を漂っていた。それは、人間の男女の抱擁よりもはるかに
官能的で、美しかった。
 
 なんということだろう。彼は暑い夜にこの清らかな浜辺でイルカと愛を交わすために家を空けて
いたのだ。私の身体を火柱のように熱い衝動が突き抜けた。
 違う! あそこに彼といるべきなのはイルカじゃない! あそこに彼といるべきなのは私なのだ! 
激しい嫉妬の感情で身体ががくがく震えた。何故人間でもない生物にこんな感情を覚えるのか分
からなかった。しかし彼とイルカの間に交わされていた甘美で美しい感情は、彼と私だけに許され
るべきものだった。
「返して!彼を海へ連れて行かないで!」
 私は物陰から飛び出し、海へ向かって叫んでいた。
「連れて行かないで!」
 渚へ走りより、海へざぶざぶと入りながら、まだ叫んでいた。
「お願い!連れて行かないで!」
 もう彼とイルカの姿は私の目には見えなかった。ずっと沖へ行ってしまったのだろうか…。
私は彼が脱ぎ捨てた服を抱き寄せて泣いた。彼の服からは海の匂いがした。とり返しのつかない
事をしてしまった感じがした。もう、戻れないだろう。あの優しい日々には…。
 しばらく泣いた後、私はとぼとぼと砂浜を引き返した。私の服はぐっしょりと海水を含んで重かった。
 
 それから、私は二度と浜辺には行かなくなった。あの夢とも現実ともつかない夜の海辺の光景か
ら逃れるために、私は海辺の町を離れた。あの記憶を忘れるために新しい町を探し、仕事に没頭し
た。そして結婚し、別れた。
 それから、不思議なことにまた海辺を転々と旅して回るようになった。何故そうなったのか、自分で
もわからない。再び一人になったとき、不思議に彼の言葉が胸によみがえってきたのである。
「人間の身体の大半は、海でできているのではないかと思う。だから、涙も汗も血液も、みんな塩辛
いんだ。」
 涙と同じ塩辛い水を満々と湛え、生き物のように呼吸する海が、突然恋しくなった。そこに、かつて
彼に抱かれたのと同じ優しい匂いを感じるからだろうか。そんな事を考えながら、私は今回の旅先の
砂浜に立っていた。
 なんとなく、昔彼とであった浜辺に似ていた。もしかしたら、と妙にどきどきしながら防波堤の先端
に座った。丁度日暮れ時で、美しい夕焼けが海の上に広がっていた。かつて、二人で眺めた時と
同じ、美しい黄昏が訪れていた。それを私はひとり眺めた。もしかするとあの過去が戻るかもしれな
いと期待した私の願望は叶えられなかった。
 私は帰り道を歩き始めた。ふと、私の横を顔立ちの奇麗な高校生くらいの少女が通り過ぎた。セミ
ロングの髪が潮風にゆれ、どこか毅然とした面差しの少女だった。一瞬、若い頃の自分を思い出し
たが、彼女の方が数段美人であろう。思わず彼女の後を見送っていると、彼女は左に歩いていった。
駅まで行くのだろうか。近くでエンジンの音がして、今度は右手から一台の車が走り去った。日が暮
れた浜辺にはもう人影はない。
 私はこうしていくつもの浜辺を彼の面影を追って歩くのだろう。彼はどこにいるのだろうか、とふと
思った。
 
第7話『モーツアルト』 (by 森脇久雄) 
 
 私は時空を旅する存在である。
 あるときは生命体として、あるときは非生命体としてこの地球上に存在し、様々な人間の
情景を眺めてきたものである。
 私はそのときそれぞれで、外部から客観的に人間を観察し、あるいはその内面の世界に
入りこんでその人間の心理を読み取るだけでなく、その人間の過去と未来をも透視するこ
ができる存在である。
 そしてここに描く人間の情景は、1970年代の日本国、場所は関西の海に隣接するある
町で観察したものである。
 当時、多く存在していたクラシック名曲喫茶店の中で二人の男女の会話を傍観したもので、
男は高校生時代、九州北部のある都会でキリスト教会の聖歌隊に属していたころ、歌唱
指導に来ていた女に深く憧れ、女の方もこの男を弟のように愛したという間柄であった。  
 二人は男の高校卒業と同時に離れ離れとなり、10数年後、郷里から遠く離れた町での
音楽会で偶然にも再会するという状況下であった。
 
 しばらく沈黙が続いた後に女は男の顔を見つめたまま、「なんて、きれいな曲なんでしょう
!」とつぶやいた。
それはつい今しがた店の中を流れ出した音楽だった。男はニッコリした。 
「あなた、この曲をご存じなの?」
「ええ、モーツアルトのクラリネット五重奏曲です」
 女は感嘆したような面持ちで男を眺めた。
「あなたって、本当にいろんな曲を知っていらっしゃるのね!」
 そのとき、通路を隔てた隣席の男が振り向いてニヤリとした。齢は40代前半と思われる
その男は彫りの深い風貌をしたなかなかの好男子であったが、その倣岸そうな不躾な眼
差しに男は戸惑いを感じた。
「たまたま、私の好きな曲だったのです」
 女もその気配を察して「気にしないのよ。あの男、いつもいるわ。嫌な感じでしょう?」と
言った。その声は低かったけれども件の男に聞こえぬはずがなかった。その男は鷹のよう
な鋭い目つきで女を凝視したが、女は平気な面持ちでその男を見返し、そして無視するか
のようにすぐさま対手の男の方に視線をもどした。
「あなた、モーツアルトがお好き?」
「好きですね」
「どのくらい?」
 女の昔からの癖であるその詰問調の問いかけに男は懐かしさを感じながらもすぐに答え
る術もなく、「どのくらいと言われても答えようがないなぁ」と、思わず頭をかいてしまった。
そしてこんな会話も、隣席の男は気障な野郎め、と苦りきって隣で聞いているのだろうな、
という想いが頭をかすめた。しかし、女は男の仕草にそらされず、じっと彼の眼を見つめた
まま言った。
「私が尋ねているのは、どんな風にモーツアルトが好きなのかということよ。たとえば、いろ
んな人がいるでしょう。モーツアルトも好きだ、ワーグナーも好きだ、リストも好きだ、という
ふうにどの作曲家も同じように好きという人や、モーツアルトの音楽は明るくて楽天的であ
り、聴いていて楽しくなるとか、まあ、私の話を最後まで聞きなさい」
 男が頭を傾げて何か言いたそうになったのを女は急いでさえぎって続けた。
「モーツアルトの旋律の美しさ、微妙な転調や半音階的展開の独創的なこと、モーツアルト
のどの音楽にも潜む悲劇性への深い共感などをあげる人、えへん、なかなか博識でしょう
?」 
 男があきれたように眼を見張るのを見て女はおどけて見せ、なおも続けた。
「ただ、モーツアルトの音楽の美しさそのものが理屈抜きで感動させてくれる、といった風な
人、いろいろあるでしょうけれど、あなたの場合はどんな風にってわけよ」
 男は柔和な表情をしながらも真面目な面持ちで答えた。
「強いて言えば、一番最後の例に属するでしょうね」
「理屈抜きに感動させてくれると言うこと?」
「その理屈抜きにっていうのはちょっと正確ではないですね。だって、音楽が好きで単なる
趣味の範囲を超えてのめり込んでいくと、どうしたってそこには純粋なものだけでは済まな
くなる要素がはらまれてくると思います。幼いころにトルコマーチを聴いて心が踊ったことと、
成人して人生の比較的暗い時代にレクイエムなどを聴いたりして感動するのとではだいぶ
ん次元が違うでしょう」
「幼いころの感動は次元が低いと言うわけ?」
「違いますよ、とんでもない!僕の場合に限って、あれは素晴らしい感動でした。トルコマー
チを聴いて心が打ち震えたあの感動は理屈抜きだったろうと思うのです。でも、大人になっ
てレクイエムを聞くときは、初めてあの名曲を聞く前からして、すでに理屈抜きでは全然有り
得なかったわけです。いろんな音楽家、評論家、あるいは熱烈なモーツアルティアン達、つ
まり音楽の識者とでもいえる人達が「魔笛」と並ぶ音楽史上の傑作として「レクイエム」を評
価しているのをすでに演奏を聞く前から知識として知っているわけですね。そしていざ、レク
イエムを聴く段になると、もう無意識のうちにこれは素晴らしい名曲中の名曲なんだ、という
心の構えをしていたと思うのです。そのような状況で、はたして自分が純粋に理屈抜きで音
楽を受け止めているのか、感動しているのかということについては自信が無いところがある
のです」
「なるほどね。解るわ、おっしゃっていることが」
「ただ、レクイエムに関しては正直なところ、私にはそれほどの感動が無かったのです。もち
ろん、まぎれもないモーツアルトの美しい曲だとは思いましたし、私自身、バッハのロ短調ミ
サやクリスマスオラトリオなど随分好きで、だから決して宗教音楽というイメージで感動をぼ
やかされたというわけではありません。でも、みんなが誉めそやすほどには、いざ聴いてみ
ると感動させられなかった、評判倒れだったというのが僕の場合の悲しい現実だったのです」
「でも、レクイエムは素晴らしいわ。私も何度か歌ったことがあるけれどとても好きよ。レコー
ドでもモーツアルトの曲の中ではかなり聴いているほうなのよ。私にとっては理屈抜きに好
きな曲と言えるわ」
「そうです。あなたはレクイエムが好きだとおっしゃる。あなたの場合、声楽家として実際にあ
の大曲の演奏に携わってこられた。それによってあなたはレクイエムの曲を何度も繰り返し
味わい、曲の隅々まで知るようになってこの曲を本当に理解したのではないでしょうか。私は
あなたほどこの曲を知らないから本当はまだ理解していないのかも知れません。私が言いた
いのは、理屈抜きでなく聴いてみた感じではあまり解らなかったという曲がモーツアルトの作
品の中にあるということなのです」
 女は不思議そうに男の顔を見つめた。
「あなたのような音楽への感受性豊かな方がレクイエムを理解できなかったって、とても不思
議だわ」
「理解できないというよりも、私の好みに合っていなかったとでも言うべきかもしれません。もし
かしたらいつか好きになるときが来るかもしれませんが、どんな名曲としての素晴らしい評価
を得ているものでも私の好みに合わないものについては私はそのことを自覚し、その気持ち
に正直でありたいと思うのです。理屈抜きで音楽を聴くことは避けられないかもしれませんが、
少なくとも少しでもそのフィルターから逃れたい、というのが私の願いなのです。それでも私は
モーツアルトが好きであると言える自信があるのです」
 女はしばらく考え込むように無言で男を見続けたあと、つぶやくように言った。
「私、モーツアルトの音楽を心から愛してやまない人達にたまらない羨ましさと音楽への造詣
の深さを感じるのよ。それとちょっぴり嫉妬みたいなものもね」
男は微笑んで言った。
「あなただってモーツアルトへの造詣は深いではありませんか。このクラリネット五重奏曲はけ
っこう渋好みの作品です。それに感動を覚えるのなら立派なものです」
「さあ、それはどうかしら。今、あなたとこうやって思い出話を語らいながら過去を懐かしがって
多少おセンチになっている気分のところに、それにぴったりのような音楽が聞こえてくるから感
動するのかも知れないわ」
 それは多分にあるだろうと男も思った。男自身、普段好んでよく聴くこのモーツアルトの名曲
に、その夜はいつになく深く感動していたからである。
「でも、音楽ってそんなものではありませんか?」
「だって、いろいろな人がモーツアルトを賛美する言葉を言っているでしょう?そして、すごく哲
学的な表現をするじゃない?デーモンの衝動から悪魔に魅入られたような音楽を作ったとか、
走る悲しみから逃れられなかったモーツアルト、とか・・・」
「借金取りから逃げるのに走り続けたというわけですか?」
「茶化さないでよ!」
 あわてて男は謝りながらも、言った。
「小林秀雄のエセーを読んだのでしょう?」
 女ははにかむようにうなずいた。何と魅力的な表情をこの女性はするのだろう、と男は女の
その輝くような微笑に胸を突かれるようなものを感じた。もう、30代も後半の年齢になっている
だろうに昔と変わらぬ女のその少女っぽい表情に魅了されながら、そうだ、この女性の内面に
おける心の躍動がそのまま表情にあらわれるその天真爛漫さに惹かれるからこそ、自分は
永年離れていても常に忘れることのできない彼女への憧れを抱きつづけてきたのだ、と男は
思い当たるのであった。
 男はチラッと隣席の男を見やった。目を閉じて音楽に没頭しているその男の横顔には何か
孤独感をただよわせるものがあり、それを見たとき、男はもう随分前に女が結婚し、やがて
離婚したことを風の便りに聞いたことを唐突に思い出した。
「それが理屈で音楽を聴くということになるのではないですか?小林秀雄の『モーツアルト』
は確かに名著かも知れませんが小林秀雄個人が感じたことを書いているのであり、いかに
小林秀雄が偉大な文人だったとしても、その感想に縛られることはまったく無用だと思いま
すよ」
「だって、小林秀雄の影響は大きいわ。私の周囲にいるマニアックなモーツアルトファンの多
くが彼のエセーにすごく支配を受けているようなふしを感じるのよ!その人達の話しを聞いて
いると、なんだか、自分のモーツアルトへの愛好というものがすごく底の浅いもののように感
じてしまうことがあるの」
「小林秀雄は文芸評論家であり、そのエセーはあくまで文芸作品なのです。彼の感受性が受
けた印象を語っているのであり、音楽そのものを語っているのではありません。音楽に限らず、
芸術に能書きは不要だと思います。極端な言い方をすれば、作者その人の創作意図も別に
考慮することはないと思うのです。芸術作品というものは、作られたその瞬間から作者から離
れ去っており、後は受け手の感受性の世界にゆだねられるものではないでしょうか。受け手
のセンサーに響き、そこから受け手の感受性の世界に具体的に生じるイマジネーションが本
来もっとも大切なものではないかと思うのです」
「芸術の受けとめかたというのはかなり個人的要素で左右されるものであり、それはそれで
意味のあることだと言うわけね?」
「そう思います。もちろん大多数の人達が共通のイメージを受ける芸術性というものはあるの
でしょうが、それが自分にあてはまらなかったとき、無理にそのような解釈、イメージを受け入
れようとしなくたっていいのではないでしょうか。あなた個人の感受性、受けたイメージを大事
にして芸術を受け取られてみてははいかがでしょう」
 男がそう言い終えると女の表情が明るく輝き、隣席の男を振り向いて勝ち誇ったように言っ
た。
 「ということなんですって!」
 
 もう限られた紙数は尽きてしまったので、この辺りで打ちきることにして私はまた時空の旅に
出ることにしよう。
 えっ? 私の名前をお尋ねか?
 私はかつて人間からジョンと呼ばれたりジョージと呼ばれたこともあったが、この時点では無
名の存在である。
 ただ、蓄音機をのぞき込む私の絵姿の下に「HIS MASTER'S VOICE」と記されてい
るので、あるいはそれが私の今の名前なのかもしれない。
 そう、私はクラリネット五重奏曲のレコードに貼られた丸いラベル上に存在しているのである。
そのレコードはビクター社製の盤であるそうな。
 
第8話『日の沈む河へ』(by 藤岡恵美子)

 

  あの滑らかな肌の青年と初めて出会った時から、私は自分が「選ばれた」ことが

わかっていた。だからいつかは別れが来るのだということも。彼は私に長旅に必要

な“シャクティ”を与えるために現れたのだ。ひんやりした浜辺で繰り返し愛を交

わしたいくつもの夜、彼は火照った自分自身の「熱」を冷まし、私は身体の奥に少

しずつ、彼からもらった“シャクティ”を貯えていったのだった。

  そして夕べ、私は星の声を聞いた。旅立つ時が来たのだ。西へ、西へ。選ばれた

者だけがたどり着くことのできる、日の沈む河、泥の河、南国の花と腐った果物の

香りがするという伝説の河へと。本当にたどり着くことができるのだろうか。それ

はわからない。でも行かなければならない。それが星に与えられた私の使命なのだ

から。

 

 「日の沈む河」へ行くためには、まず南へ向かわなければならない。大きな川の

ような暖かい海流に乗り、珊瑚礁の島々を眺めながらひたすら泳ぎ続けるのだ。途

中、太い木をくり貫いた船に乗った人々と出会うことがある。彼らはなぜだか私の

言葉がわかる。私が海流に乗って南に向かっているその訳も、きっと知っているに

違いない。

  去って来たあの島、「日が昇る島」で私の言葉がわかったのは、あの滑らかな肌

の青年一人だけだった。もっとずっと前、私の祖父の頃には、星や、波や、風の話

ができる人間が、あの島にもたくさんいたらしい。その頃、星の声を聞き、この海

の道を旅した仲間は、もっとずっと多かったに違いない。

                                       

  もうどれぐらい泳いできたのだろう。海の水は生ぬるくなり、時々浜辺に近づく

と、小麦色の肌の娘が髪に花を差して歩いているのが見える。もう西へ向かう「海

の廊下」の入り口にさしかかっているはずだ。長いこの廊下をたくさんの船と共に

泳ぎきったら、そこは「土の匂いの海」だ。この海の向こうに「日の沈む河」があ

るのだ。私は疲れきり、思うように動かない身体を無理やりにうねらせながら、や

っとのことで前へ進んでいた。

                                       

  少しづつ、水が濁って来た。泥の河が近づいてきたのだ。でも、どこを泳いでい

るのかよくわからない。視界の利かない水の中で、時々流れて来たものが、ごつご

つと鼻先にあたる。それは土で作ったランプの皿だったり、たくさんの手を持つ人

形だったり、オレンジ色の布で包まれた男の死体だったりした。

  ふと、この茶色の水がもうあまり塩辛くないことに気付いた。着いたのだ。私は

今「日の沈む河」を泳いでいるのだった。

 

  水面からそっと顔を出してみた。昇りかけた太陽が河の面に赤い光の帯を作って

いた。不思議なことに、この河では朝日も夕陽のような色をしている。岸辺では子

どもも大人も、男も女も、陽を肌に受けながら水しぶきを上げてはしゃいでいる。

釣り糸をたれたまま、石のように動かない者もいる。美しい刺繍を施した真紅の布

を頭からかぶった娘が、若い男と二人、河の水をすくっている。二人の真ん中に立

っている老女は娘の母親だろうか。

  黄金色に照らされた岸には石の階段が続き、やせ衰えた老人たちが力なくそこに

座っている。老人たちの横には皮膚病の犬が腹ばいになり、舌を出している。そし

て、向き合ったまま、小便を垂れ流している二頭の牛。その下の水辺で、洗濯物を

石に打ち付けている男...。

 

  ああ、ここは「日が昇る島」とはなんと違うのだろう。私はあの青年の肌を思い

出した。この河で水浴びをする青年たちの肌もまた、滑らかに輝いている。しかし、

彼らは自らの「熱」を持て余してはいないようだ。青年たちは毎日、早朝と夕方、

この河へ来る。彼らが河に身体を浸した途端、彼らの「熱」は水に溶けて流れ出し、

あらゆる混沌とともに海へと流れていくのだ。だからここの青年たちに私は必要な

い。私はそのために来たのではない。私は、この河べりで最期を迎える、干からび

た肌の人々のためにやってきたのだ。

 

  一人の老婆が水辺に座りこんだ。彼女が長い時間をかけて、そこまで這って来た

のを私は知っていた。白いサリーは汚れてねずみ色になり、土色の肌には深いしわ

が刻まれ、その足はまるで乾いた木の枝のようだ。彼女はやっとのことで指先を河

の水に浸した。そして、ゆるやかな茶色の流れをみつめ、荒い息をしながら横向き

に崩れ落ちた。彼女の息遣いはだんだんと間遠になり、瞼は垂れ下がり始めた。

 

  今だ。私は身体に“シャクティ”がみなぎるのを感じた。長旅の疲れはいつのま

にか消えていた。さあ、跳べ、力の限り、跳ぶのだ。私はきらきらと水しぶきを上

げながら、跳躍を続けた。河べりには数え切れないほどの人がいたが、その中で老

婆だけが私を見ていた。私は背中を虹色に光らせながら跳躍を続けた。老婆の口元

にかすかな笑みが浮かんだ。

 

  彼女のかすんだ目には私の背中が、そして、きらめく水しぶきが、水上に光とと

もに現れ、手招きする女神の姿に見えたはずだ。死に際にこの河にたどり着いた幸

運な者たちの中でも、極めて少ない者だけが見ることのできる聖なる河の女神を、

彼女は見ることができたのだ。老婆は大きな息をついて、そのまま動かなくなった。

私はひとつ仕事を果たしたことに満足して、鳥の群れとともに上流へ泳いでいった。