3/7 2003掲載

森脇久雄

私の顧客のピアノ教師のことを記しました。

昨日の午後から出かけていったN先生宅での仕事はグランドピアノ二台の調律でした。

Nさんとはもう20年近くのお付き合いなのですが、とにかく調律の狂いに敏感な方で、二台

のピアノで重奏していて少しでも音律の不一致を聞きとがめるともう、すぐに調律の依頼電

話がかかってくるというピアノ教師なのです。

従いまして、季節の変化ごとに微妙に変化するピアノの音律の変化に沿うよう、Nさんは年

に何回も調律を依頼されてくると言う、上得意の顧客でした。

 

そのNさんが、2年前の2001年2月に左乳房に乳癌が発見され、手術という選択を迫られま

した。医者の丁寧なインフォームドコンセプトを受けたNさんは、手術はせずにそのままの事

態を受け入れるつもりでいましたが、74歳になるお母様を筆頭に悲嘆に陥ったご家族の様

子を見て、何としてでも少しでも生き延びるべき努力はしなければと、手術を受け入れ、その

後の放射線投射及び抗がん剤投与も受け入れられたのでした。

Nさんは、苦心して育ててこられたお弟子さんたちの大半を仲間、もしくは後輩のピアノ教師

たちに任せられ、ガンとの闘病生活に入られたのです。

期間を空けて何度も受ける抗がん剤の副作用である嘔吐の苦しみとの戦い、毛髪が全部抜

けてカツラをかぶって外出するときに風が強い日などはカツラが飛びやしないだろうか、という

精神的プレッシャー、ギリギリ一杯の量の放射線療法で火傷のように赤みがかかる肌。辛い

戦いが続いたようですが、その間に何度かお会いしたとき、Nさんは他人事のように淡々とそ

れらのことを語られるのでした。

 

2001年10月、ガンは右乳房に転移。Nさんは再び、手術及びその後の抗がん剤&新薬の投

与を受け入れました。

新薬が効果的に効き、一時は肝臓に転移したガン細胞も消えたこともあったのですが、2002

年11月、肝臓に再びガンが生じました。この時点でN先生は、自分は十分にガンとの戦いを

やり通してきた、もう、これで十分、後は心穏やかに残された日を充実したものにしたい、と
郷里鳥取にある’野の花診療所’というホスピスにい
ざというときの入院を確約し、化学療法
及び、放射
線療法は拒否し、新薬と健康食品、ならびにイメージトレーニングの療法だけに
専念することを
決意されたのでした。

 

そんなときに私はNさん宅に仕事に行ったのです。

仕事が終えたのが午後4時過ぎ。お弟子さんたちが来る午後5時半まで、N先生がたててくだ

さった美味しいコーヒを頂戴しながら、じっくりとNさんのお話を聞かせてもらいました。


 

そのときが来たときにN先生が入るホスピスの院長が書いた本を何冊か見せてもらいました。

死を正面から見つめた末期医療への真摯な思いを綴った本のようでした。

「こういった話題を多くの人は忌避しますが、私は今、こうしてまだ元気な状態のときにこの自

分の最後の時の状況のことを入念に検討し、このような信頼できるホスピスを見つけられたこ

とを幸運だったと思ってます」

そう語られるN先生の表情は覚悟を決められた武家の女性のような毅然とした美しさがありま

した。

私たちが語り合っている間に2回、電話がかかってきました。どちらも病院で知り合った同じ病

気の人達で、それらの人たちは不安になったとき、何か治療法で迷ったとき、Nさんに電話して

彼女のアドバイスをもらい、また慰めの言葉を期待してくるようなのです。ご自身、病魔と闘う

身なのに、他者の話を丁寧にじっくりと聞いてあげるその姿に、Nさんの娘さんが「お母さん、ピ

アノ教師をやめてカウンセラーになったらいいわ」と冷やかすそうです。

険しい表情をついぞ見せたことの無い温厚なNさんがガンという業病に立ち向かわれながら冷

静さを失わないどころか、人への思いやりも忘れず、理性的に振舞われているそのお姿を拝見

していると、私は大いなる勇気を頂戴するような気がいたします。私も同じ状況になったとき、N

さんに恥じぬような立派な態度を貫こう、と思うのでした。

私はN先生の画像をデジカメに撮りたかったのですが、さすがにそれは言い出せず、先生が可

愛がっているワンちゃんの写真を撮らせてください、犬好き、猫好きの人たちがいっぱいいる私

たちのホームページに載せたいので、とお願いしました。

「この娘、今、毛並みがバラバラで振り乱しているから、この前、シャンプーしたての可愛らしい

写真があるのでそれを持っていってくださいませんか?美人の娘が一番、それらしく写っている

のです。ふふふ、親ばかでしょう?」

とN先生は卓上額縁に入れた写真を抜き取って私にくださったのでした。

ホームページで何度も見る、我が子が一番可愛い、美人、美男と思う飼い主たちの姿に、いず

こも同じだな、と微笑を禁じ得ませんでした。愛嬢の名はクーちゃんと言います。

 

 

最終的にはNさんの肖像も撮らせていただきました。

心から尊敬するNさんの心安らかで充実した日々が続くことを祈ってやみません。

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