文集

ピアノ調律師の雑話 @
  森脇 久雄

 我が息子から、いつも山の話ばかりでなく、たまには調律師という職業柄、接している音楽の場の話を書いてみては、と勧められました。 皆さんが興味もって読んで下さるかは別として、30年間この仕事に従事してきて感じたこと、考えたこと、また、お粗末ながらも独断と偏見に満ちた私の音楽談義や芸術論などを雑談の形で書いてみようと思い立ちました。
 ただ、私は簡潔な文章が大の苦手で、どうしても饒舌になる嫌いがあり、許されたスペースで語り尽くすことが到底無理だということが最初から予想されますので、次回会報へ続編が続くことになると思います。ですから唐突な終わり方をしましてもそこはどうかご容赦をお願いいたします。
 ピアノ調律のことは、語りだすと長くなり、この稿ではそれが目的ではありませんので、ごく大雑把に説明いたします。 調律とは、ピアノの88コある鍵盤のうち、ほぼ中央部の「ラ」音のキーを440ヘルツの音叉を使ってうなりが全く生じないようにあわせ、それを基本に4度、5度音程を使って1オクターブの音階を作り、それをオクターブで高音部、低音部へとそれぞれ延ばしてあわせていく作業をするのです。調律師は、調律の他に音色の調整(整音といいます)と、それに加えてピアノは複雑なメカニズムをもつ楽器ですので、そのメカの動きをスムーズにさせる整調という作業もやります。「調律」「整音」「整調」この3つが調律師のやる主要な作業です。よく、音感が優れていないとダメでしょうね、とか、音楽の感性が良くなければ向いていないでしょう、などのお尋ねを受けますが、整音は別として、調律を正確にあわせる作業そのものは純粋に計測的なものであって感性的な要素はなく、絶対音感などはほとんど関係ありません。絶対音感とは、ある音を聞いて、音階におけるどの音かを聞き分けられる能力のことを言いますが、実はこれがかなり幅のある音感でして、調律にはあまりにも不正確で使いものにならないのです。音楽史上有名なモーツアルトが半音の8分の1のずれを聞き分けられたことが人々の驚きと共に記録に残っているのですが、調律師達は、一つの鍵盤に半音の100分の4以上の誤差を作ってその影響が全88キーに及んだとき、確実にピアノ調律師協会入会審査の実技試験に落ちます。それもかなり悪い成績で。こう記すと、ピアノ調律師はモーツアルトよりも音感が優れている者ばかりか、と皆さんは思われることでしょうが、そうではありません。モーツアルトはある一つの音を聞いただけで、それが規定の音高からずれていることを聞き分けられるのに対して、調律師は、正しい基本の音があってそれとの比較から別の音の誤差を聞き分けることができるにしか過ぎないのです。これも説明しだすと長くなるのでまた別の機会に譲ります。
 ピアノ調律師の話で、やはり皆さんの興味を引くのはコンサートにおける苦労談とか、コンサートの催される裏側ではどのようなことが行われているかということではないかと思いますので、そのコンサートの話から始めたいと思います。
 大ホールのフルコンサートグランドピアノ(普通のグランドピアノよりも倍の奥行きを持つ)を調律し、大勢のお客さんに聞いてもらえることはとても緊張を強いられることであり、その分、音楽会が大成功のうちに終わったときの充足感というのは、一度味をしめたらやめられないものがあります。それ故に、ピアノ調律師を目指す者の誰もがコンサートチューナーになることに憧れますが、これが努力とか、優れた腕を持っているからというだけではなかなかなれるものではなく、運に左右されるところがかなり大きい世界なのです。私は、取り立ててずば抜けた腕前の調律師ではなかったのですが、18年前に大阪に初めてできた市立のコンサートホールに、私が所属していた組織がフルコンサートグランドピアノ2台を初めとする大小のグランドピアノに立型ピアノ(いわゆる一般家庭に普及しているピアノでアップライトピアノとも言います)等9台納入したことから、紆余曲折を経て運良く、私にこのホール担当の任がまわってきました。そして、3年前に組織を辞めて独立するまで、私はこのホールのコンサートチューナーを15年間やってきたのです。この経験は、調律師としての腕を磨くことと、仕事だけに限らない人生の困難な状況下でも冷静さを失わないようなある種の度胸を身につけるといった有益なものを私にもたらしてくれました。さて、皆さんは、コンサートの仕事が入った時から調律師が気にかけ、ホール事務所に着いたらまず最初に確かめることは何だと思われるでしょうか? どんな演奏家が演奏するのか、ということもひどく気になることですが、私に関しては、まず第一に演奏曲目を知ることが最大の関心事で、次がピッチ変更の有無です。曲目によって調律の維持は大きく異なり、場合によってはピアノの弦が断線することもあるために調律のやり方も変わり、コンサート中に続くプレッシャーもずいぶん違うからです。ピッチ変更とは、全体の音の高低を変えることで、例えばオーケストラを伴う演奏会のときは、ピッチを変えることがあまりできないオーボエに合わせてピアノのピッチを変更することがしばしばあります。88キーすべての音を修正するために労力もかかり、特に調律が良く保持されているときにはすごく損をしているような気分になります。 曲目については作曲家と言いかえてもいいでしょう。なぜなら、演奏中に調律が狂ってきたり、時には断線する曲目はたいてい特定の作曲家によるものが多いからです。それらはリスト、ラベル、スクリャーピン、ラフマニノフ等のロマン派後期に属する人達でして、これらの作曲家達は、ピアノに過酷な負担を強いる難儀な曲を量産して下さることから私たち調律師にとっては忌み嫌う存在となっております。そしてその筆頭がフランツ・リストでして、この作曲家のピアノ曲は技巧が難しいことで有名なのはピアノ音楽がお好きな方でしたら誰でもご存じだと思いますが、その華麗な超絶技巧(いや、実際に彼の作品にはこの形容が冠せられた曲があるのです)の演奏はピアノへの過度な負担の上に成り立っているのです。調律を正確にやるだけでは済まず、少しでも狂いにくくするために何度もどつくように打鍵して狂うキーがあれば修正し(調律師にだけしかわからないような狂い方だったら良いのですが、ときたま、何ヶ所のキーが極端な狂い方をしてラグタイムピアノ[注]のような音を出すようなこともあるため)、リハーサル後も本番途中の休憩時にも何度も調律し直さなければならず、かつ、演奏中、常に断線の不安に緊張し続けるのですから、調律師にはすごいプレッシャーがかかるのです。
 朝(昼の時もありますが)、ホール事務所に行ってチラシを見、リストの名を見つけるともうそれだけで気持ちは重くなり、なお、新人演奏会という催しで出演する4、5人の出演者の皆がリストの曲を弾くとなると絶望的な気持ちになり、ましてや、その中に「メフィストワルツ」とか「リゴレットパラフレーズ」なんて化け物みたいな曲が入っていたらもう逃げ出したくなります。 これと対照的なのが古典派の作曲家でして、バッハ、モーツアルト、ベートーベン、等の作品で占められたプログラムを見ると私は安堵のため息を漏らさずにはおられません。それは調律は狂いにくく、勿論断線の恐れはまず無いので調律作業も楽ですし、演奏中も、舞台横でハラハラしながら待機する必要もなく、楽屋裏でコーヒを飲みながら、読書にふけるといった優雅な状況を約束してくれるからです。特にバッハやモーツアルトの曲の演奏では調律はほとんど狂いません。モーツアルトは演奏会に取りあげられることの多い作曲家ですが、没後200年の1991年にはモーツアルト特集が目白押しに組まれ、本当に楽でしたね。ベートーベンなんかは結構、情熱的な激しい感じの曲が多いから調律も狂いやすく、断線もしそうなものだが、と皆さんは思われるかも知れませんが、そうじゃないのです。確かに「悲愴ソナタ」や「熱情」、「ワルトシュタイン」などは、いかにも激しく強打鍵の連続という感じの曲相ですが、意外と狂いません。聞く感じの激しさは変わらないように思えるのに、リストなどとどこが異なるかというと、それは曲の構造的なものに関係しているのです。
 ピアノ演奏技法のひとつにオクターブ奏法というのがあるのですが、これは音楽の旋律ライン、たとえばド、レ、ミ、ファという音の連続を弾くとき、通常はドとかレとか一つの鍵盤しか打鍵しないのですが、これをドと1オクターブ上のドの二つのキーを同時に打鍵して弾く、つまりメロディーラインをオクターブの関係にある2音で奏でる奏法がオクターブ奏法なのです。どなたでもご存じなのが、「乙女の祈り」の冒頭部ですね。この場合は両手によるオクターブ奏法です。この奏法は勿論古典派音楽家の曲にも随所に使われておりますが、量的にも曲を構成する重要さにおいても比較にならないほど多用しているのが我らが愛すべきリスト先生なのです。
 私は25年前の若い頃、音楽大生の家を回っているときに、グランドピアノの高音部がしょっちゅう断線する事態に苦労させられました。ひどいのになると、毎週弦張りに出かけていく家もあり、おかげで、そこの一家とは本当に親しくなってしまったほどでしたが、何故、こんなに特定の音楽大生のところでばかり断線が続くのだろう、と怪しみ悩みました。製造元のメーカーに問い合わせてもはかばかしい答えはなく、そこで丹念にピアニストとディスカッションをしながら調べたところ、断線のほとんどがリストの曲を練習しているときに起きていることに気づき、リストの曲の楽譜を手に入れてその構造をしらべてみて、このオクターブ奏法に起因していることを確かめたのです。オクターブ奏法は1オクターブだけとは限らず、2オクターブ、あるいは3オクターブにわたるものも含め、オクターブトレモロ(オクターブ関係の二つの音を交互に高速打鍵する奏法)も断線に大きく影響することも発見しました。オクターブ奏法から生じるどういった作用が弦を疲労させるのか正確な理由は解りませんが、関西電力に勤務されている顧客からお聞きした、高圧電線が風に吹かれてある種類の波を持って振動すると突然切れることがある、という話に私はピアノのオクターブ奏法の効果も関連性があるのではないか、と考えております。
 こんな訳で、ロマン派後期の作曲家は私らにとっては実に疫病神のような存在であり、それらの作品は調律師の寿命を縮めるためにわざわざ作られた悪魔の所産とさえ思われるのです。それらのベスト3(ワースト3とでも言うべきでしょうか)が先述のリストの「メフィストワルツ」「リゴレットパラフレーズ」とラベルの「夜のガスパール」です。ほら、曲名からして何か不吉で無気味な感じがするじゃありませんか?特に「メフィストワルツ」は私の担当したホールで5回あった演奏のうち3回が断線し、断線率6割という恐るべき曲なのです。ただ幸いなことに、アクロバットのような技巧を散りばめたウルトラC級の難曲ですから、誰もが簡単に取り上げられる曲ではなく、演奏される回数が極端に少ないのがまだ救いです。ところが断線率は「メフィスト」にくらべてかなり低くなりますが、ラベルの「夜のガスパール」はその曲相の豪華絢爛、怪しい魅力、そして実に見栄えのよい演奏スタイルゆえ、ピアニストの間で非常に人気が高く、頻繁に演奏されるのです。特にこの曲集の最後の曲、「スカルボ」が非常に危険な要素を持っており、断線はこの「スカルボ」の最後の方でいくつかの和音を機関銃のように打鍵する箇所に集中して起きるのです。 「夜のガスパール」が始まると、私はもう舞台そでの暗い空間を行ったり来たりしながら、演奏が無事に終わることを祈ります。演奏の出来映えが素晴らしからんことを祈るのではなく、とにかく断線せずに持ちこたえてくれ!少々狂っても良いから断線だけは‥‥ああ、そんなに強く打鍵しないで!調律師のことも考えてくれ!と祈り願い続けるのです。そばにはいつでも舞台に飛び出せるように弦張り替え用の工具と予備のミュージックワイヤーを用意してあります。やがて終曲、「スカルボ」が始まりますと、いたたまれなくなった私は、もうカーテンのすぐ境目、演奏するピアニストを真後ろから見るところまで行って立ちつくし、「弦よ、切れるな!切れるな!」と呪文をつぶやくように心の中で叫び続けるのです。マネージメントの人や、舞台の装置や仕込みを担当するホールの係員達も事情を良く知っておりますので、固唾を呑んで私の肩越しから覗いています。
 そしていよいよ問題の連打箇所が近づいてくるともう極度の緊張のあまり、般若心経を小声でぶつぶつと唱え続け、神仏の加護を祈る有様になります。いや、大げさに言っているのではなく、本当に般若心経を唱えてしまうのです。ピアノの弦が切れる音はホールに響きわたるような大きなものでは無いのですが、そのバチッと切れる音は演奏中の音の洪水の中でもはっきりと聞き取れるほどに異質でショッキングなもので、本当に心臓に悪いんです。もし弦が切れたら、切れた箇所にもよりますが、直ちに演
奏を中断させて、突然のアクシデントに興奮したピアニストやいぶかしげにざわつく聴衆の前で弦を張り替える作業をしなければなりません。ギターやバイオリンの弦のように柔らかいものではない、刃物のような強靱さをもつミュージックワイヤーの張替はどんなに慣れていても神経を集中する作業で、このような異様な雰囲気で行うには相当の沈着さを必要とします。
 ですから、もう連打が始まると、私の呼吸は完全に止まり、体は硬直したようにただひたすら嵐の過ぎ去るのを待つ感じになっています。そして無事通過してすぐに最後の終止符が打たれてピアニストの両手がパッと上に上がり、万雷の拍手が鳴り響きだしたときの私の深い安堵感というものは形容のしようがないくらいのものであるわけです。 こういった神経を消耗するところがコンサート調律の大変さなのであり、単なる技術が優れているだけでは勤まらず、どんな事態にも平常心でことにあたれるような度胸を必要とされるのです。これはコンサート調律に携わっておれば自然と身に付いてくるものではありますが、それまで耐えていることができずにコンサートチューナーを降りてしまう人も多くいますから、生まれつきの資質もあると思います。これだけ苦労の多いコンサート調律ですが、また、やりがいのある仕事であることも事実でして、色々な思い出があります。その一つが、コンサートでは、調律師は演奏家であるピアニストと気持ちの絆で結ばれることが多いことです。コンサートの間だけのつかの間の結びつきですが、それは演奏会が終わったとき、何か一緒に戦った戦友のような同志愛に似たものを感じ合うのです。ホールでこれから演奏会をやろうとするピアニストにとってもっとも頼りにする存在は、自分の恩師でもなければマネージメントの人でもありません。それはそのコンサートを担当するピアノ調律師なのです。多くの楽器の演奏家がいますが、ピアニストほどハンディを背負った孤独な器楽奏者は無いでしょう。オーケストラに使う楽器のほとんどが各自自分の楽器を持参してそれで演奏することができるのに、ピアニストは自宅でコンサートをするのでない限り、常に演奏会をやる行き先々のホールで未知の楽器を演奏しなければならない宿命を持っているのです。自分のピアノを持って演奏旅行に出かけたというホ
ロビッツやワイセンベルクのような存在は例外中の例外でして、ほとんどのピアニストが慣れ親しんでいる自分のピアノと音質も鍵盤のタッチもまったく異なるピアノを弾くことを要求されます。弾きづらいピアノにあたったとき、それを少しでも弾きやすく対処してくれるよう頼むのは調律師しかいないのです。また、自宅のせいぜい広くて20畳を出ることがない空間で弾いてきた自分のピアノの音しか知らないピアニストは、大ホールで弾く自分のピアノの音がずいぶんとおもむきが変わっていることへ困惑します。自
宅で弾いているようにはピアノの音が自分に聞こえてこない、つまり、ホールの広い空間に自分の弾くピアノの音が吸収されていくようで、音の強弱が果たして自分の弾いたとおりに出ているのかが細かいところで判別しにくく、それが聴衆にどのように響いているのかを確かめる術がないのです。これはピアニストをかなり不安に陥れる要素でして、慣れたピアニストなんか、同じピアニストの友人を連れてきて客席で聴いてもらい、その意見を聞きながら自分のタッチをある程度、コントロールするのですが、そん
な友人がいる人でも(全くいない人は勿論)、ほとんどがそのホールの音響効果を熟知している調律師にアドバイスを求めてくるのです。そしてこれらのピアニストの要望に、私ら調律師は精一杯応えて上げなければならないのです。技術的に不可能な要望もたくさんあり、また、たとえ可能にしてもホールの高価なコンサートグランドを守るために、その要求に応えられないときもあります。しかしピアニストの要望を全面的にかなえることはできなくても、彼らがある程度納得できるよう、その理由を説明し、なるべくその要望に添えるよう最大の努力を払うことを言って安心させなければなりません。これは絶対に不可欠なことで、これができない調律師はコンサートチューナーとしては失格です。それではどんな風にしてピアニスト達の不安感を取り除き、やがて演奏会が終わる頃には別れがたい親愛の情さえ抱かせるほどの信頼感を獲得するのでしょうか。技術的に対処できる技術力も必要ですが、究極的には調律師の言葉と態度なのです。演奏前の孤独なピアニストの気持ちを深く思いやり、最大級の真心を持って親身になってあげる心構えを持って接すれば、たいていのピアニスト達は穏やかになり、かりそめの間ではありますが、演奏会の終わる頃には同志のような友愛感を感じてくれます。ただし、そう都合良くならない場合ももちろんあります。いや、どこの世界にも、どうしても道理の解らない人、感情のコントロールができない人はいるもので、そんなときは本当に困ってしまいます。
 そういった演奏家と接するときの悲喜こもごものエピソードを、私の経験してきた演奏会を例に上げてお話ししたいと思いますが、もう紙数も尽きてきましたので、次回にさせていただきます。(続く)

[注]ラグタイムピアノ
ラグタイムは、19世紀末から20世紀初頭にかけて流行ったジャズの前身のような音楽を指す用語で、即興演奏をやらないのが特徴。モダンジャズの台頭で廃れてしまった。場末の黒人達がたむろする酒場で演奏されたために調律がほったらかしのピアノが使われることが多く、いつも調子外れのピアノの音が印象づけられて、調律のひどく狂ったピアノ演奏を表現するのに「ラグタイムピアノのような」という言い回しが音楽愛好家に使われている。欧米でもそうなのかは不明。