ピアノ調律師の雑話 B

森脇 久雄

2001125

 

 今回から、演奏会において私がピアノ調律師として経験してきた様々なエピソードをご紹介したい

と思います。

コンサートチューナーとしての私が演奏会でまず最初に確認するのは演奏される曲目であることは

雑話@でも述べましたが、その次に非常に気にかかるのはどのようなピアニストが出演するか、と

いうことで、これも場合によっては演奏曲目よりもひどく私の心にプレッシャーを与えることがら

なのです。

何ヶ月も練習して準備したきた努力の結晶を一晩のたかだか1時間半くらいの間で出し切ってしま

う、いわばやり直しのきかない一発勝負をするのがコンサートなのですからそのプレッシャーは大

変なものがあり、芸術家肌の人が多いピアニストたちは演奏直前は凄まじいほどの神経過敏症に侵

されていると言っても過言ではないのです。

ある新人演奏会に出演した音楽大学出たてのピアニストなんか、演奏が終わって万雷の拍手のもと、

悠然と引き上げてきたのですが、ステージそでのカーテン内に入るや否や、ヘタヘタとしゃがみ込

んで両手を床につけハー、ハーとあえぐように息をしながらしばらく動けないような状況になった

ところを目撃しました。あるピアニストはステージに出る前に私のところにつかつかと寄ってきて

後ろ向きになり「腰のところを叩いて下さい」と言うので、背中がむき出しの若い女性の肌を目の

前にしてドギマギする私が軽くポンとさわったら「もっと強く」と言われ、パンと叩くと「遠慮い

りませんからもっと強く、ど突くように!」と言われ、思わずバーンと相手がよろめくくらいに叩

いたことがありました。調律師は色々なことをやらなければならないのです。(誰ですか?それく

らいだったら僕もやりたい、なんて言うのは)

また、あるピアニスト、この女性は私の顧客の友人で面識もあり普段は柔和でチャーミングな表情

の持ち主なのですが、リハーサル中にある箇所で納得のいく演奏ができないらしく、その箇所を何

度も何度も繰り返すのですが思うようにならないのか、だんだんと顔の表情が険しくなるのです。

苛立つさまが手に取るように判ってきたとき、突如演奏をやめてチラッと観客席の方を見やったと

きの目つきといったらそれは般若か蛇女のものとでも言ったような恐ろしいものでした。「何を苛

ついているのよ!」と友人が厳しく声をかけるとハッとしたように彼女は冷静さを取り戻して再び

練習に励みましたが。

とまあ、こんな風に演奏前のピアニストというのは凄まじいプレッシャーの真っ直中にいるのでし

て、ピアノが気に入らないときはピアノへの不満、調律師への過度な要求となってぶつけられるの

で、調律師も随分とプレッシャーを感じるのです。それが気むずかしいということで評判高いピア

ニストが出演予定ということが判ると、その日から私達調律師も何とも言えぬ緊張感に支配されて

毎日を送るということになり、演奏会直前には場合によっては敵前逃亡したくなるような衝動に駆

られるときもあります。

私の15年間に渡るコンサートチューナー生活のなかでもっとも緊張を強いられた演奏会というの

は担当するホールが出来てから間もないころに行われたピアノリサイタルでした。このときの演奏

会は緊張感だけでなく、そのピアニストのことがとても印象深く思い出として残り、15年経った

今も細かい部分のことまで良く覚えているのです。

ピアニストはT・E(日本人です)という女性で今はあまり名前を聞かなくなりましたが、当時は

コーヒメーカーのテレビコマーシャルに出演したりしていて割と知られたピアニストでした。当日、

調律をやっているところにマネージメントの人がやってきまして「彼女は気が強く、大変神経質な

ので、極力彼女の言葉に逆らわず、できるだけその注文に応じて欲しい」と楽しくなるようなこと

を言ってくれるのです。そのホールで初めて迎える有名人ピアニストでしたからただでさえこちら

も緊張しているのに、そのマネージメントの言葉は調律師をもひどく神経質にさせるものでした。

 しかし演奏者がどのように気が強かろうと神経質であろうとも調律師に出来るのは調律を正確に合

わせ、ピアノを最良のコンディションに持って行く作業しかできないのですから私は黙々と調律をや

り、メカニックの部分を一番スタンダードな動きにするよう励むだけです。

 リハーサルは午後からでしたが調律を午前中に終えた私は早めに昼食をすませ、ホールに戻ってき

ますと、舞台の仕込みをやっている者達や照明係も時間前だというのにみんな楽屋裏に集合しており

ます。みんなもテレビでよく見る美人ピアニストに強い関心を持っているようで、気楽な冗談を言い

合っており、いいなあ、あいつら呑気で、と羨ましく思いながら私は客席の中央付近に腰を落ち着け、

ピアニストの現れるのを待つことにしました。

 そしてやがてそのピアニストが舞台に現れたのですが、今でもその時の光景が目に浮かびますね。

黒い皮製のミニスカートに長いブーツ、東京から新幹線で駆けつけてそのまま舞台に登場したような

スタイルでして、カッ、カッ、カッと靴音を響かせながら脇目も振らずにピアノの前に進んでいくと

さっと腰掛け、いきなりバラバラと弾き出すのです。マネージメントの人が注いでくれた予備知識の

イメージどおりの何か傲岸さを感じさせるような雰囲気でしたが、実にカッコ良かったですね。

 しばらく弾き続けていたと思ったらいきなり演奏を中断し、スクッと立ち上がって叫ぶのです。「調

律師さんはどこ?」背中を冷たい汗が流れるような思いを感じましたね。「ここにおります。私です

が」と立ち上がって名乗り、私は舞台の方へと歩んでいきました。明るい舞台からは薄暗い観客席が

見分け突きにくいのかじっとこちらを伺うように眺めておりましたが、私が舞台に上がると、「この

ピアノはいつ整音をやったの?」と彼女はたたみかけるよう言います。「音質をそろえる意味である

程度針刺しはやっておりますが」と私が答えるのに「違うの。そういうのではなくて、全体的にキチ

ッとした整音はいつやったの、と尋ねているの」と高飛車に言います。ほう、噂通り相当に勝ち気そ

うな女だな、と内心思いながら「全体的整音は当ホールに入荷した直後にやったきりで、それ以来は

しておりません」と私が正直に答えると彼女は「何て言う調律師さんがやったの?大阪なら○○さん

かしら?」と尋ねてきます。○○さんはスタインウエイ代理店の高名な調律師なのです。「いえ、私

どもの調律師がやりましたがお気にいらなかったでしょうか」と言う私の言葉に彼女はニコリともせ

ず、いきなり鍵盤の次高音部(旋律ラインを一番ひくところ)を立ったまま軽くパラパラと弾き、次

にアクセントをつけるように強いタッチで一つ一つを打鍵し、「音がこもっているじゃないの。強弱

の差も出にくい。しかもまるで鳴らないわ。何とかならないの」と無表情に言います。彼女が指摘し

たところは当たっており、それを何とか改善して欲しいというのは正当な要求なのですが、ところが

これが何ともならないのです。

ピアノという楽器は張った鋼鉄線を固く圧縮したフェルトのハンマーで打弦して音を発する構造な

のですが、工場を出荷したばかりであまり弾きこまれていないピアノは弦に当たるフェルトの部分

が十分に硬質化しておらず、こもったような音を出すのです。ある期間弾きこまれてくることによ

って弦に接するフェルト部が固くなってき、それによって音が硬質化、シャープ化して良く響きわ

たる芯のある音となるのですが、そうなるためにはそのピアノをとにかく弾きこむ以外方法は無く、

従って新しいピアノはほとんど例外なくこもった音がするのです。グランドピアノの左ペダルを踏

んで打鍵すると柔らかくこもった音になることにお気づきの方は多いと思いますが、あれが新しい

ピアノの音に近い音質で、左ペダルを踏むと鍵盤全体が右側に3ミリほど移動し、普段打弦しない

フェルト部が弦に当たるのでこもった柔らかい音になるのです。逆にあまりにも長い年月弾きこま

れ過ぎたピアノはフェルトの硬質化が進みすぎて固く鋭い音になり、極端な場合、チャン、チャン

とチェンバロのような音になることもあります。こういう場合はフェルトに針を刺したりしてほぐ

し、ある程度柔らかさを取り戻すことができるのですが、新しいピアノの柔らかい音を固い音にす

るのは弾きこむしか方法はありません。

 「ホールが開設されてから日にちも浅く、まだ十分に弾きこまれていないために本来の音が出ない

のです」と言うと、先ほどの言葉の端々からもさすがにピアノを良く知っていると思われる女性だけ

に、理性的にはそれを理解したようで、「そうなの。そんなにこのホールは新しいの」とつぶやくの

です。最初の高飛車な態度に比べてずいぶんトーンダウンしたその様子は私にとって意外なものでし

た。

「でもこれをもう少し、ましな状態にする方法はないものかしら。曲を弾いていても何だか砂を噛

むような無機質さを感じて全然気持ちが乗らないのよ」と情けなさそうに言う彼女の言葉に、危惧

していたヒステリックな状況に彼女がならなかったことに対して好感を抱いた私は、「お気持ちは

よく解ります。音質をはなはだしく変えることは不可能ですが、とにかく色々な方法を試してみて

少しでも改善するよう努力してみます」と言うと、彼女は気持ちが少し柔らいだのか、「ユニゾン

を甘くすることによって多少変わらないかしら?」と穏やかに提案しました。ユニゾンとは同じ高

さの音、という意味で、ピアノは一つのキーに弦が3本割り当てられており(低音部では2本か1

本)、その3本を同じ音高に合わせることを「ユニゾンを合わせる」と言います。それを甘くする

ということは3本の弦を微妙なところで少しずらせる、つまり少し狂わせるわけですが、それによ

って音に広がりを持たせる効果を期待できる面があるのです。

良く知っているな、と私は思いながらも「もちろん、それもやりますが、今からリハーサルを続け

られればユニゾンは自然と多少甘くなってくるでしょうからその後でまたご感想を聞くこととして、

メカニックの部分の動きも若干変えてみようと思いますので、10分ほど時間をいただき、その調

整をさせてもらった後に試し弾きをしていただけますか」と提案すると彼女はコックリとうなずき、

ピアノから離れたのでした。そして私はすぐにグランドピアノの鍵盤とくっついているメカニック

の部分(アクションと言います)を外に出し、先ほどピアニストがこだわった次高音部の1オクタ

ーブのメカニックな動きの調整に入ったのです。

それはどういう調整かということを説明する前にピアノのフェルトハンマーの打弦仕組みを説明さ

せていただきます。鍵盤をそーろっと押していくとこのハンマーは静止位置から動き出し(グラン

ドピアノだと上に向かって上がっていく)、張られた弦に接近していきます。そしてそのまま鍵盤

を押し続けていくとハンマーは弦の手前2.5〜3ミリのところで停止しますが、なおも鍵盤を押し

続けていくとそこからハンマーは弦から遠ざかるように下がって弦から4〜5ミリのところで静止

するのです。

そーろっと鍵盤を押していくとハンマーが弦に触れずに直前でわずか後戻りして止まってしまう、

これがピアノの打弦仕組みであり、このハンマーの動きが弦直前でエスケープするのを我々調律師

はハンマーの接近と言うのです。こういう仕組みですので鍵盤をある一定以上の強さで叩くと、ハ

ンマーはもの凄い速さで動き、勢いで3ミリのところを飛び越えて弦に衝突し、弦振動、つまりピ

アノの音が出るのです。このハンマーが打弦するときのスピードの速さ、つまりピアニストの打鍵

の強弱によってピアノの音量が変わり、音質もハンマーが弦の直前で停止する弦との距離によって

若干変わるのです。私はまずこの接近の距離を変えようとしたわけです。この状況、つまり音質を

もう少しシャープな硬質なものにするには接近をスタンダードな3ミリから狭くしなければなりま

せん。そして次に、これはベーゼンドルファー社というウイーンのピアノメーカーの技術講習会で

講師の技術者がある細工をすることによって著しく音質が変わるのを目前に聴いたことがあり、そ

れを試してみようと思ったわけなのですが、これがどのようなものかというのを理解いただくには、

グランドピアノのアクション構造を細部に渡って説明しないと不可能なので省きます。

私はピアニストやマネージメントの人、舞台係りの人たちが見守る前でこれらの作業をし、接近は

半分の1.5ミリに調整しました。

そしてアクションをピアノの中に戻し、ピアニストに再び弾いてもらいました。彼女はしばらく弾

き続けていましたが何度か首を傾げるばかりで特に気に入ってくれたようすを見せてくれませんで

した。だが、そこは私も心得ており、この調整による音質の違いはかなり離れたところで聴かない

ことにはその効果がはっきりしないことを言い、ピアニストに客席に行ってくれるよう頼みました。

彼女とマネージメントの人が言われるままに客席に着いたところで私は調整した箇所の前後のオク

ターブを強いタッチで弾き、「これが調整していないところです」と言って次に、接近を狭くし、

調整したオクターブのところを同じく強いタッチで弾いて「どうです?」と客席のピアニストに尋

ねました。するとどうでしょう、彼女は「確かに音質が変わっている。前後のオクターブとハッキ

リ違うのが解るわ。明らかに硬くなっている」と言うのです。彼女はいそいそと舞台に戻ってき、

「この全体の調整にどのくらい時間がかかります?」と尋ねるので私はしてやったり!という思い

で「40分ほどでできます」と答えると、「先にその調整をしてちょうだい。リハーサルはその後

からにします」と言って彼女はそのまますたすたと舞台裏に去っていったのでした。

この調整は全ての鍵盤に施す必要はなく、一番旋律ラインを浮かび上がらせなければならない次高

音部、高音部にやればよいので、残りの時間をそれらのパートのユニゾンを多少甘くする調律もし、

そしてピアニストに調整が終わったことを告げに行ったのです。

再びピアノを弾き出した彼女の様子は最初のときと比べて明らかな変化を遂げておりました。何も

言わずその日の演奏曲をしばらくの間、黙々と弾き続けましたが、やがて手を膝の上に置いて「だ

いぶ弾きやすくなったわ。有り難う」と言うのです。初めて彼女の口から優しい言葉をもらえたわ

けでして、こういうときこそコンサートチューナーをやっていることに喜びを感じる一瞬なのでし

た。

リハーサル後の調律にどのくらい時間が必要かと聞くので、1時間くらいあれば、と答えますと彼

女はキチッとその時間になると練習をやめましたが、驚いたことに「もう、ピアノをこのままにし

ておいてちょうだい。調律もしなくてもいいです。何も触れないで欲しい」と言うのです。プロの

ピアニストがいくつかの大曲を弾けば調律はどうしても狂ってくるのですが、彼女にとっては長時

間弾き続けてきてやっと馴染んだピアノは、たとえ少しの調律の狂いが生じていようともそれら全

体から感じ取れる感触を持続させておきたかったのでしょう。彼女が何とか満足してくれているこ

とがその声音からも察せられ、私は嬉しい気持ちで楽屋裏に去っていく彼女の姿を見送ったのです。

やがてホールの開場の時間がやってき、お客さんがパラパラと入ってくるのが舞台そでの客席を写

すモニターテレビに映ります。私の担当するホールはだいたい開場直後の人の入り方でその日の聴

衆の多寡が見当つくところでして、この日はまた異様に入りが少なく、恐らく4分の1にも満たな

いような様子でした。これでは半分も埋まったら御の字だろうな、と思いながらもいささか辛い気

持ちになりました。

最初出会ったときは、なんと生意気で傲慢な女だろう、とピアニストのことを印象づけられたもの

でしたが、その後接しているうちに以外と繊細な面(そりゃ、芸術家ですから当然ですが)を感じ

取り、物事の道理もわきまえている結構いい女性ではないか、と思いだしておりましたので、何と

なく彼女の演奏会に聴衆の入りが悪いのに気をもんでしまうのでしょうね。

 「少ないわね〜」と突如後ろで女性の声がしたのでギョッとして振り返るとピアニストが私のすぐ

背後からモニターを見上げているのです。足音もたてずに近づいて来るのですから本当にビックリさ

せられます。もうどんな色だったかも覚えておりませんがそのときの舞台衣装を身につけた彼女の姿

は本当に美しく、薄暗い所だったにもかかわらずまぶしかったのです。私は何と言って良いのか慰め

の言葉も出なかったのですが、彼女は薄ら笑いを浮かべながら「しょうがないわね」と言い、「でも

私はいい演奏するわよ」と悪戯っぽい目配せをして私にささやくのです。その時私はゾクッとするよ

うなものを感じましたね。

 本番が始まっても客席は半分ほどの入りでしたが、彼女の演奏は堂々としていて、さすがに舞台慣

れしたものであり、観客に対する舞台での態度も立派なものでした。曲の合間に舞台そでに戻ってく

るとき、カーテン裏すぐそばで拍手する私に例の悪戯っぽそうな目配せを見せたとき、私は心底この

女性に深い親愛の情を感じたものでした

 演奏会が終わって最後のアンコール曲も終えて舞台に彼女が引き下がってきたとき、やはりどこに

も熱心なファンがいるのですね、手に手に花束を持った男女が彼女を取り囲みます。それらの人たち

ににこやかに応対する彼女を遠くから眺めながら私はお別れの挨拶もできないのを残念に思いつつ

舞台を去ったのでした。

 駐車場に行き、車に乗り込むとタバコに火をつけ、しばし私は呆然と彼女のことを思います。それ

は恋に似たような感情でした。