文集

雷雨の中のビバーク
   (台高山系・池小屋山で道に迷って)
                                1989年11月3日〜4日           
 
 「いかにも奥山らしい山」「なかなか人を簡単には寄せ付けてくれない山」と池小屋山については何人かの山仲間に聞き、登山ガイドでも読んでいて、
いつかは行ってみたい山とかねがね思っていたのだが、今回の休みを利用して、どこか、大峰か台高の山に行ってみようということになったとき、
我々長田氏と平田氏とのあいだで最有力候補にあがったのが、この池小屋山で、とくに前から平田氏が三重県側の奥香肌峡のコースを登ってみたい
と言っておられたので、それで行くことに決まったのである。
 直前になって長田氏が仕事の都合で参加できなくなり、私と平田氏だけになったことはちょっと残念であったが、計画は変えずに池小屋山をめざすことにした。
 茨木市の阪急茨木駅前で平田氏と待ち合わせ、車を近畿自動車道、西名阪国道と乗り継いで奈良県を通過し、伊勢街道に入ってから高見峠を越えて
から右にまがるところを間違えてややもたついたが、無事、十二時前に宮の谷林道入り口までたどり着いた。
 車を止めてテントを張り、平田氏の奥様が用意してくださったつまみを肴にして酒を飲む。平田氏は酒はほどほどにして寝につきたかったようだが、
私が遅くまで飲み続けるものだから迷惑なことだっただろう。
後に何かの話のときに分かったのである。
 夜更かしをしたため翌朝眼がさめるのが遅くなり、これが今回の山行で時間が足らなくなる要因となった。そのかわり、遅く出発したため、我々が
車を止めていた場所が林道工事の邪魔になることが判明し、車を移動することができたのだから、工事関係者の人たちに迷惑をかけることを思えば、
結果的には朝寝坊がよかったのかも知れない。もっともこの後我々の払った代償も安く無いものになったのだが。
 台風の影響で林道は随所においてくずれており、所によっては根こそぎ道路が無くなって山腹の斜面にあがって高巻きを強いられるようなところもあった。
右手は杉、桧の斜面で左手は宮の川になっている。
 やがて奥香肌峡の案内表示板があるところに来る。ここから谷は急にせまくなっていき、深山の趣きをただよせてくる。まもなく犬飛びの景勝の地に来る。
宮の谷峡谷の左右の岩壁が幅を三メートルにせばめているところで、谷川から高さが二十メートルもあり、四つ足動物だったら一飛びで飛び越せそうな
ところから犬飛びの名がついたらしい。そこから道は左岸の垂直な岩壁につけられた鉄製の桟道(きりたった山腹や崖などに沿って棚のように張りだして
設けた道)となり、くねくねと蛇行しながら行く。幸い渓流からの高度は三メートルとあまりなく、桟道そのものは、ところどころにおいて傾いたりしているが、
そんなに緊張するところではない。
 やがて沢に降り、沢の右岸を遡行して行くと、この宮の谷随一の名瀑、高滝が見えてくる。九時五十分滝の側に着く。落差五十メートルだからかなり
大きな滝なのだが、そこそこ立派ではあるけれども今一つ心にせまってくるものが無かった。十分休憩後出発。岩伝いに左岸に移り、高巻きの道を
登っていく。じぐざぐにつけられた踏みあと程度の道だが、急斜面なので見る間に高度をあげていき、十分ほど登ってふりかえると高滝が下の方に
見えるような位置まで来ていた。樹林のまばらなところを行くため、うっかり足をすべらせて斜面を転げたらかなり下まで落ちていくのではないかと思い、
気を引き締めて慎重に登っていく。
 やがて斜面はますます急になり、山腹を斜めに横切るように登っていくところはもう道なんていえるようなものではなく、足が滑りださないように踏張る
のに全神経を集中し這いつくばるようにして登っていく。
下を見ると高滝ははるか下方で、ここを滑落したら絶対に助からないなと思い、心臓がドキドキするような恐怖感に苦しめられながら登っていき、
十時二十五分やっと樹木が密に繁っているところまで来る。
やれやれと一安心するとともに帰りもまたここを通らなければならないのかと考えると、憂欝な気持ちにもなった。
 平田氏はさほど応えていないようで、平気な表情でたまたま近くの頭上の樹木にいたルリビダケという小鳥の観察に余念がないご様子である。
何百回という登山回数を重ね、厳冬期の弥山川峡谷の登攀や大普賢から行者環岳への縦走という我々では信じられないようないような経験を
積んでいる平田氏に、こういうときにひどく実力の差というものを痛感させられる。
ルリビダケはずいぶん珍しい小鳥らしいが、平田氏のたいへんな執着ぶりははた目で見てても心を打たれるものがあり、
この人の自然への愛着は本物だなと感じる。
 この樹木の繁っているところからよれよれのテープの指示によってコースは左手の岩場のほうになることが判別するが、下りのときにここを
見過ごさないように何かもっとはっきりとした表示を平田氏は欲しがった。
テープを持ってきていないので、結局このよれよれのテープをもっと目立つところにつけかえることしかできなかったが、後でこの平田氏の嫌な
予感は的中するのである。
樹木の繁ったところから岩場を乗り越えるところも急激な斜面を左に視界に入れながら通過するのでかなり緊張を強いられ、帰りのときのことを
想像する私の心は優欝を通り越してもうかなり深刻な状況になっていた。
私のそんな心理状態が態度にあらわれるのか「怖がると体が硬直してかえって危険ですよ。」と平田氏が上から声をかけてくれるが、そうですか、
と言って怖がる気持ちをそう簡単におさえられるものでもなく、
恥ずかしさも外聞もなく、へっぴり腰の私はやっとの思いでこの岩場を乗り越えたのである。
そこからはもう危険さを感じさせるところはなく、谷の左岸の山腹の道を登って良く。やがて左手に猫滝が姿を現す。岩場が縦に裂けたような落ち口から
水流がどっと谷へ注ぎこんでいる姿はけっこう迫力があり、我々はしばしそれに見とれていると、「落ち口は女性の陰部を連想させませんか」と平田氏が
言われた。へー、平田さんでもそんな楽しいこと、いや、エッチなことを言われるのか、と驚いたが、確かにそれはよく似ていた。
 長い山腹の巻道が続いて、やっと奥ノ出合に着いたのは午前十一時四〇分であった。二つの谷が合流するところだが、水流はなだらかで川幅は広く、
河原まであってたいへん広々としたところで、この下流に、猫滝や高滝のような大きな落差を持った谷があることが嘘のように思えるたたずまいである。
 ここで十分休憩して、いよいよ池小屋山頂への直登の尾根を目指す。川を渡り、二つの谷にはさまれた尾根にとりつき登っていく。ヒメシャラとブナの
自然林に、やがて尾根がやせてくるにしたがって石楠花の樹木も姿をあらわし、根っ子のはいまわる道はいかにも深山の雰囲気を漂わせていて
いい気分である。
 しかし我々は、奥ノ出合まで来たことでもう七割方の行程をこなしたような錯覚に陥っており、実際には奥ノ出合から山頂まで五百数十メートルもある
この直登を軽くみていたのである。この高度差を認識していたら恐らく奥ノ出合で昼食をとっていたことだろう。最初のうちこそ深山の雰囲気に酔いしれて
いい気分で登っていたが、なかなか頂上に着かないのに気持ちがあせりだし、やがてじわじわと疲労が体内にしみわたっていくようになり、樹林帯を出て
山頂直下の笹の一面に茂るところにやってきたときはもうかなり疲労こんぱいしていたのである。すぐ上に頂上が見えているのにこのときの一歩一歩の
苦しかったことは実に久しぶりに感じるものがあった。
 頂上着は午後一時十五分。一面に笹が繁るところに樹木が林立し、登って来るコースの困難さとは対称的に穏やかな雰囲気を漂わせるたたずまいである。
霧が発生していて残念ながら、東側の尾根続きの最寄りのピークが時折、ガスの薄くなるごとに姿をおぼろげに現す以外展望はほとんどきかない。
 標注のところでビールで乾杯し、パンとバターとチーズに牛乳といった純欧米風の昼食をとる。
 記念写真を撮ったあと、登頂に予定よりかなり時間を食ったことから明るい内に麓に下りるためにはそうゆっくりしておれないという平田氏の意見に私も
同感ですぐ山頂をあとにすることにした。この山頂にはこの山の名前のいわれとなった池の跡があるそうだがそれを探しにいく気持ちの余裕もなければ
未練もなかった。
 午後一時四十五分山頂を出発する。奥ノ出合までは順調に下りてきたが、ここから左岸の山腹の巻道を行くようになってから常に私の脳裏から離れる
ことがなかったあの岩場とその先の何も遮るものの無い急激な大斜面の下りへの恐怖が沸々とわきおこってくるのである。あの斜面を下りなくてすむの
なら少々回り道をしようが登ったり下りたりを繰り返そうがかまわないから安全な別のルートは無いものかと思ったが、時間に余裕の無い現在の状況では
平田氏は迷わず高滝へのコースをとることだろうと観念はしていた。
 やがて猫滝を過ぎてちょっとした岩場を過ぎてから我々は黙々と山腹の道をいくのだが半時間もたったときだろうか、平田氏がどうも様子がおかしいと
言い出したのである。この山腹の巻道が長すぎる、途中、高滝へ下りる地点を通り過ぎたのではないかという訳だ。そう言えば猫滝を過ぎてからもう随分
になることに私も気づき、一度、今来た道を引き返すことにして我々は回れ右をした。ところがだいぶもどってちょっとした岩場をまた乗り越えて猫滝が見え
てきた地点で今度は戻りすぎに気づき、また今引き返した道を戻っていったのであるが、依然として分岐点が判別せず、精神的なあせりも影響するのか
急に疲労感を感じだし、しばしの休憩を平田氏に頼んで樹林のなかの山腹の道でしゃがみこんだ。
 分岐点はまだこの先のほうなのか、それともまたもや通り過ぎてしまったのか平田氏と論議したのだが、そのとき三度にわたって通過したちょっとした
岩場のことを思いだし、もしかしたらあの岩場が高滝そばの大斜面を登ってきてルリビダケを見つけたあのよれよれのテープの標識のすぐそばの岩場で
はないかと考えたのである。登って来るときはその岩場はすごく恐怖を感じたのだが、下山中に通過したときはそれほど緊張しなかったので同じ岩場とは
気づかなかったのではないかと思い、そのことを平田氏に話すと彼も同意したが、絶対にそこに間違い無いという確信は我々には無かった。
平田氏は今一度その岩場まで行ってみようかと提案されたが、ただでさえ疲労しているところにもってきてあの恐怖の斜面のことを思うとまったく私の気分は
進まず、その躊躇している私を見て、平田氏もそれ以上あえて行こうとは言われなかった。
 もうすでに時刻は四時半で、あと三十分もしないうちに日はくれてしまうであろう。ここで仮にその岩場が分岐点であって高滝そばの谷に降りるルートが
分かったとしても、谷底に降りきるうちに真っ暗になってしまう可能性が高く、登るときでもあんなに緊張した急坂を薄暗いなかに降りていくのは危険きわまり
ないと思った。もうタイムリミットは過ぎてしまったのである。我々は重苦しい気持ちでこの山腹でのビバークを決めざるを得なかった。
ビバークするのなら飲み水も必要だし、この山腹の巻道を右往左往しているときに途中で見つけたわき水のある岩場のところにしようということに決まり、
そこの水場まで引き返すことにした。
 こういった不測の野営を強いられるような事態は今までにもあったことだが、今回のがいつもと大きく異なって気分が重くなるのは、我々がビバークのための
装備をまったくしてきていないことで、テントはおろか、
シュラーフも余分な食糧も持っておらず、この季節に高度八百メートルの山中でテント無しでの野営はかなり厳しいものになることが予想できたからである。
 幸い私は緊急時に備えて、常時、シュラーフカバーをザックの底に入れており、これで多少は寒さもしのげると思ってたのだが、驚いたことに平田氏はシュ
ラーフカバーどころか、カッパも持ってきていないことが判明し、これにはのんき者の私も唖然としてしまった。寒さをしのげないことはまだしも、雨が降りだして
体を濡らし、そこに寒風にでも吹かれようものなら重大な事態になりかねないのである。はっきり言って、登山家が山へ行くのに雨具を忘れるとは重大な過失
であり、私なんか比べものにならないくらいの大ベテランの彼でもこんなことがあるのだろうかと驚くばかりである。

 湧き水がある岩場のところに戻り、ここをビバーク地とする。水場があることよりもここ以外のところでは山腹の傾斜のために安心して横になれるところが無く、
この岩場のくぼみのところに深々と腰掛けるようにしておれば、睡眠中に斜面を転げ落ちることもあるまいと思ったからである。
 我々はセーターを着込み、それぞれのザックの中身を点検したが、食糧は昼食の残りのキャラメル大のバター一個と煮込んだ大豆の真空パックだけで
他には腹の足しになりそうなものは何もなかった。
 そうしているうちに見る間に暗くなってきたので、ウエストバッグからヘッドランプを取り出し、一本だけ残っていた蝋燭に火をともして岩の上にたてて我々
二人は狭い岩場のくぼみに体を寄せあって、あたかもアブシンベル神殿のラムセス二世夫婦像のように腰掛けたのである。時間は五時半。明日の夜明け
まで十二時間も待つのだ。乏しい食事を今するかどうかを聞くと平田さんは、今食べてしまったら、長い夜をやりすごすのに楽しみにするものが何も無くなって
しまうので夜更けまで取っておくとのことで、私もそれに同調した。
 平田さんは私のカッパを着込み、私はシュラーフカバーに体をもぐらせていたが、真っ暗になっても思ったほど寒くはならなかった。「お酒もタバコも無い、
まったくの禁欲の一夜になりましたね」と、最近タバコを止めたばかりの平田氏に話しかけると、アルコール抜きで夜を越すのは何年振りだろうか、と言っておられた。
物質文明にどっぷりとつかった我々現代人にとってたまにはこんな経験もいいものですよ、とお互い強がりを言って慰めあったものだが、せめて酒くらいあった
ならな、との思いからは抜け出せない。こんなときにこそアルプス縦走に持って行ったあのアルコール度九〇度のウオッカは威力を発揮するのにな、と思う。
ふんだんにある水で三分の一に薄めてもウイスキーなみの強さを保持できるのだから一合ほどもあればずいぶん飲みがいがある。まあ、こんな口いやしいこと
ばかり考えているうちに腹も減ってき、夜更けまで待つ気になれなくなってまだ七時前だったがもう僅かな食糧をかたづけることに決めたのである。まずキャラメル
大のバターをナイフで均等に切り分け、口の中に入れ、舌の上で感触を楽しみながら味わう。やはり脂肪分はたいしたもので、大きさ以上の量感を感じさせる。
煮込んだ大豆は代わる代わる真空パックを手にもって豆二粒づつ口にする。この大豆の真空パックは本当に有難かった。こうして満腹というにはほど遠いが、
一応ひもじさから解放されて我々は夕食を終えたのである。
樹林の中は真っ暗だが、上の方で何か光るものが見え、平田氏が何だろうと言いながらしばらく凝視していて「お月さんだ!」と嬉しそうに叫ばれた。
樹木の葉っぱ越しに光が洩れてくるので最初は得体が知れなかったのである。月が出るということは雨の心配が少なくなるという好ましい兆候だ。
 いつもは寡黙な平田氏が今夜はよく話しをされ、彼の経験してきたいろいろな興味深い山行の話しをしてくれた。
 奥様と一緒に大台が原・東の川を遡行したおり、コースを間違えて龍口尾根に登るはめになり、奥様を残して先に崖を登っていって、上からザイルで確保して
奥様を引き上げようと下を見ると、なんと奥様は崖のコースをちょっと外れたところに登ってしまい、そこで立ち往生していたのである。一人残されて心細くなって
あとを追ってきて方向を誤ったらしい。
 奥様の立っている場所は上が行き止まりになってそれ以上登れず、かと言ってそこから下りることもかなりの危険を伴い、奥様はもう泣きださんばかりの状況
だったそうで、唖然とした平田氏がしばしば熟考した末選んだ救出方は、ザイルをなんとかして奥様のところまで投げ、奥様の体を縛って平田氏の両腕と全身の
ふんばりで宙吊って一気にこちらの立場の下までもって来るという何とまあ荒っぽいやり方なのである。そして彼は本当にそれを実行したのだから驚きである。
よくも人間一人分の重さを宙吊りで振り回すことができたもので、「それで手や体は何ともなかったのですか?」と尋ねると、「両手の手の平が内出血で真っ黒に
なり、しばらく治らなかったです。」と平田氏特有ののんびりとした調子で言われるから呆れてしまう。まさに火事場の馬鹿力だ。
 平田氏はまだまだいろいろ話を聞かせてくれそうな雰囲気だったが、しかし夜が更けて深夜ともなれば当然気温はぐんぐん下がっていくに違いなく、そのときに
は寒さでとても眠れなくなるだろうと思い、今のまだ暖かい気温のうちにできるだけ眠るようにしておこうと思って、私は体をこの岩場の空間の許すかぎりの安楽な
姿勢になって目を閉じた。
 日中の山歩きの疲れのせいか、すぐにうとうとしてしまったが、横たわることができないため熟睡はできず、ときおりおぼろげに目が覚める。九時頃にはっきりと
目が覚めたとき、蝋燭の灯はとっくに消えており、あたりは真の闇につつまれていた。平田氏はずっと起きておられたようで、「月が隠れたようです。」と言われ、
私の寝ている間にときおり動物が近づく気配を感じたことも話された。
 そうしているうちにポツリ、ポツリと雨が降りだしてきた。とうとう一番恐れていた事態になったのである。「最悪ですね。」と言いながら平田氏はカッパのフードで
頭をおおい、私は、腰かけていたところからちょっと横のわずかな平坦な地面のところに移動して、シュラーフカバーに全身をもぐり込ませて横になった。
これで私は一応は雨に濡れるのは避けられるが、平田氏は顔のところから雨が侵入してくるので、うつむいたままの姿勢で腰かけていなければならずお気の毒であった。
 雨はやがて本降りとなり、嫌なことに稲光したと思ったらゴロゴロと雷まで鳴りだし、土砂降りとなったのである。同時に平田氏のわめくような声が聞こえ、
登山靴が石ころを踏んでいくような物音がした。
雨足のひどさにどこか別の場所に移動して行かれたらしい。私の方は、もう最悪、と思いながらもじっと横になったままでいるしかなかった。
 しかし驚くべきことに、こんな最悪の状況のなかでも人間は眠れるらしく、私はいつのまにかにうとうとしてしまっていたようで、突然、息苦しさに眼が覚めてその
ことに気がついたのである。雨が侵入してくるのを防ぐためにカバーの入口を完全に閉めてしまったため酸素不足になったらしく、急いで入口の紐をゆるめ、口と鼻を
出して、ハーハーと何度も呼吸したが、しばらく息苦しさから逃れられなかった。これはまずいと思い、それからは入口を小さく開けて口と鼻だけ外気に接するようにして、
下向き加減で寝るようにした。
 そのとき気がついたのだが、いつのまにかに衣服が湿っているので、ヘッドライトをつけて点検したらカバーの内側に水滴がいっぱい付着しており、最初はこの
カバーを雨水が浸透してきたのかと唖然としたが、どうやら私自身の吐く息がカバーの表面で結露し、それが衣服を湿らせているらしいことに思い当たり、ホッとした。
ズボンも登山シャツもセーターも皆ウール生地なので少々湿っても保温には問題無かった。
登山着は、木綿ではなく、純毛製品の着用を厳しく言われるのはこういう時のためなのである。
 雷雨は間断性があり、だいたい十五分から三十分ほどの間隔で遠ざかったり近づいたりしているようで、雷鳴が近づくと雨足は強くなり、遠ざかると雨足は弱くなっていった。
雨足が強いとカバーごしに打ちつける雨が頬にあたって痛く、雷鳴も、町中で聞いてもあまりいい気持ちはしないのに、こんな山中ではまっぴらご免であり、一時も
早いご退散を願っているのだが、何度ももどってくるのである。まるで台高山系の山々を雷様が巡回しているかのように思えた。一晩中続いていたような気がしたが、
平田氏の話では全部で八回到来したとのことであった。途中、石がガラガラと崩れていくような音がし、肝を冷やしたが、この様では身動きもできないのでじっとしていた。
 その後も何度も寝ているようで夢まで見たのである。それは私と平田氏が阪急デパートの地下の食料品売場にいる夢で、「なんだ、こんな所にいくらでも食糧が
あるではないか、これを買おう、買おう」とお互いに喜び合う、と言った切実なもので、我々の空腹状態がそんな夢を見させたのだろう。
でもあんな言語道断の状況下でよくそんな食い意地のはった夢を見るものではある。
 結局、何だかんだと言いながらも結構寝ていたようで、翌朝は平田氏の声で目を覚ましたのである。寒さと窮屈な姿勢で寝ていたせいか、体が硬直していてしばらく
は起きあがれず、やっとの思いで立ち上がっても体がよろめきそうでしばらくの間は動くことができなかった。こんな山の中の地面に袋に入って横たわっている私の姿は、
まるで骸のように思えたのではないだろうか。
平田氏は昨夜、雨がひどくなったとき岩場の上の方の大木の下に行ってその根本に腰かけて夜を明かしたそうである。
 雨は止んではいなかったが小降りで樹林の中でもあるので、そう濡れないなかで出発の準備をすることができた。平田氏が夜通し着ていたカッパを私が譲り受け、
シュラーフカバーに二ヶ所ナイフで穴を開け、そこから手を出してもらうことにして平田氏のカッパ代わりとした。
 昨夜の大雨で谷は増水していると思われるので、我々はこの巻道を尾根沿いに降りていくことにして午前六時半出発した。道はおおむね途切れずに続いたが、
尾根に出た所で一ヶ所、喬木のなぎ倒されているところで道の進路が不明になっていてここで随分迷ったが、結局、踏み跡が判別せぬまま左側の斜面に進路をとり、
これが正解だったようでしばらく斜面を斜めに降りていくと踏み跡に出くわし、その踏み跡を忠実に行くとやがて植林帯となり、急斜面ではあるけれども安全なジグザグ道を
降りに降りてついに犬飛びの地に降り立ったのである。
 そこからは奥香肌狭散策コースの整備された道を通って、十時半、車の所にたどりついた。しかし我々はまだそこで安心することはできなかった。昨日の大雨は
我々が車で通ってきた頼りない林道を相当痛めつけているのではないかという不安な思いを下山中からずっと抱き続けていたからである。この間の台風二十二号で
被害を受けた林道の補修工事が随所で行われていることと、雨が降ったらひどいぬかるみになるのではないかと思われる箇所があることも知っているので、もし車が
通過できなかったらどうしようという思いが我々の気持ちを楽にさせないのである。雨具類を脱ぐとろくすっぽ休憩もせず、すぐに車を発進させた。
 しかし有り難いことに林道は無事で、ぬかるみも車輪がスリップするほどひどくなく、我々はさしたる難儀もせず、十数分後には国道につながる橋を渡り、舗装された
国道の橋そばに車を止め、やっと一安心の境地になったのである。「いや、ご同慶、ご同慶」と我々は祝福しあい、そこで初めて車中に残しておいたパンや菓子類を
ぱくついた。昨日の貧弱な夕食以来、水以外何も口にしていなかったのだからおいしいことはこの上もない。車の暖房も暖かく、外ではまた雨が本降りになっていただけに
この文明の利器の有り難さをひとしお感じたものである。そして車を走らせて町中に入り、喫茶店を見つけてそこでホットコーヒを飲んだときは、喫茶店のコーヒーがこんな
にも人の心をほのぼのと慰めてくれるものかと感じ入ったものである。「本当に娑婆の世界に生還したという感じですね」と平田氏と言い合った。
 その後、平田氏と大峯や台高の山に登った折りに池木屋山を見るときは、しばらくの間、あれが恐怖の池木屋山ですね、と枕言葉がつけられて語り合ったものである。

(新宮山彦ぐるーぷ関西支部 森脇 久雄)