10/2 2001掲載

耶馬渓訪問記「浦野君の示したM・リエさんへの思いやり」  森脇久雄

このレポートは私の親友M・リエさんのためにわざわざ耶馬渓まで行ってくれた浦野
君の雲八幡神社の訪問記を解説を加えながら紹介したものです。

まず、ことの起こりは、私がよいよい会HPに掲載した『蛍見の宴』(6/29)の熊野本
宮大社における下記の記事に浦野君は興味をそそられたことからでした。

「本殿には左右4つの社があり、リエさんは一つ一つの社に4分ほどの時間をかけて
祈念し続けるのです。3つ目から私は時計を見ながら時間を計ったのですが、二つと
もきっちり4分でした。多分、いずれの社に対しても同じ祈願を捧げていたのでしょ
う。彼女は生まれも育ちも横浜なのですが、一度も行ったことのない父祖の地、九州
の‘筑紫耶馬渓’近くの村に一人で訪ねていき、父祖たちが氏子であったその村の神
社で祖先供養をしたことがあるというほどの神社に強い思い入れを持った女性なので
す。その思いがひしひしとつわたってくるような祈念姿でした。」

浦野君は私に下記のようなメールを下さいました。

「その村の神社、名前を教えてもらえば、デジカメて来ますよ。近くをよく通ります
から。」

早速、この浦野君の申し出をリエさんに伝えたところ、

「大分県は‘耶馬渓’の、父方の先祖が氏子である神社は「雲八幡」といいます。古
く小さな神社ですが、東京の明治神宮に長くお勤めされた宮司さんが、しっかりと守
っておられます。私は二度訪れて先祖供養をお願いしたのですが、その儀式にいつも
深い感動を覚えます。宮司さんを通して先祖とつながったという実感があるのです。
前回は宮司さんが偶然旅先の海で見つけたという、石笛を披露していただき、その音
色に驚嘆しました。丸い石に穴があいているだけなのに、多様な音色を醸し出すので
す。お友達の方のお申し出、とても嬉しいですが、わざわざ寄っていただくのは申し
訳ない気がします。たまたま通り道で、時間にも余裕があって・・・なんていうこと
でしたらお願いしたいです。」

という返事があり、彼女の了解を得てこのメールをそのまま浦野君に転送いたしまし
た。
すると、彼は、

「すぐには行けません。貴君は、福岡に何年居られたのですか?直ぐに行けない理由
は、貴方の文章が間違っていたからです。」

そうなんです。私は18才の年まで福岡に住んでおりながら、筑紫耶馬渓と大分県の
耶馬渓が別物とは全然知らなかったのです。
私はリエさんに平謝りのメールを出したところ、下記のようなメールをもらいました。

「耶馬渓の神社のデジカメ写真の件、無理矢理仕事を作って耶馬渓に行ったりしない
よう、律儀なお友達に仰有って下さい。近々必要というものではないし、私は心の中
にあの神社をしっかり描くことが出来るのです。もし、忘れた頃にデジカメ写真が届
いたら、それはとても嬉しいけれど、わざわざ行っていただくのは、困ります。おね
がいします」

それでこの話しはいつか浦野君に行く機会があればということで立ち消えとなるはず
でした。
ところが、それから2週間も経たない7月15日の画像伝言板に「耶馬渓方面」と記
された道路標識を写した画像が掲載されました。あっ、浦野君、行ってくれたのだな!
と私は思いました。
そしてその直後、下記のようなメールが彼から届いたのです。

「いよいよ梅雨明け目前の今日(7月15日)、下記のコースで大分の耶馬渓方面を12
時間かけて探検してきました。昼過ぎまでは、絶好の夏日和、午後三時過ぎからは、
突然の雨模様。只今、編集中ですが、通過時間と地名だけを先にレポートしておきま
す。

●自宅(福岡市早良区室見)9:00 発
6:00出発予定でしたが、寝坊してしまいました。
(都市高速→九州自動車道→大分自動車道)
●小郡インター9:45 通過
●日田インターから10:10に国道へ降りる。
●雲八幡10:40 着 13:00 発
蘿漢寺→青の洞門→深耶馬渓(一目八景)

景勝「一目八景」を背にした山移川沿いにある『レストランろくめいかん』で、そば
を食べました。ゴーヤーや山菜の漬物をサービス(付き出し?)で食べさせてもらい
ました。せせらぎが濁流に変わってしまう生憎の雨でしたが、そのぶん、お店にはお
客様が居らず、ゆっくり出来ました。

●耶馬渓中学校16:30 通過
●日田市街17:10 通過
宝珠山(棚田と味噌・醤油のカネダイさん)→朝倉三連水車→味仙(台湾ラーメン)
●自宅20:40 到着

あー疲れた!!

でも、すごい発見と写真がいっぱい。。。。只今、編集中です。
リエ(いのくら)さんに、楽しみに待っててくれるようお伝え下さい。秋永勝彦宮司
は、凄い人物でした。」

私はすぐさま本屋に行って九州ロードマップを買ってき、耶馬渓の位置を調べたとこ
ろ、耶馬渓が福岡からずいぶん遠いところにあることを知りました。
寝屋川から熊野の本宮町までの距離と一緒でした。
乗りかかった舟だからとばかり、わざわざ耶馬渓までご夫婦で行って下さるとは、私
は本当に感激し、浦野君ご夫妻に心から感謝したものでした。
ただ、彼のメールに記されているリエさんの名前のすぐ後ろに(イノクラ)と記され
ているのが私には謎でした。
彼の了解を得て、このメールをリエさんに転送し、イノクラとは何のことですかと尋
ねたところ、すぐさま彼女からメールが来ました。

「わー!
お友達の浦野さん、耶馬渓に行ってくださったのですか?
で、レポートもしてくださるのですか?
嬉しいです。楽しみです。本当に律儀な方なのですね。(森脇注:彼女がしきりに律儀
という言葉を使うのは、私が浦野君のことを律儀の塊みたいな男だ、と言ったためで
す)
また、あらためてお礼のメールを送りたいと思います。
イノクラというのは私の旧姓です。
Mは、結婚した旦那の姓で、私は離婚時に名前を戻さない選択をしたのです」

そして浦野君は耶馬渓紀行レポートを完成させてくれたのです。
本文
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『人が河を遡(さかのぼ)る時』         

綺麗な川面を眺めながら、淀んだドブ川を憂いながら、汽水に棲む魚を気遣いながら、
人は何時かその源流を辿ってみたくなるのでしょうか。

世話好きの山伏の法螺貝の音に促されて、梅雨明け間近の日田路を、腰痛の家内を無
理矢理誘って(温泉にでも入りに行こうかと騙して)、行ってきました。

そこには、予想通りの、天の配剤が用意されておりました。
早朝に出発する予定でしたが、朝寝坊をしてしまい、3時間程の遅れを少しでも取り
戻す為、高速道路を利用することになったのです。恐らくその偶然の遅れが、訪ぬべ
き人に会わせてくれたのでしょう。何と目的地まで、1時間半で着いてしまったので
すよ。
探しあぐねるであろうと思っていたその神社は、耶馬溪町に入る直前に、忽然と眼前
に現われたのです。
大杉や拝殿などを一回りしましたが、人の気配が有りません。ちょっと裏寂れた感じ
を持たせる境内の雰囲気は、凛としてそそり立つ太古の大木のせいでしょうか。

写真だけ撮って、青の洞門などの観光地へ向かおうとした時「ちょっと!ギャラリー
雲の森で何かありようてよ。」と家内が気付いてくれたのです。

お社の右手にその展示館はありました。
「ごめんください・・・」
暖簾の奥から、中年の女性が現われました。
部屋には、衣装やら楽器が飾ってありましたが、下調べなしの泥縄リサーチですから、
その出品の必然性など分かるはずがありません。
「実は、私の友人の知り合いが、このお宮さんの写真を・・・・」と切り出した私を
その女性は「まあ、まあ、どうぞ。お坐りになって下さい。」と館内に通してくれたの
です。

M・リエさんのことは、奥さんは余りご存知ないようでした。
そこで、聞き出し上手と自負する紫陽花・コナンは得意のインタビューを開始したの
です。そして、こんなことが判ったのです。

先代の宮司(お父様)の健康状態が勝れなくなったため、家督を継ぐべく、10年前
急遽帰郷されたのだそうです。現在58歳であられますので、その時はバリバリの4
8歳。
明治神宮の権宮司という高位を投げ捨てての里帰りだったのですから、さぞや残念な
思いだったと推測出来ます。
権禰宜、禰宜、権宮司、宮司。つまり宮司が社長だとすれば、副社長のポストだった
わけです。あの有名な神社のナンバー2といえば、かなりの重要な立場ですよね。

幸か不幸か、雲八幡宮に戻った3年目の12月28日の夜、年末の宴の火の不始末で
お母屋が全焼。火はあっという間に屋根裏を走り、朽ちるように、しゃがみ込むよう
に崩れ落ちてしまった藁葺きトタン屋根の下で、先祖伝来の貴重な遺物が総て焼失し
てしまったのです。

「ゼロから出発しなさいということですよ、とお互い励ましあって、頑張って来まし
た。」終始笑顔だった奥さんが、一瞬キリリとした真顔でその時の心境を話された時に
は、私の胸もキュンとなってしまいました。

これは、あくまでも私の想像ですが、引きずって居られた明治神宮時代の奢りや誇り
を、その火事が払拭してくれたのではないでしょうか。
きっと、その後は村の鎮守役として、積極的に村人達に近づいていかれたのではない
かと思います。

余談ですが、津川雅彦さんとは、昔からの友人で、この展示館のオープンセレモニー
にも来られたそうです。
奥さんは、飯塚出身。お父様は一代限りの表具屋さんだったそうで、このお宮の障子
や襖などの建具は、その御弟子さん達の加勢の賜物。

ギャラリーの展示品を見てみると・・・・
宇佐八幡と春日神社からお借りになった舞装束が展示されています。雅楽器も高価な
物が陳列されております。これらを見ただけで秋永(勝彦)宮司の強力な人脈が窺い
知れます。

青の洞門や羅漢寺だけを見て、そそくさと帰ってしまう観光客を何とか引き止めて、
この土地の別の魅力を語りかける努力が始まっています。勿論一目八景の食堂のおや
じさんも秋永宮司のことは、よくご存知でした。なにしろ、こんな田舎に観世流宗家
の薪能を誘致されたのですから。
村おこしの旗頭として認めざるを得ませんよね。

宮司さんの東儀秀樹のCDに合わせて奏でられる龍笛を聞き終わって、御暇乞いをす
る時には2時間以上の時が流れていました。

その演奏の前に、宮司さんはこう聴かれました
「今日の目的は、耶馬溪の観光ですか?」
「いいえ。最初に奥様にはお話しましたが、この神社を訪ねて、お話を聞き、佇まい
をカメラに納めて知人に送ってあげたいのです。」

宮司は、つかつかと楽器の方に行かれて、龍笛という横笛を取り上げ、なんと我々の
前で吹き始めて下さったのです。
まさに、情けは人の為ならず。御蔭で、千年以上もの間、粛々と受け継がれてきた一
子相伝という別世界の調べを聴きながら、高貴な一日を過ごすことが出来ました。

まだまだ、書きたいことは沢山有るのですが、モリワ奇病に罹らぬうちに筆を置きま
しょう。

最後に宮司が言われました。
「確かにM・リエさんという女性が、自分のルーツを探りに来られました。旧姓をイ
ノクラと申され、ここのそばで、当家とも多少のご縁が有るやも知れません。宜しく
お伝え下さい。」
「ところで、かっぱ祭りには、来られますか?」
「多いでしょう?」
「そうでもないですよ。」
お招きを頂いたように思えたのは、勘違いだろうか。

車で帰ろうとした時、宮装束に着替えられた奥さんが見送りに出て来られたので、カ
メラを向けると、恥ずかしそうに、両手で顔を隠された。今から、結婚式の祝詞を挙
げに行かれるそうな。

「また来ま?す。」と、心で挨拶を交わし、アクセルを踏んだ。

※浦野君が写してこられた雲八幡神社関連の画像は下記のURLで見られます。
<http://www.njs.ne.jp/~hopetour/kumo-hachiman-4.htm>

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リエさんのパソコンは性能が非常に悪く、画像を開くことができませんので、本文の
内容をコピーして彼女に送りました。
それに対する返事が下記のものです。

「お返事が遅くなってしまって、本当に、ほんとうに、ごめんなさい。
以下の内容は、森脇さん、浦野さんに宛てて書かせていただきました。
森脇さん、お手数ですが、浦野さんに転送をお願い出来ますか?

「耶馬渓雲八幡紀行」読ませていただきました。
私が、森脇さんに何気なくお話ししたことが、雲八幡に誰かを訪れさせることになる
と想像できたでしょうか?
森脇さんの架け橋役と、お友達の浦野さんの律儀さ故に起こったことではありますが、
不思議な感じがしてなりません。
そして、お二方を通して、私がまた雲八幡と繋がることができて、とても嬉しい。
浦野さんのレポートを読んで、初めて耶馬渓を訪れたときのことを思い出しました。
何代か前の先祖が住んでいたという本籍地の住所を頼りに、大阪からフェリーで別府
へ向かい、レンタカーを借りて耶馬渓を目指しました。7年前の大晦日のことです。
神道の家系なので、神社に行ったら何か分かるかもしれないと飛び込んだのが雲八幡
でした。翌日の初詣の準備が施されたお社に手を合わせ、社務所に向かいました。浦
野さんと同じように、奥様が迎えてくださったと思います。来訪の意図を告げると、
自宅におられた秋永宮司を呼んでくだいました。
「イノクラ」ことはすぐに分かりました。現在は仏教に変わってしまったようですが、
イノクラ家は雲八幡の氏子で、神社から車で5分ほどの所にイノクラ姓の家が何件か
あり、その近くにお墓もあるとのことでした。
さらに、秋永宮司の親戚の中に、養子として入ったイノクラ姓の人物がいることも分
かったのです。
「先祖のお墓にたどり着くまで、どのくらいの時間がかかるのだろう??」と思って
いた私にとっては驚きであり、同時に先祖の導きを得たような思いでした。

秋永宮司は、大晦日のお忙しい日にもかかわらず、いろいろな話をしてくださいまし
た。
浦野さんが聞かれた、帰郷の経緯、火事のこと、神社再興への意気込み・・・。
先祖供養のご祈祷をお願いすると、「では、準備をして参ります」と10分ほど席を立
たれ、身支度を整えた後、拝殿に案内してくださいました。
身の縮むような冷たい水で手と口を清め、手渡された1枚の和紙で滴を拭ってから、
着席しました。吹きさらしの拝殿は寒さが身にしみた。
そして、太鼓の音。力強く打ちならされたドーンという音と共に、寒さや雑念が消え
ました。
お払い、祝詞、そして、宮司が読み上げる巻紙には、一体いつの間に書いたのだろう?
と思う程、長く、丁寧に私の来訪の理由がしたためられていました。
そしてまた、祝詞、笛、太鼓、払い・・・。
この時のことを、うまく言葉にする自信がありません。
かつて体験したご祈祷とは比べものにならない、神聖で厳粛なものでした。
先祖と繋がった実感と、秋永宮司への感謝で、涙がこぼれました。
この後、遠縁であるだろうイノクラの家を訪ね、1日早いお雑煮をご馳走になり、翌
日、墓参りをしました。

長くなってしまいましたね。なんだか遠のいていた記憶が一気に蘇って、ついつい書
いてしまいました。
2度目の来訪は去年の12月。秋永宮司は覚えていてくださいました。
嬉しかった。この時も先祖供養をお願いしたのですが、7年前と変わらない、心に響
くものでした。

浦野さん、そして腰痛を押して同行してくださった奥様、ほんとうにありがとうござ
いました。
浦野さんのレポートで、私はまた雲八幡を訪れることが出来ました。
そして、いつも私をどこかや、誰かや、何かに繋げてくださる森脇さん、ありがとう
ございました。
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以上です。
皆さんのご感想は如何でしょうか。
浦野君とは高校時代、全然面識はありませんでした。それがよいよい会HPで知り合
って親しくなり、主にDMでやりとりすることで友情を深めました。
一方、M・リエさんはアルバトロス・クラブで知り合ったのですが、個人的に親しく
なって宝塚歌劇観劇や大峯奥駈などを一緒するようになりました。
それらのレポートをHPに掲載することによって浦野君の目に留まり、そしてこのよ
うな展開となって浦野君とリエさんの間に新しい友情が芽生える、この素晴らしさを
皆さんにお伝えしたく、お二人の了解を得てここに掲載させてもらいました。             
森脇久雄