ポエジーの世界に漂った正月帰郷(2001年1月5日)

 

福岡の休日のことをやっと書きあげました。

長文ですが皆さん、読んでやって下さい。

 

それはもう夢のように楽しかったなあ。

特に5日のなべ吉での旧友、新友との宴会は今年の正月帰省歓喜のクライマックスで

した。

酒好きで社交好きの私は今までに数え切れないほどの宴を経験してきておりますが、

5日のは間違いなくベストスリーに入るもので(ある意味ではベストワンかも)、私が

遠い将来この世を去るとき(案外目前だったりして)には私の脳裏にこの日のことは

きっと到来することでしょう。

よいよい会HP無くしては有り得なかった私の幸運でした。

まずは、妹尾編集長、そしてそれを支え続けてきてくれた吉田興平君に篤くお礼を申

し上げます。

 

集った8人のうち、妹尾君を除けば初対面に近い間柄の者が入り交じっていたのに、

一瞬にして何十年来の知己のように笑い合い、茶化し合い、一瞬ではあるけれどしん

みりし、会話が途切れることなく4時間も続いたということは、単なる同窓会の間柄

だけでなく、よいよい会HPで何度も会話を重ね、画像でお互いの風貌を見、近況の

様子などをやりとりしていたからこそ可能だったと、インターネットの威力をあらた

めて思い知らされました。

 

それと、集まってくれた皆さんの資質の高さが、酒席の会話が単なる飲んべえたちの

戯言で終わらずに、何とも言えぬユーモアと温もりを持った充実したものにさせたの

だろうと思います。

何しろ、みんなが代わる代わる語る話がどれ一つ退屈するものが無く、しかもそれら

に誰かが揶揄やこき下ろし、まつわる別のエピソードを持ち出すのですから、興味津々、

唖然、呆然、爆笑の状況が最後まで継続したのです。

それは、あたかも次々と出される料理に(話題に)その都度、カラシやコショウ、ソ

ース等の香辛料(こき下ろしや揶揄、エピソードの付加)が加えられて妙なる味とな

る、と言ったようなまさに極上の美食を味わうようなものでした。

しかもそれらの香辛料には毒が無く(さかなになった人間への愛情がある)、実に刺激

的でありながら口当たりがよく、後味のさわやかなものであったのです。

如何に充実したものであったかがお解りでしょう。

まさに良い酔い会の宴でした。

しかし、あの夜は話題の主になった多くのよいよい会メンバーがくしゃみをしきりに

したことと思われます。

 

柴田由紀子さん

貴女ほど、写真より実物の方がはるかに魅力的な人はいないでしょう。

コートを着たまま入口に姿を現されたとき、オッ、有名人到来とばかり場を色めきた

たせたものでしたが、廊下に立つたたずまいはまるで伯爵夫人という貫禄と雰囲気で

したね。

しかも貴女の語り口と身振り手振り、万華鏡のように変わる目の表情の動き等のパフ

ォーマンスのなんと生き生きとしていたことでしょうか。

これまた語り口の巧みな妹尾君との丁々発止のやりとりは見ていて魅了されるものが

ありました。

声としゃべり方が私の姪にそっくりでして、後で気が付いたのですが、その姪の名も

由紀子なのです。由紀子と名付けるとこのようなキャラになるのかな、と思いました

よ。

貴女があおるからこそあれほどみんなの話は盛り上がったのだと確信しております。

まさに貴女はよいよい会のマドンナと呼ばわれるにふさわしい方です。

真庭さんに約束したことは反古とします。

(誰やー! 人の名を騙るのは! みんなに聞いたとよー)

 

松本一喜君(見てくれているよね?)

3日に天神の風月でビールとコーヒーでねばって3時間も喋ったのに、また来てくれ

て本当に嬉しかった。

貴兄も後から「楽しかった。行って本当に良かった」と言ってくれましたね。

結構辛い人生を送ってきた貴兄のあのこぼれるような笑みを見て私は心が和みました。

集まった我らが共通の親愛なる友・某女性の近況報告の話を貴兄がしたときに起きた

センセーションの凄かったこと!

柴田さんは市山陽さんに「あんたも出てこんね!」と携帯電話をかけるわ、少々のこと

ではものに動じない妹尾君までが興奮して「おい、みんなでツアー組んで見にいかん

や?」と叫びだすわ、まあ、蜂の巣を突っついたような騒ぎでした。

一方通行の標識に支えられて、の話には爆笑しましたよ。(部外者には意味不明だろう

な)

こうなったら、貴兄からストップをかけられた「松本一喜君のこと」の続きをいずれ

書くよ。

もうよいよい会の雰囲気に溶け込んだのだからいいじゃないの。私は何事でも途中で

止めるのは嫌なのであります。そのかわり、次回を最終回とすることを約束するから。

 

長君(今日電話したらよいよい会HPはどこかで見ると言ってたね)

8割がた諦めていたので貴兄が来てくれたこと、嬉しい誤算でした。

昔から時間にルーズと言って本当に申し訳なかった。15年前から約束の5分前には

必ずその場所に行く習慣を身につけているということを私は知らなかったのです。

しかし昔の貴兄のタイム感覚の鷹揚さはひどかったちゃけん。いいコンビだった山城

君もしょっちゅう憤慨しとった。(彼は時間にはうるさかったけんね)

よう、あれで宝石商なんてやっておれるね、とみんな不思議がっとった。中には、い

や、商売の世界ではキチッと時間を守り、友人の間柄でのみズボラなんとちゃう、な

んて言う輩もおり、それならなおさら怪しからん、と言う者もいたとよ。

でも、貴兄には本当に長い年月いろいろお世話になりました。浜松で修業生活をして

いたころ、たまに上京するときはいつも本郷の貴兄の別宅がみんなの溜まり場だった。

貴兄夫妻や山城君や武末昌秀君らがダイニングキッチンの馬鹿でかいテーブル(あの

豪華な一枚板のテーブルはどうなったと?)を囲んで呑んだり、当時出始めたばかり

の簡易カラオケ機で歌ったり(奥さんが嬉しそうに歌っていたのを今でも思い出す)、

気質も水もまったく合わなかった浜松の辛い生活で荒みそうになる私をいつも癒して

くれた場でした。

昨年秋、仕事からの帰路の途中、JR京橋駅から京阪京橋駅に急いでいるとき、「青春

時代は〜夢なんて〜」のあの歌が流れているのを耳にしたとき、三十数年前に長君宅

でみんなで一緒に歌ったことが思い出され、胸の内側から何とも言えぬ懐かしさ、や

るせなさがこみ上げてきました。あの歌(タイトルを知らない)は今でも生き残って

いるのですね。

とにかく貴兄ご夫妻には深く感謝しております。

 

武藤和尚さん

思いもかけない人の登場で本当に感激しました。

「娘のことであんなに長文のメールを書いてくれたけん、行かんわけにはいかなかっ

た」と仰るその義理堅さに感銘を受けるとともに、かの有名なよいよい会唯一の僧侶

と初めて個人的にお話しできて感激しました。

初対面である我が幼なじみの一喜君にもすぐさま声をかけてくれましたね。嬉しかっ

たっちゃん。さすが、プロの宗教人。←変な言い方

50代にもなる禅宗の僧侶が同窓会に来るとまったくそのような宗教人の立場をとっ

ぱらって俗人がのごとく我々に接してくれること、素晴らしいと思いました。

森田澄夫君のコンサートに東北からはるばる駆けつけた佐竹教授の年頭の挨拶の感激

ぶりも(「の」の連続です、なんてワードが警告を出しよる。そんなの知るか!)も和

尚さんの人柄に影響されたところがあるのではないでしょうか。

和尚さんは私がイメージしていたよりもずっと大柄なんですね。風貌もどこか武人風。

文覚や日蓮よりも西行に似た雰囲気。いえ、西行さまと会ったことは無いのですがな

んとなくいだく私のイメージの話です。

和尚さん、どうか、また近畿よいよい会の飲み会に来ていただけませんか。

近畿よいよい会の連中はみんないいやつばかりなんだけれど、どこか集まりの雰囲気

がハメをはずせないところがあるんですよね。(一所懸命やってる炭谷君、馬渡君、ご

めん。許されて!)

頂戴したカレンダー、私の仕事専用にさせてもらいます。

 

舩津君

貴兄が姿を現された時(9時頃になる、と言っておられたのに8時20分ころでした

ね)、生の舩津君との初対面のときが今や来た、と私は体が震えましたよ。(ま、震度

1というところでしたが)

貴兄は、貴兄の不用意なハプスブルク発言が私をよいよい会HPに引きずり込ませ、

前から見知っていた興平君、和尚さん、安田君、稲戸君、柴田さんへの親密感を深め、

江口君、浦野君、下川君、という名前も顔も未知の人達との新しい交流が始まるきっ

かけを作ってくれたという大恩人なのです。

5日の宴は貴兄なくても有り得なかったことでしょう。

私の右横に座を占められたとき、私は何度もあの「ハプスブルク談義」をやりとりし、

「ヨーロッパ歴史ロマン」「エルベ河のバロックドレスデン」を書いた当の本人が今私

の横にいるのだな、とためつすがめつ貴兄の顔を見やったものでした。夢ではないか、

という思いで。

そして、興平君が合成してくれた貴兄と一喜君と私の実際の写真が実現したのです。

不思議なご縁ですね〜

エリザベート・フォン・ハプスブルク・ウント・ロートリンゲンのことでこれだけ煮

詰めた話を出来る日本人男性と巡り会えるとは。

私はこのことだけでも修猷館に行って良かった、としみじみ思います。

私はこのことを(ハプスブルク談義を)私の仲間や顧客達に広く伝えていきたい!

舩津君、どうか末永き厚誼をよろしくお願いいたします。

 

妹尾君

貴兄に対しては今さら言うことは何もありません。

年末年始の度を過ごした付き合いが体調を崩させた、という今日のメッセージに、そ

の因を作った私は申し訳ない気持ちになったけれど、それはもう幼なじみということ

で勘弁して欲しい。

私は、我が父の息子としてこの世に生まれてき、もの心ついたときに貴兄と出逢って

いたということが私の最大の幸運だったと今、しみじみ思います。

父の転勤で山口県下関市から福岡に移ってきたのが昭和25年、3歳のときでした。

舞鶴幼稚園に入る前に貴兄宅の門のところで、門のかんぬきを両手に抱えながら怪訝

そうに私を見つめる貴兄の眼差しを私は覚えている。多分、私のこの世に生まれて初

期にインプットされた記憶の中で今でも覚えている最初のものでしょう。

それから計算すると今年はまる50年目。途中、空白の時期もあったけれど、本当に

長い歳月ですな〜

5日の宴の席では、長君と一緒になって私の幼年時代の悪童ぶりをばらしてくれて本

当にまいったけれど、実際ひどかったらしいね。弱い者いじめをしていたことは覚え

ているけれど、人がトイレに入っているときに風通し窓から箒を突っ込んだなんて話、

初めて聞いたですよ。

そんな近所の鼻つまみ者的存在の私を遠ざけるどころか温かく見守って下さった亡き

お父上には深い感謝の念を抱いております。

在校時代ほとんど面識の無かったかつての同窓生と卒業後の齢50過ぎて友人となれ

る、このような恩恵を得られるきっかけを作ってくれたのは貴兄なのです。

これは私だけでなくよいよい会みんなの思いでしょう。

本当に有り難う。

 

最後に吉田興平君

貴兄はHPで伺い知って私の想像していた以上の快男児でした。

仲間達へのパソコン指導の苦労談を聞き、本人がもう解ったつもりになっても、まだ

まだと思ったら何度も反復練習をさせる、そしてそれを仕事あけの疲れた身でありな

がらじっとそばから見守る(おそらく何度もあくびをかみ殺しながら見ていたことで

しょう)、という最良の教師の資質を持っておられることに感嘆するとともに、菩薩行

とも言える他者へつくすその男気の篤さに感銘を受けました。本当に尊敬します。

パソコンでお世話になるかも知れないからと挨拶に来させた私の姉に会うなり、すぐ

さま出張レッスンを約束してくださり、姉も私も感激したものでした。

貴兄自作の陶芸品、初めて実物を見せてもらいましたが、写真で見るとおりの素晴ら

しい色彩、デザインでした。自分でも一時手を染めたことのある姉は、あのようなき

れいな色の上薬はなかなか出せない、ということを言い、貴兄の生来のセンスだろう

と感心しておりました。しかし、手に持たされて異常に重いのを知ったときは、なる

ほど、これが1年しかやっていない実績のあらわれかと妙に納得しました。それでな

ければプロはたまらんもんね。

笑ってしまったのは「相変わらずの男前だね〜」と私が言ったとき、「それが今くさ、

こんな顔は流行らんとよ!一喜もあれは洋風やけれど、今じゃ流行らんちゃん」と貴

兄が答えたことで、確かに今日日の美男は醤油顔の薄い表情の子が多いようですな。

奥様もきれいで若々しい方ですね。たしか貴兄より年上とお聞きしてたけれど、とて

も孫がいる女性とは思えない、と姉が言っておりました。

店も予想していたよりもずいぶん広く(私はカウンター内から店内が見渡せるくらい

の規模かと思ってた)、料理も美味しかったです。翌日連れていった城南中同窓生たち

もタンの塩焼きに「おいしいー!」と声をあげてましたよ。

その節は彼らにも大変親切にして下さって本当に感謝しております。あの3人は私の

中学校時代、とても仲良くしていた仲間なのです。

我々4人をデジカメで写して制作してくれた2001年前半のカレンダーは今、パソ

コン前の壁に貼ってあります。(これを見たら内田君が猛烈に羨ましがるだろうな)

本当にいろいろ有り難うございました。

姉たちとその友人のパソコン指導のことどうかよろしくお願いいたします。

 

かくのごとく、いつ果てることもなく続きそうにみえたノイシュバンシュタイン城、

じゃなくて、なべ吉の晩餐も午後10時を迎えるになって散会となりました。

そのころはかなり朦朧としていた私は妹尾君や一喜君、興平君、柴田さんとお別れの

挨拶をしたことも覚えておらず、気が付いたら車の中で長君、舩津君、和尚さんら

に囲まれており、これから2次会ということを知りました。ワーイ、と喜んだことは

覚えていますが、それからはまた朦朧の世界へ。

途中、車を降りて寒い夜空の中をあっちこっち歩いたことは鮮明に覚えており、葉っ

ぱをすっかり落とした枯れ木が寒空に枝を張り巡らしているのを見て、ふと、高校時

代、聖歌隊に入ってイブの晩にクリスマスキャロルを歌いに深夜の町中に繰り出した

ことを思い出したものでした。ああ、福岡でこんな経験をするのは何十年ぶりだろう、

と感慨深かったですね。どんなところにもポエジーの世界は存在するのです。

二次会は長君宅近くのバーだったそうですが、私の覚えているのは途中カメラをとり

に長君が出ていったことだけで、多分、和尚さんや舩津君と結構話していると思うの

ですが、ほとんど記憶がありません。

翌日、長君の店に訪ねていって「ゆうべ、話した時計のカタログだから」と言って彼

が綺麗な本をくれたとき意味が解らず、私が全然覚えていないことを知った長君が「本

当に覚えとらんと?」呆れていました。

そして次に気付いたときは、姉宅の階段を舩津君と和尚さんに両側から支えてもらい

ながら上って行くところでして、タクシーで送り届けてくれたのです。

是非、あがってくれ、と言って姉の家に入ってもらい、30分ほど(姉の話)話し込

んだ後、私が泊まっていくようにと勧めるのを辞退して2人は深夜帰っていかれたの

でした。

皆さん、どう思います?

同じ高校を卒業したとはいえ、ほとんど面識の無かった50代男たちが初対面に近い

酔っぱらいの面倒をここまで見てくれるものでしょうか。

男の友情って本当に奇妙なものだな、と私は翌朝目が醒めたとき、しみじみ思いまし

た。

お二人はいざ知らず、私に関する限り、舩津君と和尚さんのこの厚情を忘れることが

できません。

6時に目が醒めたのですが、昨夜のなべ吉でのこと、二次会の終わりに送ってもらっ

たことなどをいろいろ思い出すと興奮して再び寝付けず、これらの楽しかった話を一

時も姉に話したく、早く起きてくれないかな、と寝床の中で待ち続けたものでした。

 

6日は午後3時まで姉にパソコンの使い方を指導し、4時前に姉宅を辞して長君の店

に寄りました。長君のお嬢さん達に会うのは実に16年ぶりであり、なんと素敵な女

性になっていたことでしょうか。長女の愛ちゃんは本郷の時代に何度も会っていまし

たが、次女の優衣ちゃんは物心がついてからは一度しか会ったことがないのに、「面白

い本をよく送って下さった小父さんとして覚えています」と言ってくれたときには嬉

しかったですね。

本郷の長君宅に泊めてもらった翌朝、我々が寝ている部屋に幼い愛ちゃんが「パパ、

パパ、優衣ちゃんがいなくなったの!」と言って飛び込んできたとき、長君がガバッ

と飛び起きてすっ飛んでいったことを思い出しました。

左から愛ちゃん優衣ちゃん

それが今は妙齢のお嬢さん。いや〜、親友の娘って本当に愛おしいものを感じますね。

そこへ帰省している山城君がひょっこりと姿を現しました。私が来ることを長君が知

らせたそうで、僅かな時間しか居れないのを承知で会いに来てくれたのです。

丁度パソコンの話をしていたところでしたが、山城君ももうすぐ家にもパソコンが来

るということなので、それなら是非、よいよい会HPを見るようにと勧めると、「いや

〜見る気はないね〜」とほざくのです。むかつくでしょう? 救いようのない典型的ア

ナログ人間です。話題になった藤村停君のアナログ度なんか可愛いもんですよ。

「どんな悪口を書かれているかも知らないで呑気なもんだ」と私が言うと「えっ?」

ってな表情をしてました。多分、川崎の自宅でこっそりと見るんじゃないでしょうか。

長君の車で山城君ともども博多駅まで送ってもらい(それにしても妹尾君の車に乗せ

てもらったときにも感じたのだけれど、ベンツって車、乗り心地はいいわ、豪華だわ、

優越感は感じるわ、結構な車でんな〜)、なべ吉に着いたのでした。

城南中同窓生の岡田(旧姓)知子さんは長君と小学校時代の同級生だったので、一目

会ってもらいましたが、「長さんって全然変わっていない!」と岡田さんはビックリし

ていました。オイオイ、それはないんじゃないの、と私は内心思った。

小学校時代の長君はやせ形の背の高い(当時の平均値からして)子供でしたから、私

から言わせれば全然変わってしまったと思うのですがね。イメージの問題でしょうか。

40年ぶりの再会でした。

長君、山城君らが帰っていった後、初め女性同窓生2人との宴会でしたが、やがて出

勤してきた興平君が我らの写真を撮ってくれ、しばらくしてカレンダー仕様のプリン

ト紙にして持ってきてくれたのです。誰に対しても精一杯の心づくしをする興平君の

真摯さは2人の女性の心をも惹き付けたようでした。

「有留さん、グラフィックソフトを学びたかったら彼に相談したらいいよ」と、つい

最近自分専用のパソコンを購入した有留(旧姓)小夜子さん(こう書いたら、ええ、

彼女も行ったのか。クソッ、森脇のヤツ油断もスキも無い!と憤慨する城南中卒がい

るやろうね)に言ったら、彼女、「えっ!本当にいいの?森脇さんのそんな親しいお友

達なの?」と目をランランと輝かせるものですから、今さら、昨日が彼との初対面な

んて言えなくなりました。

興平君、ごめん。私って、ものすごく軽薄なところがあるんです。

そこへ、私の中学校時代の心の友、江下素彦君の来場。会議の合間を抜けて駆けつけ

てくれたのです。

彼が舩津君と仕事上の付き合いがあることは舩津君のDMで知っておりましたが、彼

がしきりに「舩津先生、舩津先生」を連発するのには同窓生の間柄ではなく、仕事の

取引相手となるとこうも呼びかけが変わるものかと、考えさせられましたね。

2時間一寸の宴はアッと言う間に過ぎていき、その夕の午後7時28分の新幹線で私

は大阪に帰りました。

超がら空きののぞみ号の車中で私は本を読むでもなく、ただ、タバコをふかせてぼん

やりとうつろな視線をあちらこちらに漂わせながら、夢のように楽しかった21世紀

最初の正月の思い出を振り返るのでありました。


*編集部によるこの夜の写真も見てください。