4/18 2003掲載

森脇久雄 

医師たちのトーク&ライブ『嵯峨野はんなりひとやすみ』

3/25 の会員便り欄に手打ち庵さんの次の案内が載りました。

私の友人で、がん患者への癒しの活動を医師と一緒に行っている方がいます。稲垣さんと
いいます。今回その方達のグループが京都嵯峨野で「嵯峨野はんなりひとやすみ トーク&
ライブ」というコンサートを開きます。
私も参りますが、このような会に協力してあげようという方がおられましたら、花見がてら京
都嵯峨野へお出かけ下さい。
 
日時:4月6日(日) 午後1:30開演
場所:JR嵯峨嵐山駅横 「コミュニティ嵯峨野」
入場料 1000円
 
末期医療とか安楽死に深い関心のある私は、お医者さんが音楽を奏で、トークをするライブ
というのに興味を持ち、もしかしたらライブの後に手打ち庵ご夫妻と酒席をご一緒できるかも
知れないし、と出かけていくことにしました。
そしたら、前日、手打ち庵さんから「明日はリカさんもライブに来るし、酒席も行けそうなので
居酒屋は4人分予約しておいてくれる」と電話で言ってきました。
リカさんは、私の息子が結婚するときに歌華人さんが嫁の雅子のブーケを作ってくださった
のですが、それを手伝ってくださった女性で、結婚式前夜、mitiko姉と一緒にブーケをいただ
きに手打ち庵宅にお邪魔したとき、お会いしたことがあるのです。
歌華人さんのフラワーアレンジメントのお弟子さんであり、また、歌華人さんが実の娘のよう
に可愛がっている女性なのです。
あのリカさんと一緒にお酒が飲めるとは、と私は大変いい気分になって私の行きつけの居酒
屋に予約を入れたのでした。
 
当日午前中、私は大阪市内での仕事を一件だけ済ませ、余裕を持ってJR京都駅まで行って
駅構内で昼食を済ませ、山陰線の電車に乗り込みました。
後から偶然にも手打ち庵夫妻とリカさんが私の乗った車両に乗り込んでこられました。
手打ち庵夫妻とはいつもこういった場所での鉢合わせがあります。
昨年2月の近畿よいよい会新年会の折には大阪駅構内の中で歌華人様から声をかけられ、
今年1月の鳴滝亭新年会に招かれたときは花園駅の階段を下りる頭上から夫妻しての声が、
そして今日、こぼれんばかりの笑みを浮かべて乗ってこられた3人の方々に尋常ではない私
たちのご縁の深さを感じるのであります。
 

「コミュニティ嵯峨野」は山陰線嵯峨嵐山駅のすぐそばにあるなかなかに瀟洒な建物でした。
150人くらい収容の小ホールでしたが、立ち見も出るほど大勢の聴衆が集まる中、定刻に
イベントは始まりました。
 
トークをされるのは和歌山のユニティクリニックの安川修さん(愛称やぶさん)、ギターを弾きな
がらオリジナルの歌を唄うのは島根県の三瓶山のそばで診療所を開く長坂ゆきひろさん(愛称
ちょーさん)で、この二人の医者は幼馴染なのです。
この二人の親密さをうかがわせるのにプログラムの中に長坂さんを紹介する安川さんの文章
がありますので、それをここに掲載します。これを読むと長坂さんが相当に異色のお医者さん
であるということがお解りになると思います。
 
《やぶさんが書いた ちょーさんのプロフィール》
 
昭和29年(1954年)3月26日、和歌山県に生まれる。牡羊座のB型
 
 幼少時より、ビング・クロスビーやエルビス・プレスリー等をいつも聴いていた父親の影響を
受ける。決して広くは無い彼の家にピアノがあったのには驚かされた。
 彼の音楽活動が本格化したのは高校時代の頃。当時、全盛であったフォークソングの影響
を強く受け、友人達とバンドを結成し、文化祭、地元のラジオ番組出演等、華々しい活躍をする
一方、高校の近くのバス停から校門までのたった300mの道をまっすぐに進むことが出来ず、
途中で通学路をそれて馴染みの喫茶店へ通う日々が続く。そこで小説等を読みふけり、音楽の
話題に花を咲かせた結果、学業の成績はおして知るべし。
 
 第1回目大学受験、当然のことながら失敗。世の中、そんなに甘くはないのだ。
 第2回目志望校受験失敗。すべり止めに受けた某私立大学へ進学。1年で退学。
 第3回目受験。志望の国立大学合格。志望校に合格したのである。みんなで万歳をしたので
ある。ところがどういう訳かこれをきっかけに彼の人生は大きく進路を変えることになる。彼の
心をとらえたのは、専攻したはずの水産学科ではなく、教育学部音楽科。ここで本格的に音
楽の道にのめり込み、ついにはオーケストラの指揮を行うまでになる。その結果、本来専攻
した学業の成績は・・おして知るべし。結局3年で中退する。あの夜の万歳を返せ。合格発表
の前日の夜にはお参りまでしたんだぞ。
 
 その後、突如島根県に出現。そればかりか突然「自分は医者になる」と宣言(何考えてるん
だ、お前・・、と思った友人達、多数)。ところが彼は周囲の声などどこ吹く風。毎年、島根医科
大学を受験しては失敗を繰り返す。すでに大学を卒業して病院に勤務していた私は、いつも受
験シーズンになると、新聞を見ては島根医科大学の競争率をチェックすることになる。いつにな
ったら私は彼の受験から解放されるんだろう。ところが当の本人はこの間、レストランのコック
見習い、クラブのバンドマン等で生計を立て、逞しく生きていたのである。
 
 昭和56年、延べ9浪の後(苦労って読むんだな、きっと)ついに島根医科大学に合格。そして
彼はオーケストラの指揮を務める等の音楽活動を行いながらも、今度こそ、今度こそ無事、
卒業。循環器内科を専攻する。
 
 平成5年、現在の地、島根県大田市、三瓶山の中腹、池田に診療所を開設。大学病院に勤
務している時からの希望であった、1対1の対話の医療、食生活や生活習慣の改善といった視
点を取り入れた医療に取り組み始める。また、この頃より、音楽活動や演奏活動に本格的に
打ち込み始める。
 
 平成11年、神戸事件の被害者、山下彩花ちゃんに捧げた曲「COSMOS」を製作。この曲を
分岐点に、以後、彼の奏でる音楽は「命をみつめ音楽」と言う色彩が色濃く現われるようにな
り、「命」をテーマにしたコンサート活動を日本各地で行い、今日に至っている。特筆すべきは
平成12年8月、奈良で開催された「第25回わたぼうし音楽祭」でグランプリにあたる「わたぼうし
大賞」を獲得し、翌年、台湾で行われたアジアわたぼうし音楽祭の日本代表となって出演して
いる。
 
さて、今後はどこに行くのやら・・。
 
この紹介文を書いた安川修さんもユニークな医者のようで、そのトークはご自分の排便におけ
る失敗や苦労談を語るというイントロで始まり、ときおり、医者なのにやぶさんという妙な愛称が
定着してしまって大変弱っている、という話をはじめ爆笑を誘うような話術の巧みさを見せなが
らも、やがて末期医療というもの、人の死というものへ医者として感じてきたことを語られた1時
間に及びトークは我々の注意を最後まで引き付け続けた素晴らしいものでした。
大病院勤務を長いこと続けてきた後に郷里の田舎に戻り、そこで独立した医者として開業する
ようになってから在宅医療というものもあわせて行うようになったやぶさんが色々発見したもの
の中でも一番重要なことは人の死の見送り方、ということだったようでして、トークの終わりの方
で「皆さん、今日私のつまらぬ話を色々聞いてくださいましたが、いずれ私の話したことすべて
お忘れになってしまうでしょが、ただ、このことだけはどうか心の片隅に刻み込んでいただきた
いのです」と前書きし、強調されたのが次のようなことでした。
 
死を見送るのをお手伝いするのは医者ではない。
看取るのに医者の技術は必要ではない。
死には家で向かえる死と病院で向かえる死がある。
家で死ぬということは、死ぬことに幅がある、生と死とが重なっていく。つまり、人がその生を終
えて世を去っていこうとするとき、死んでいくものと残される親しい間柄の家族や親族などの間
に生死の境を共有するものが存在する。皆が静かな中で親しきものが去っていくのを見つめて
いる。人の死を受け入れる雰囲気が生じ、死の尊厳を学ぶ機会がある。

これが病院で死ぬというときは生と死とが重なっていることが無い。病院は患者が生きていると
きのみ存在するのであって、死については医療機関、医者はまったく無力であり、門外漢なの
である。
心臓が止まったりすると猛然と激しい心臓マッサージで患者の胸を圧迫し、呼吸が止まると口
から吸入器を強引に突っ込んで人工呼吸を施す。そして、いよいよ容態が絶望的になってくる
と医者はモニターを凝視し、臨終の時間を記録しておくために時計をじっと見つめ続けるだけで
ある。
一緒にいる家族親族もつられて一緒にそのようなモニターや脈拍を測りながら時計を見守る
医者の顔ばかりを眺めることだろう。
そして心臓が停止し、呼吸も止まると医者は臨終を告げる。家族親族たちはそこで初めて親
しき人の死を受け入れる。
しかしそれでは本当の見送りではない。そこには死に行く人の顔を表情を、親しき者たちが
見守り、見送るという厳かにして情緒ある雰囲気は望むべくも無い。生と死とが重ならず、
断絶しているのである。
最後のときは、死んで行くものと残される家族たちの間に医者は介入するべきではなく、親しき
人たちが最後の別れの儀式を厳かに行っているのをそっとしておいてあげるべきなのだ。
この大切な儀式はなるべく幼き子どもたちにも立ち合わせるべきで、それによって人間は人の
死というものを幼いころから知り、その厳粛さを理解していく。これが大切なのである。
 
やぶさんのこの最後の念を押すように言われたことがらは私の心にも深く刻印されたのでした。
 
休憩時間の後、長坂ゆきひろさんのギター片手のボーカル・ライブが始まります。
フォークソング調の歌でしたが、単純な曲ではなく、なかなか複雑な和音や意表を付くメロディ
ーラインの展開があり、さすが本格的に音楽を勉強した人であることが納得できるような聴き
応えのあるオリジナル作品の数々を聴かせてくれました。歌唱力も抜群のうまさでした。
これは後からデュエットで参加したやぶさんこと、安川さんも上手な歌い手でして、そのソフト
で美しい声には歌華人さんも魅了されたようでした。
2人とも医師という超多忙な人たちであり、新しい医療情報など勉強しなければならないことを
山ほど抱え込んでいるでしょうに、この半端ではない優れた芸を維持持続し、しかも招きを受け
れば日本全国どこにでも出かけて行ってこのトーク&ライブを行うのですからそのボランティア
への意識の高さや体力のタフさと実行力には本当に驚かされます。
 
このイベントの縁の下の力持ち的役割を果たされた世話役の稲垣さん。
手打ち庵さんとは仕事上の取引で知り合ったのがきっかけで以後長い年月仕事外のことでも
親しくされているそうです。
社会人としても責任ある立場にいて多忙であるにもかかわらず、このようなボランティアに時間
を割かれるだけあって、なかなかに風格のある優れた風貌をなされた男性でした。
そして紹介する写真が無いのが残念なのですが、手打ち庵さんが画像系伝言板に紹介してく
れた美しい山々の画像の撮影者の岸さんもこの日、長坂の演奏に合わせてご自身の取られた
自然の風景写真をスクリーンに投影され、映像によって演奏を効果的に引き立てる役割を演じ
られたのでした。
稲垣さんの同じ勤務先における後輩でおられるとか。
手打ち庵さんの紹介で岸さんに画像CDを頂戴したお礼を申し上げたところ、大変、恐縮されて、
しきりにはにかまれ、あんなプロも顔負けの写真をものにする人とはちょっと想像できないような
気さくな方でした。
本来仕事上でのおつきあいだった人たちとの間に仕事とは全然関係ない趣味の世界やボラン
ティアの世界でもこのような親密さを作り上げる手打ち庵さんの人間性の素晴らしさをあらため
て実感した出会いでした。
トーク&ライブの終演は午後4時前でした。








 
四条烏丸の居酒屋に午後5時に予約しているので、あまりゆっくりできませんでしたが、せっかく
の花の季節にやってきた嵐山界隈を大急ぎで徘徊してきました。



ところが、嵯峨嵐山駅からJRに乗り込んで4人掛けの席に座席をとれたのはいいのですが、
4人とも話に熱中してふと気がついたら下車駅の二条駅。あわてて「降ります、降ります!」と
言いながら混んでいる車内を昇降口に行こうとしたのですが、するするとドアは閉まってしまい
ます。混んでいた他の乗客たちがおかしそうに笑っていました。
仕方ない、遠回りになるけれど京都駅まで出て地下鉄で行きましょう、ということになり、また席
に戻ってきて座ります(混んでいたのに誰も私たちの立った後に座っていなかった!)。
次の丹波口駅でもしかしたら下りの電車と離合するかも知れないからそこで乗り換えて二条駅
に戻ることができたらいいね、などと言いながらまたもや話に熱中していて、ふと気づいたら電
車は丹波口駅に着いていてホームの向こう側に下り電車が止まっているではないですか!
「降ります!降ります!」と再び声をあげて乗客をかきわけ、4人とも急いで上り電車から飛び
出し、向かいの電車に殺到します。今回は間に合いましたが、上り電車の乗客が私たちの方を
見ながら笑っているのがこちらからも見えました。
これは後から解ったのですが、二条駅まで引き返さなくてもそのまま京都駅まで行って地下鉄
烏丸線を利用すれば一回の乗り換えだけで四条烏丸に行き着けた、つまり二条駅まで戻って
地下鉄東西線、烏丸線と二回乗り継がなければならないのに比べてかえって早かったかも知
れなかったのでした。
 
居酒屋「しん」はM.留理さんが立命館大学在学中に見つけた飲み屋で値段の割りに料理が
美味しいので私はよく利用しているのですが、手打ち庵さんのような名うてのグルメ通にはどう
かな、と気にしておりましたところ、手打ち庵さんも歌華人さんもリカさんも「おいしい!」と言って
くれ、日本酒もいいのを置いている、と手打ち庵さんが誉めてくれたのでホッといたしました。
 
馬刺しです。
熊本出身で本場ものを知っている手打ち庵&歌華人さんが「美味い!」と太鼓判を押してくれ
ました。
 
馬のレバーです。一月に一度手に入るか入らないか、という珍品だそうで、手打ち庵夫妻も食
するのは初めてとか。
他の生レバーよりも味が淡白で、こういうのは本来苦手なはずのリカさんまで美味しい、と言っ
てくださいました。
 
鯛の白子です。
タラの白子よりも上品な味、というのが歌華人さんの感想でした。
リカさんがどの品も口にされるたびに「おいし〜い〜!」と高いトーンの声を出して感嘆されるの
でここに誘った私も本当に嬉しく、食べるよりもその声を聴く方が私には酒の肴になりました。
 
こんなのに味をしめると、普通の刺身があまり有難くなくなります。
 
よくお酒を飲み、よく語り合いました。
こんなに手打ち庵ご夫妻と語り合ったことは初めてではないでしょうか。
特に歌華人さんがこんなに生き生き語られるのを見るのは初めてです。
歌華人さんの語られる、リカさんが婚約者を癌で亡くしたときの悲しいエピソード、そしてそれを
乗り越えてこられた感動の物語は強く私の心をゆさぶり、私はリカさんの大ファンになってしま
ったのでした。
リカさんの物語は別のところで語らせてもらいます。
 
ほんとにほんとに楽しい一日でした。
別れ難い雰囲気の中、地下鉄烏丸線四条駅でスナップを撮りました。
手打ち庵ファミリーは何と!ここから奈良までの直通電車があるのです。
私は京都地下鉄が奈良まで繋がっていることをつい最近まで知らなかったのです。
私は途中、丹波橋で京阪電車に乗り換えて帰宅したことと思います(多分)。
終着駅淀屋橋まで行って香里園に舞い戻ってきたかどうかは定かではありません。

TopPage