7/11 2003掲載

森脇久雄

「名合先生を訪ねて野の花診療所へ」

名合先生をお見舞いに行ってまいりました。
7/3早朝の特急「スーパーはくと」に乗り込み、東海道線、山陽本線を通って智頭(ちず)
急行(第三セクター)というもの凄く山奥深い路線を経て(途中に「宮本武蔵」という名の
駅があるのにはびっくりしました。武蔵生誕の地とか)鳥取に着いたのは午前10時過ぎ。
タクシーで5分ほどのところに名合博子さんが充実した日々を過ごす’野の花診療所’は
ありました。
 
モルヒネを常時使用しないと痛みが襲ってくる状況とお聞きしておりましたが、名合さん
は見た目はすこぶるお元気そうでした。
特に眼の輝きがガンの末期の人とは思えないくらい素晴らしいものでして、並みの健常
者よりもずっと生き生きとしておられるのです。
身体はともかく、心を病んでおられないからこのような眼をされるのだ、眼は心の窓、と
言う言葉は本当だな、という思いを強くいたしました。
挨拶もそこそこにすぐに診療所の中を足取りも軽やかに案内してくださいます。
 
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玄関を入ると
 
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壁に書かれた文字に
いきなり目を奪われます。
詩人の谷川俊太郎さんが自らテーブルに乗っかって書いたそうです。
院長の徳永先生の友人だとのこと。
 
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中庭に面した廊下を通っていくと
 
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受付所があります。診察室は奥の右側。
 
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CT室に面した廊下
 
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お見舞いの品に何をお持ちしたらよいだろうかと
吉行さんに相談したところ、「お花はやめたほうがいいですね。
診療所内はお花だらけですから」とアドバイスされましたが確かにどこにもお花や植物が飾ってあります。
しかし、吉行さんはこうも言われました。
「ただ、男性からお花をもらうっていうのは嬉しいものでしょうけれどね」
う〜む、思わせぶりな吉行さんの言葉。
どちらにしようか、と行く車中で迷いましたが、鳥取駅前の大丸デパート地階に飛び込ん
だら花屋さんが無く、お菓子屋さんばかり。モロゾフのゼリー菓子に決定。なんと安易な!
 
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一階を案内してもらっているところに幸運にも
院長夫人とばったりお会いしました。名合さんの高校時代のクラスメートであることは
前回で紹介しておりますが、お顔を存じ上げま
せんでした。左、院長夫人、右、名合さん
 
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食堂です。素敵な雰囲気です。
名合さんが私と今日大阪からやってこられたご主人の昼食を注文されます。
希望すれば入所者の食事もここに運んでくれるとのこと。
 
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今日のお昼のメニュー
 
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食堂の内部はかように。
 
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食堂に面する厨房。
 
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窓の外には紫陽花の花が。
 
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食器はすべて瀬戸物を使用とか。
 
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そして素晴らしいのが図書室。
 
18、19、20
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限られたスペースの中で精選された本はざっと見たところ、ホスピスにふさわしいものが
多かったですが、そこらの本屋では一寸見かけないようなユニークな画集とか全集もあ
り、なかなかに興味深いコレクションでした。末期医療関係以外の本は院長ご夫妻の趣
味の反映かと勝手に想像しました。
 
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一階のフロアを見終え、二階に上がります。踊り場の壁に飾られた花が可憐でした。
 
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階段を上がったところがナースステーション。
 
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こんなところにもお花が。
 
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ナース詰め所の奥に
入所者の個室が続きます。野の花診療所は全部で19の個室があります。
 
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二階の廊下から眺める中庭。
 
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狭い空間の高いところにステンドグラスらしき
明かり窓に椅子が一つ、という部屋。刑務所だったら懲罰的独房とでも言える狭さのこの部屋が
この診療所にいる人たちの瞑想の場だそうです。私には意表をつかれるような発想の部屋でした。
 
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談話室。様々な談話スペースがあちこちにありました。
 
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名合さんの愛弟子である
ひろのぶ君がショパンの演奏をしたラウンジです。
 
33、34(診療所のアルバムから)
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このラウンジでは色々な演奏家たちがボランティアで定期的に演奏をされるそうです。34の
左側の写真は演奏に聴き入る名合さん。
 
35、36(診療所のアルバムから)
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ピアニストの梯剛之さんもここを訪れ、演奏をされたそうで、梯さんの大ファンで大阪で演奏
会がある度に聴きに行ってられた名合さんは大感激されたそうです。梯さんと一緒におられ
るのはお母様。
 
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ここには小さなカウンターがあり、コーナー
にはこのようなお酒の瓶がたくさん並んでいます。診療所内は禁酒ではないのです。
素晴らしい!と酒飲みの私は感動しました。
そのときふと思いました。現在、タバコをやめた私ですが、この診療所に喫煙所があれば
もっと素晴らしいのに、と。問題発言ですが・・・
いいでしょう。ここの院長先生、徳永氏も著作を読むと相当に問題発言(と取られかねない)
を色々されているのですから。それがまた素晴らしいのですが。
 
38、39、40
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そして私はここラウンジで素晴らしいご婦人に出会いました。
久利渓子(くりけいこ)さんといい、名合さんが深く信頼し、頼りにされている(と名合さんが
仰ったわけではありませんが、私がそのように推察いたしました)女性です。
ボランティアで診療所のお手伝いをされており、診療所内の各所に飾られているお花は全
部、久利さんが世話をしている玄関先の花壇から調達してきて入れ替えの世話をするそう
です。
久利さんの亡くなられたご主人は鳥取日赤病院の院長であり、そのときの副院長がここの
診療所の徳永先生だそうです。
徳永先生が日赤を辞め、ご自分の理想を実現されたとき、久利さんもその理想の診療所を
手伝うことを決意されたのです。
 
久利さんは最初の結婚で中国に渡り、天津で生活されていたのですが、太平洋戦争で従
軍したご主人を戦場で失い、敗戦濃厚になった昭和20年の5月、幼児を連れて命からがら
日本に逃れてきたことを話してくださったのです。
もっとお若い方なのかなと思っていた私は戦前に母親となっておられた話には仰天しまし
た。40代の息子さんがおられると聞いたので、70前後のお年かなと思ってましたのに、何と
88歳とは。
日本に帰ってきた久利さんはすぐさま、幼児を疫痢で失い、そのときに我が子を診てくれた
医者が後に日赤院長になった二番目のご主人だとのこと。
戦争の混乱の中で「私は見てはならないものをあまりにも多く目撃してきたので、少々のこ
とでは動じぬような心のどこか冷えた人間となっているのですよ」と仰る久利さんは二番目
のご主人との間にできたお子さんが障碍者だそうですが、まだ今よりははるかに偏見の強
かった40年前に、我が子の障碍を全然隠さず、どこに行くにも我が子と一緒であり、後に請
われて講演に行くときも常に我が子を講演会の壇上の自分のすぐ側に座らせて障碍児の
育て方とか教育とかについての講演活動をされてきたそうです。
今では街の人たちが、「のりちゃんがどこそこの方に歩いていったよ」とか「のりちゃんがどこ
そこにいたよ」とか彼女に声をかけてくれるそうで「皆が息子のことを気にかけてくれていま
す。こういう世の中が私の願うものなのです」と仰るのです。
地獄を見てきた私にはとにかく息子が生きていてくれている、というただそれだけが嬉しい
のです、幸せなのです、と仰る久利さんのお話し振りは全然、気負うところのない穏やかも
のであり、それでいながら胸の打たれるものがあるのです。我が友、Eguchi君の愛息のこ
とを思いました。
 
「戦争の悲惨さを経験してきた私は今でも日の丸の国旗を見るとひどく心を取り乱してしまう
のです。拒否してしまうのです」
この久利さんのお言葉はずし〜んと私の心に重く響きました。
私は久利さんを深く敬愛するゆえに自分を偽ることはできませんでした。
「私は、保守派的発想の人間であり、日の丸肯定、君が代肯定の人間です。インターネット
上でも私のその信念をためらいもなく表わしております。でも私らの世代は戦争も体験して
おりませんし、そこから生じる地獄の世界も体験しておりません。それらを経験されていな
がら一つも不自然さを感じさせない久利さんが発せられたお言葉を私は尊重いたします」と
お答えしたところ、久利さんは何も仰らず私の目を凝視されました。
「自分は見てはならないものを見たために心が冷え切ってしまった人間です」と言われた80
を過ぎられてなおかつ美しく気品あるご婦人の言葉に私たち戦後派の人間がどのような偉
そうなことを言えるでしょうか。
私は今後も保守派的発言を続けることをやめることはしないでしょうが、いつも久利さんの
ような方がいらっしゃるということを心の片隅に留めておきたく思いました。
 
昼食の時間が来るまでの1時間、私たちはこのラウンジで過ごしました。
私はこの久利さんというご婦人にお会いできただけでも鳥取まで来た甲斐があったと思い
ました。
 
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ボランティアは久利さんだけではありません。
この野の花診療所には26名のボランティアがいます。
今年1月、ボランティア部というものを発足し、月1の簡単な新聞も発行するようになりました。
その創刊号に下記の挨拶が記されていました。
 
野の花診療所が満1歳を迎えたのを機に「ボランティア部」を立ち上げることになりました。
現在活躍しているボランティアは26人。内容は、掃除、ミシン、アイロン、人形、写真、コンピ
ューター、カット、アロマセラピー、コーヒー、クッキー、花壇、花活け、花取り、刺繍、歌、ピア
ノ、フルート、太極拳、イベント手伝い、などなどいろいろ。ボランティアとしては、試行錯誤
未熟ものですが、野の花診療所、患者さんの役に立ちたいと願っている気のいい者ばかり
です。どうぞ、これからもよろしくお願いします。
 
下の方のスケジュール表の下に
「ボランティアにこんなことしてもらえたらなあとか、困っておられるようなことがありましたら
遠慮なくおっしゃってください」
と記されています。毎月号同じで、皆さんの心意気が伝わってくるような文面です。
 
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久利さんは毎号、詩を掲載しておられます。前画面の7月号の詩です。
 
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この詩の中のひさえさんというご婦人は私が訪れた3日前の6/30月曜日に亡くなられたそう
です。ひさえさんを片時も一人にはしないようにとご主人と二人の娘さんが交代でつきそって
おられたとか。
「あんな素晴らしいご家族に大切に看取られて本当にお幸せな方でした。穏やかでそして本
当に幸せな最後を迎えられました」と久利さんと名合さんが代わる代わる話しておられたの
が印象深く、後でこの写真がそのご夫妻のものとわかったとき、ご主人の笑顔を見ているう
ちに目頭に熱いものを感じてしまいました。さぞかし良き夫であり、良き父親なのだろうと思
いました。
 
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食堂に行く前に屋上からの
景色も見てください、と屋上に案内されました。
ベランダの緑色のものは久利さんが世話をしている花壇です。所内に飾り付けられる花はこ
こからも供給されるのです。
 
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向こうに見えるのは久松山(きゅうしょうざん)。
鳥取城址のある山で「鳥取市のシンボルです」と名合さんがおっしゃいます。
久利さんも同じようなことをラウンジで言っておられました。
鳥取城は別名「渇殺城」とも呼ばれるそうです。
歴史好きの人間だったら鳥取という地名を聞いとき、あの悲惨な鳥取城の篭城戦のことを
連想する方も少なくは無いと思います。
毛利氏と織田氏との衝突が始まり、攻め寄せきた織田方の羽柴秀吉の大軍に囲まれて兵
糧攻めにあった鳥取城の将兵たちがなめた飢餓の惨状は戦国史上でも類の無いほどの悲
惨なものとして有名なのですが、その城址の山を故郷のシンボルと二人の女性が言われる
のに私は強い印象を受けました。
もちろん、名合さんも久利さんも鳥取篭城戦のことはご存知なのです。
知っているどころか、鳥取城の将兵たちから請われて城代として毛利側からやってきた吉川
経家が城兵たちの助命と引き換えに切腹して果てたことをその名前と共に名合さんも久利
さんもご存知でした。
「あの山のふもとに私の通った高校があり、そこで私は鳥取城の篭城のことを歴史の先生
から教わったのです」と名合さんは言われます。
自分たちの郷里の祖先たちがひどい目に遭ったこと、そして他国からやってきた武将が身
代わりとなって城兵の命を救ったこと、それらへの鎮魂と哀悼の錯綜した思いが名合さん、
久利さんたちも含む鳥取市民をして鳥取城址の山は故郷のシンボル、と言わしめるのだろ
うかと思いました。
 
鳥取城のことは下記のサイトを参照ください。
http://shiro39.hp.infoseek.co.jp/sanin/totori/tottori.htm
 
吉川経家と篭城戦のことは下記のサイトから。
http://www.mmjp.or.jp/askanet/anecdoteofhistoricsite-story03.htm
 
味方の毛利氏だけでなく、織田方の将兵からも称賛を浴びたことが当然と思われるような
経家の出処進退です。
吉川経家といい、水攻めで有名な備中高松城主清水宗治といい、毛利氏に所属した武将
たちの何と潔いことでしょうか。
 
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食堂へ行くために階段を降りたとき、そこにある一枚の大きなヒノキの板を名合さんが指し
示されました。
メモリアルボードです。
ここの診療所が定期的に発行する「野の花通信」にこのメモリアルボードのことを下記のよ
うに紹介しております。
 
 カイダンノシタニ、イチマイノオオキナキガアル。キ、ジャナク、イタダ、トオモワレルカ
モシレヌ。ソノイタ、イヤ、キハヒノキ。ヒトノナヲシルスヒノキノキ。ドンナヒトノナデモイ
イ、コノシンリョウジョニカカワリヲモッタヒトノナヲシルス。ナガシマアイセイエンデクラシ
テオラレテ、カンパヲトドケテクダサッタヒトノナモシルスシ、ココデナクナッタヒトノナモ
シルシタイ。セイシハトワナイ、ノノハナシンリョウジョヲアイシタヒトタチノナヲシルス。
タダ、ジョウケンガアル。ナノオオキサデアル。ハバ1.5センチ、タテ7センチ。ソノオオキ
サダト、ヒトノナハ、1600カケル。ナガミチルマデ、コノシンリョウジョガイキテルカドウカ、
ソレハワカラヌ。
 セイシイリマジリノ(ソウ、シストカケヌノデ、イキテルトキニカイテ)メモリアルボード、
コノキハ、ミズジャナクヒトノナデソダツ。
 
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17の拡大画像です。ぼやけていますが三つの名前が記されているのがわかりますね?
左上の名前には4文字の名前があるだけですが、右側の二つの名前はその下に2本の棒
みたいなのがぼんやりと見えます。右側は既にこの世を去られた方のもので、名の下にそ
の没年月日が記されているのです。
 
「生死入り混じりの(そう、死すと書けぬので、生きているときに書いて)メモリアルボード、
この樹は水じゃなく人の名で育つ」
 
何と素晴らしい言葉でしょうか。
ひどく心を打たれたモニュメントでした。
 
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食堂で名合さんご夫妻と一緒に昼食をよばれました。
料理は美味しく、病院のものとは思われぬような家庭料理の味付けでした。
こんなクセの無い自然の味付けの料理でも毎日だとやはり飽きるそうで、名合さんは特別に
別メニューをお願いすることもあるそうです。
 
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二度目のラッキー!
いつのまにかにお隣の席に院長の徳永先生が食事をされておりました。
断って写真を撮らせてもらいました。
 
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このきわめてユニークな医師のことはとても簡単な言葉ではご紹介できません。徳永医師の
著作をまだ読まれていない方は是非、一読をお勧めいたします。奥行きの深くて広く、ひだの
多いその人間性についてがよく理解できることと思います。
『野の花診療所まえ』は読み物としても大変面白いです。
少しでも難しかったり退屈だったりすると読書中にすぐに眠ってしまう我が家内が一気に読み
きり、「こんなお医者さん、初めて知った。やはり並みの人ではない、野の花診療所の素晴ら
しさが理解できるようだ」と感嘆したのです。ちなみに我が家内は軍隊式教育で知られた大津
日赤の看護学院を出て小学校の保健教諭を30年務めてきた女です。
 
食事を終えた後もコーヒーを飲みながら食堂で名合さんご夫妻と色々語り合いました。
そして今日判明したことは、名合さん夫妻も私も同じ昭和47年に結婚したこと、そして同年に
新設なったばかりの公団住宅寝屋川団地に同じ月に入居したことでした。名合さんは鳥取生
まれの鳥取育ち、鳥取大学の教育学部音楽科で学ばれ、同大学でご主人とめぐり会ったそ
うです。ご主人は岡山県出身です。
同じ世代の息子と娘を持つ点も私たちはよく似ておりました。
どちらも昨年銀婚式を迎えたことに話が及んだとき、「森脇さんはまだまだ奥様と長くお過ごし
になれますわね」と仰られたのには一瞬、私はたじろぎましたが、名合さんは決して羨望とか
愚痴の思いをこめて仰られたのではないことはすぐに判り、「そうですね、でも私もやめたとは
言え、長年ヘビースモーカーを続けてきたし、今も一日として休むことの無い大酒飲みをやっ
ておりますからどのくらい続くことでしょう」と私は素直に答えることができました。
4月に後一月と宣告されたのに、もう7月を迎えた名合さん。二ヶ月得されたのですからご満
足でしょう?と徳永先生に言われて、いえ、私はこうなったら後2年はいけるのではないか、
と希望を持ち出しました、是非、続いて欲しいと願ってます、と側からご主人が言われ、徳永
先生は苦笑されたとか。
そんなことを屈託も無く楽しそうに話される名合さん。
 
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長いランチタイムを終えて食堂を出、名合さんのお部屋を拝見することにしました。診療所と
は思えないようなきれいで洒落た内装です。
名合さんが手紙を書いたりするデスクです。健康なときは手紙なんかほとんど書かなかった
のに、ここ診療所生活をするようになって手紙を書く回数が飛躍的に増えたそうです。吉行さ
んの簡潔にして要領よく、全然気負いこむところの無い手紙を見て自分もあれこれ文章を考
えずに手紙を書けるようになったと名合さんはおっしゃいましたが、なるほど、と吉行さんの
手紙を知る私はひどく納得しました。
 
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デスクの上には愛嬢クーちゃんの写真が。
 
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壁には詩人、茨木のり子さんが寄贈された彼女の詩の入った額が飾ってあります。やはり
徳永先生の友人だそうです。
茨木のり子さんの著作『ハングルへの旅』を読んで私は韓国の叙情詩人、尹東柱(ユンド
ンジュ)のことを知りました。尹東柱の詩を原語で味わいたくてハングルを学んだという茨
木のり子さん。
それにしても谷川俊太郎さんや茨木のり子さんのような際立った存在の詩人と徳永先生
が懇意とは、徳永医師の人間的魅力が推察されるようです。
 
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名合さんからグランドピアノを贈られた弟子ののぶひろ君たち兄弟のお母様が代わりにと
いうわけではないのでしょうが、送ってこられた電子ピアノ。
「もとから飾ってあった壁の額とこのピアノがマッチするんですよ」と名合さんが嬉しそうに
言われます。
 
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”ノクターン”
私のリクエストに応えて名合さんはショパンの「嬰ハ短調のノクターン」を演奏してください
ました。
映画「戦場のピアニスト」の冒頭のシーンに出てくるあの物悲しくも美しい曲です。背後で
耳を傾けられるご主人は名合さんがこの曲を弾かれるのを聴くのは初めてとのこと。
夫とピアノ調律師の二人の前で名合さんが演奏する光景。
何だか我ら3人が映画の一シーンのなかにいるような気さえしてきました。
 
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「最近、二人だけの写真が無いので」と言われるご主人の言葉にツーショットを撮らせて
もらいました。こういうことを夫の方から口にされるなんて素敵だな、と思いました。
 
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時間はアッと言う間に過ぎ去って行き、お別れのときがやってきました。
私は2時24分の列車で城崎経由で帰ることを伝えますと、ご主人の運転で名合さんも一緒
に駅まで送ってくださいました。名合さんのご実家の車を病院に置いておられるそうです。
 
鳥取駅では車を降りるとあわただしくご挨拶をして名合さんご夫妻と別れました。もしかした
らこれが最後のお別れになるかも知れないのに私の心には湿っぽいような感傷は起こり
ませんでした。またここ鳥取にやってきて名合さんにお会いできそうな気がするのです。
 
たった一両だけのディーゼルカーが鳥取駅の高架線を動きだし、車窓から眺められる風景
の遠くに鳥取城址の山が後方に遠ざかっていくのを見るとき、「鳥取城址の久松山は鳥取
市のシンボルなのです」と言われた名合さんと久利さんの言葉がしきりと思い返されました。
 
その残酷でみじめな惨状、つまり負のダメージを持つ鳥取城址の山を我が郷里のシンボル
と言ってはばからない名合さん、久利さんの言葉に私はお二人の郷里に抱く深い愛着、誇
りというものを推察しました。
将兵たちの助命と引き換えに切腹した吉川経家の記念碑が城址にあるそうですが、それが
鳥取市民の経家に寄せる思いの現われだと思います。
ガンと向かい合って見事な態度を貫かれる名合博子さんもこの鳥取の気風ともいえるような
ものの影響を受けておられるのかな、とも思いました。
 
遠ざかる鳥取の町を眺めながら私も我が心の中に鳥取に対する愛着の思いが芽生えてき
ているのを感じるのでした。
お見舞いに行ったつもりが何だか私の方が癒され、勇気づけられたような今日の鳥取・野
の花診療所行きでした。