行仙宿小屋建設10周年祝賀会レポート1999.06.26

                 新宮山彦ぐるーぷ・森脇久雄

 

アルバトロスクラブの皆様

 一昨日、行仙宿小屋建設10周年祝賀会に行ってまいりました。

 朝8時に橿原神宮駅前で待ち合わせしたクラブメンバーの堂田弘文さんと大阪在住

の新宮山彦ぐるーぷメンバー平田保さんと一緒に降りしきる雨の中、車で熊野に向い

ました。

 せっかく、熊野まで行くのだから一山稼いでいこう(山登りをするということ)と

選んだ山は瀞峡東側にたたずむ日暮山(ひぐらしやま・標高741m)で、これは私

が新宮山彦ぐるーぷの団体登山に始めて参加したときに登った思い出深い山です。1

2年ぶりの再訪でした。

 小雨の中、健脚揃いのメンバーですので早足で上がり、往復2時間で下山しました

が、山よりも近辺の村落の昔のひなびた雰囲気を色濃く残している風情の方がはるか

に印象的で桃源郷のような趣がありました。

 そしてそこから山深い熊野のど真ん中を約1時間半ほどのドライブで午後3時半、

会場の勝浦温泉・ホテル「一の滝」に到着。まだ、ほとんど人が集まっていない中、

受付をすませ、我ら3人は早速、温泉につかったのです。大きな窓からは奇岩の並び

立つ入江が見渡せ、湯加減もほどよく、最高の気分でした。「一の滝」は勝浦温泉では

源泉をそのまま流し続ける二つのホテルのうちの一つだそうです。

 午後5時45分、祝賀会場の大広間に行きますと、クラブメンバーである高木亮英

師や松本良氏、前川勝巳氏などの他に、クラブにも縁の深い玉岡憲明氏、山上浩一郎

氏、坂本登代太氏、小田敏郎氏、榊本真仁氏ら総勢60数名が席を連ねておりました。

 また、10年前に小屋建設作業に従事していたけれども現在は新宮山彦ぐるーぷの

活動から遠ざかっている男女10数人の懐かしい人たちにも再会し、私にとってはま

るで同窓会のような雰囲気でもありました。

 午後6時に主賓である塩川正十郎ご夫妻が拍手の中で登場。

 塩川さんは運輸、文部大臣を歴任した自民党の政治家で、新宮山彦ぐるーぷの小屋

建設の情熱に深く共感され、いろいろな便宜を計らってくださった方です。

 当時、宇野首相の女性問題スキャンダルでテンヤワンヤの騒ぎにあった政局の中、

自民党官房長官という超多忙な立場の状況下、玉岡さんに励ましやアドバイスの毛筆

の手紙をたびたび送ってこられたことを私たち新宮山彦ぐるーぷの者たちは決して忘

れることができません。

 主賓としての長い祝辞は紋切り型とはおよそ縁の無い感銘深いものでして、玉岡さ

んから送ってこられる数多くの建設レポートをすべて読んだこと、そしていつも感銘

を受けており、今日、新宮駅に降りたときに改札口に立っている老人が一目で玉岡さ

んであることが判ったこと、千数百年もの昔から続いてきた宗教的伝統の火を絶やさ

 

ぬよう手弁当で努力されてきた皆さんのボランティア活動の崇高なこと、皆さんのや

ってこられたことは皆さんの子供たちや孫たちに語り継がれていき、必ずや良い影響

を世間に及ぼすこと、山登りが好きな自分は完成当初から行仙宿小屋に行きたく思っ

ていたが、多忙なため、長年その夢が果たせなかったがやっと暇な身分になったので、

いつか玉岡さんに案内いただき、行仙宿小屋に泊まってみたく思っていること(この

とき、会場が大きくどよめきました)、のようなことを話され、私は感動のあまり目頭

が熱くなってき、隣席で塩川さんを見上げるようにして聞いていた玉岡さんの眼は真

っ赤になっておりました。

 東大阪市が選挙地であり、熊野の人たちの心を捉えても何の票にもつながらないの

に、田舎の無名の団体にこのような損得抜き勘定で自分の政治家としての力を利用し

て協力してくれる政治家がいることも皆さん、どうぞ、知ってください。

 祝電の披露のあと、司会の山上浩一郎さんが、「これはリーダーの玉岡さんには内緒

で私が独断で決めたことです」と断わりを言い、玉岡さんの活動の陰には奥様の協力

が不可欠であったことを話して、奥様を顕彰し、茶道をたしなまれる奥様に抹茶茶碗

を感謝の印に贈呈したのでありました。

 心筋梗塞という持病をお持ちでありながら、いや、むしろそれ故にすべてに配慮の

行き届く山上さんらしい心配りであると思いました。

 12年前、私が大峯奥駈道を縦走した折に、知り合った間もない私のために、初め

て歩く本宮から持経宿小屋までを案内してくださったという私にとっては大恩人です。

今年、70歳になられましたが、山彦随一のお洒落で美食家で美意識の高いダンディ

さは、それに負けぬくらい素敵な貴婦人である奥様の昌子さんとともに会う人々に感

銘を与えるカップルでございます。

 山彦ぐるーぷにはもう一人、東真澄さんという長老がおられます。

 今年74歳になる玉岡さんと中学時代からの幼馴染で、温厚にして控え目な性格か

ら、「山彦名物、鬼の玉岡、仏の東」と言われて蔭に陽に玉岡さんを支え続けてきた方

ですが、玉岡、山上の両氏が不在の中、60日間断食行中の伊富喜師が重体に陥った

とき、メンバーを募って伊富喜師を深仙から担ぎおろす総指揮をとるなど、玉岡さん

の代役をいつも地味にこなしていくというお方なのです。

 肝心な時に適切な助言をするこの二人の副リーダーがいなければ山彦ぐるーぷの活

動はここまで続くことはなかったでしょうし、この三者が鼎のようにして支え合うか

らこそ、この大事業も成し遂げられたのだという思いを深くしたものでした。

 東さんは宴会の始まる前に、この記念すべき祝賀会に謡曲の「猩猩」を披露してく

ださいましたが、日頃、目立つことを極力厭われる東さんが、晴れがましい舞台の上

で「猩猩」の解説をされ、朗々たる音調で謡曲を歌われました時、伊富喜師が亡くな

 

られた後、釈迦ヶ岳山腹のその生涯の場所に、一人、ケルンを積まれた東さんの姿が

だぶって深く感動したものでした。

 やがて酒宴が始まり、会費の割には随分と豪華でおいしい料理の数々に舌鼓を打ち

 

ながら飲み食いをし、ある程度、皆さんのお腹がくちたとき、小屋建設のときの色々

なスナップ写真のスライドが榊本さん操る映写機で玉岡さん解説のもと、舞台の大き

な銀幕に次々と映されていきました。(宴席で隣にいた堂田さんの話では、写真撮影係

りも兼ねていた榊本さんは席のあたたまる時が無かったということでした)

 下からのボッカ、樹木の伐採、建設工事の中で最大の労力を強いられた岩盤切削作

業、ヘリポートとした谷間の空き地で資材をモッコに梱包する作業、セメント、バラ

ス類を各袋、規定の重量になるよう軽量計で厳格にはかって出し入れする作業、棟上

式、大工の棟梁の指示のもとの大工仕事、これらは大工の棟梁1人を除けばすべて素

人集団による作業だったのです。

 それらのスナップの中に、既に鬼籍に入られたメンバーたちの懐かしい姿も見出さ

れ、見ている人たちから「〇〇さんよ」「△△さんよ」と上がる声がそのたびにしてお

りましたが、この10年間に12人の方々が亡くなっており、祝賀会の冒頭に山上さ

んがその一人、一人の名前と没年月日を読み上げる中それら物故者への黙祷をささげ

たのでした。

 特に小屋完成の2年後に43歳の若さで八ヶ岳で遭難死した神戸の登山家山本泰彦

氏が発電機を背負子にくくりつけて登山口の階段を登って行く写真は胸がつまるよう

な思いをしました。

 玉岡さんと山で偶然出会っただけの間柄なのに、山本さんは玉岡さんの熱意にいた

く共感し、何十度と助っ人にやってきてくれ、彼の抜群の強力ぶりでどれほど多くの

重量のある物資が山上に担ぎ上げられたことでしょうか。その突然の死を知った時の

玉岡さんの激しい慟哭の思いを知っている私は、それらすべてが思い起こされ、涙が

出そうになったのです。

 玉岡さんはその一周忌に有志のメンバーを引き連れて八ヶ岳に登り、山本さんが転

落死した場所にケルンを築いて追悼式をやり、一昨年の六回忌の折にも再度、追悼登

山をしています。

 また関西に来る折りを利用しては神戸の山本さん宅を表敬訪問したり、3年前に芦

屋における山彦関西支部の忘年会に玉岡、山上その他何人かの新宮メンバーを招待し

たとき、山本未亡人も招くことを希望され、奥様が出席するという機会も作るなど、

亡き山本さんの恩義を忘れずに現在に至るまで奥様のことを常に心にかけ続けてこら

れているのです。

 人情、紙のごとく薄し、と言われるご時世ですが、山彦はこの玉岡さんというリー

ダーのような心意気を持った人たちで溢れかえっており、そこに私は深く魅了される

からこそ、遠隔の地、熊野の山岳グループとのおつきあいに入り浸る次第なのです。

 スライド映写の後、玉岡さんの指名で何人かの人たちが建設工事におけるエピソー

ドを話すことになり、やがて私の番が回ってきました。

 前もって玉岡、山上のご両人に、林谷さんから誰もが知らないある感動的なエピソ

ードを聞き、林谷さん自身がメモ書きしたメッセージをも預かってきたので、と話し

ていたものですから、私だけ、前に出てメインマイクで語るように指示され、かつ、

「皆さん、森脇さんがとっておきの感動的エピソードを披露しますから、どうかご清

 

聴を願います」と飲食でざわついている会衆に山上さんは呼びかけてくれました。

 私は、緊張して林谷さんの気持ちをうまく伝えられないことを恐れ、スピーチの内

容を書いた原稿をそのまま読むことを了解してもらい、読み始めました。思っていた

以上に私は落ちついており、抑揚をつけてかなり上手く読み上げることができたと思

います(だよね、堂田さん?)。

 それは下記のようなものです。

 

 今日、この席に本来ご一緒しているはずでした山伏の林谷諦心さんは、持病の心筋

梗塞の発作がでまして、残念ながら欠席となりました。

 私、一昨日、大阪吹田市の国立循環病センターに林谷さんをお見舞いに行ってきた

のですが、10周年記念祝賀会に出られないことをひどく残念がった林谷さんは私に

スピーチを託されましたので、それをここで披露したいと思います。

 

 行仙宿小屋建設の大事業の中での最大のヤマ場は、ヘリコプターによる建築資材の

荷揚げでした。建設資金のかなりの部分がこのヘリコプターを飛ばすことについやさ

れ、もし、この2日間にわたる荷揚げに齟齬をきたすと、資金的に建設事業は続行不

能となることが予測されたからです。

 ヘリコプターが地上の資材集積所から荷物を吊り上げて、佐田の辻まで運んでき、

地面の上に降ろして、また戻って行く往復の時間はわずか4分で、この間に周囲で待

機している全員ですばやく荷物をほどいて撤去する。実に迅速な行動が要求されます。

 準備整い、いよいよ荷揚げの時となって最初にヘリコプターが飛んでくるのを全員

かたずを飲んで待つ時、林谷さんは叫んだのでした。「玉岡さん!ゼット旗をあげねば

なりませんぞ!」と。この状況がまさにこの大事業における日露戦争の日本海海戦と

でもいうべきものであると林谷さんは考えられたのです。

 2日間にわたって93回、ヘリコプターは往来し、荷揚げ作業は無事に終わりまし

た。そしてこの後、林谷さんが目撃したことは誰一人知ることの無いエピソードでし

て、この祝賀会の席でそれを是非、披露して欲しいというのが林谷さんの最大の願い

だったのです。

 荷揚げ作業がすべて終わって皆さんが休憩されているとき、玉岡さんが、掘り崩し

ていった岩盤を一人登って行く姿を見かけ、小用をたしに行くのだな、よし、それな

ら私も連れしょんにお供しようと、林谷さんは後をおっかけていったのです。ところ

が岩盤に隠れた向こう側で玉岡さんがしゃがみ込んで顔を両手でおおっている姿を発

見したのです。林谷さんはただ、黙ってその場を立ち去りました。

 ここからは、一昨日、病院の待ち合わせ室で林谷さんが直接メモ書きされたものを

読ませていただきます。

 

(実はこれ以下の文もワープロ文書に印刷していたのですが、劇的効果を狙い、おも

むろにふところから林谷さんが記した手帳のページを切り取ったものを取り出し、読

み上げたのでした。それくらい私は落ちついておりました)

 

  暮れなずむ 行仙の峯に立ちて男一人、号泣するのであった。

 今西錦司先生との約定、羽衣会の前田勇一先生との約定、

 すべての奥駈を歩んだ行者、ハイカーの悲願を今果たした

 あとは木下棟梁はじめ皆さんの活躍に待つとしても

 乱気流舞う南大峯にヘリコプターを飛ばす壮挙。いま果たしえて

 一人の負傷者もなく役ノ行者、実利行者、大峯諸天善神のご加護を得た

 それは熱き熱き男、玉岡の涙であった

 

以上です。

 拍手の中、席に戻っていくとき、私の席近くに座っておられた塩川さんの奥様が私

をじっと見つめられるその眼が印象的でした。

 エピソード披露が終わってからは、酒やビール瓶を片手に皆さん、てんでに席を移

動しては個別に語ったり飲んだりの宴たけなわとなりましたが、最後に恒例の踊りが

始まり、熊野なのになぜか炭坑節を歌いながら、大きな輪を作って踊りだすころには

もう、場の盛り上がりは最高潮となって塩川さんまで輪の中に加わってきました。

 最高に良い気分に大いに酔っぱらった私は、ドジョウすくいから阿波踊り、と踊り

まくり、見ていたご婦人たちから「森脇さ〜ん、かっこいい」と声援を送られて調子

に乗ってしまい、その一人を強引に誘って輪の真中に飛び出、タンゴの真似をしだす

やらいつものごとくハチャメチャぶりを発揮したものでした。こうして祝賀会は延々

と続き、終了したのは午後10時でございました。

 帰宅組との名残惜しいお別れを玄関ですませた後、泊り組40名のうち20数名ほ

どで、この後、場所を変えて、2次会、3次会と宴は続いたのですが、その模様までア

ルバトロスクラブの皆様にお伝えするのはあまりにも憚られ、それは割愛いたします。

しかし、私にとっては生涯忘れられないような思い出となる祝賀会でございました。

いつかこの世を去る時が来た時、私は必ずやこの日のことを思い浮かべることでしょ

う。

 長々のメール、申し訳ありませんでした。