熊野修験大峯奥駈・第2回目 H13.05.12〜13
前回の奥駈は本宮旧大社跡(和歌山県東牟婁郡本宮町)から玉置神社(奈良県吉野郡
十津川村)までの一日行程でしたが、今回は、玉置神社から前鬼(奈良県吉野郡下北
山村)までの行程を1泊2日で歩くものです。
今回は山小屋の収容人数の関係上、なるべく初参加の人を優先しながら申込先着順で
参加者を48名に制限しました。(関東のマホさん、マスミさん姉妹がワンタッチの差
で参加できなくなったのは私個人としては本当に残念な気持ちでした)
11日午後から、小田氏と芳谷氏の3人で私たちは玉置神社に向かいました。
芳谷氏は前回、奥駈を終えた我々を暖かく自宅に迎えて泊めて下さった蕎麦屋「マル
イチ」の店主で、今回奥駈に初めて参加されます。
翌日の弁当も作って下さいました。
奥駈第1日目
朝5時に起床。まだ完全に明るくはなっておりませんでしたが、玉置神社の宿坊の窓
から見る巨木の杉林の隙間から見られる空は上天気を伺わせるもので、清々しい気分
に充たされました。
玉置神社の職員が前夜に作ってくれた朝食を食し終えた後、私は早々に山伏装束に着
替え、仲間たちよりも一足早く外に出て早朝の玉置神社境内を散策いたしました。
本殿です。境内はシャクナゲが咲き乱れており、それは見事なものでした。
今日、明日とシャクナゲ祭りがあるそうです。
右手前が宿坊の屋根です。右向こうの建物は旧宿坊らしく、今は使用されていないよ
うです。
玉置神社から10分ほど歩いたところの駐車場へ行ってみると、参加者を満載した小
型バスやワゴン車がすでに到着しており、馴染みの人達との挨拶を終えた後、結団式
を行います。
2列に並んで、それぞれ自己紹介。新潟から来た女性もおりました。
導師高木亮英師(那智青岸渡寺副住職)の挨拶があり、先頭先達の私が山行中の注意
事項を話した後、出発のホラ貝の音の響く中、修験団は玉置山山頂を目指します。
明るい樹林の中のゆるやかな道をたどって玉置山頂上に着きました。
あたり一面シャクナゲが群生しておりますが、これは人工的に植えたもので、南部大
峯の名山、玉置山頂を公園のような雰囲気にしてしまったきらいがなきにしもあらず。
しかし、山頂からの東方面の眺めは素晴らしく、熊野の山々が見渡せます。
山頂における今回最初の勤行です。
修験道の大峯奥駈修行は、ただ山の中を歩行するのではなく、峰中に散在する靡(な
びき)という霊場で勤行をするのですが、全部で75箇所あり、これを「大峯の75
靡」と称します。
そのうち、本宮大社(第1靡)、那智大社(第2靡)、新宮大社(第3靡)は大峯山
中以外の地にあり、最後の第75靡・柳の宿は吉野川の河畔にありますが、他は全部
大峯山中に散在します。玉置山は第10靡です。
勤行は、最初に法螺師たちがホラ貝を吹き鳴らし、導師が気迫のこもった声で「臨!
兵!闘!者!皆!陣!列!在!前!」の魔除けの九字の呪文を叫びながら手刀を切る
ようにして印を切り、その後、導師の主導によって「がしゃくしょぞうしょあくご〜かいゆ〜む〜
し〜とんじんち、じゅうしんごいししょしょういっさいが〜こんかいさんげ(我昔所
造諸悪業。皆由無始貪瞋痴。従身語意之所生。一切我今皆懺悔)」の懺悔文を一同唱和
し、次ぎに「むじょうじんじんみみょうほうひゃくせんまんごうなんそうぐう〜、が
こんけんもんとくじゅうじ、がんげにょらいしんじつぎ〜(無上甚深微妙法。百千万
劫難遭遇。我今見聞得受持。願解如来真実義)」の開経偈を唱えた後、般若心経を誦経
しますが、このとき錫杖を一緒に振るのです。
心経を終えた後、諸仏の真言(マントラー)を唱えるのですが、大日如来(アビラウ
ンケンバサラダトバン)に始まる釈迦如来、阿弥陀如来、観世音菩薩などの諸仏の真
言は23もあり、それらすべてを唱えていたらとても明るいうちに山小屋に到達でき
ませんので、熊野修験では不動明王の真言と役ノ行者の真言、神号、そして諸仏を総
括する真言だけにとどめます。
不動明王の真言は天台系の熊野修験では「な〜まくさ〜まんだ、ば〜さらなん、せん
だんま〜かろしゃ〜な、そやたやうんたらたんかんまん」と発音しますが、醍醐寺三
宝院などの真言系では出だしが「の〜まくさ〜まんだ」となります。
今回の奥駈には真言系の葛城修験の行者も一人参加していたのですが、天台系流に合
わせて下さったようでした。熊野修験は宗派なぞ関係なく受け入れる大らかさが特徴
で、「皆さんが分け隔てなく接してくれるので感激しました」とその真言系の行者は言
っておられました。
真言唱名が終わると勤行の最後を本覚讃唱名で締めくくり、この時ホラ貝が一斉に吹
き鳴らされます。
この勤行は約8分ほどかかります。
勤行が終わると、ここから修験団は二つに別れて出発します。
今までの奥駈では玉置山から歩行10時間の所にある行仙宿小屋に全員泊まっていた
のですが、年々参加者が増えてきて、このコースを一度も歩いていない人も多く、少
しでも参加者を増やすために今回から二つの山小屋に分けて宿泊することに決めたの
です。
一つは従来からの定宿である行仙宿小屋(40人収容)、もう一つは行仙宿小屋からさ
らに3時間半行程先にある持経宿小屋(20人収容)で、3時間半余分に歩行しなけ
ればならない持経宿組には健脚の者ばかりを18人選んでここ玉置山山頂から先に出
発してもらい、行仙宿組の初参加者全員を含む残り30人は私が率いてゆっくりと行
くことになったのです。
玉置山から持経宿までの行程は奥駈一の長丁場です。
玉置山頂からはゆるやかな下り道を歩くという楽な歩行でして、やがて花折塚に着き
ます。南北朝動乱の時代、後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王が鎌倉勢に追われて吉野から
玉置山に落ち延びて来たとき、このあたりの豪族玉木氏が鎌倉方について大塔宮を襲
ってきたので、宮一行を逃げさせるために家来の片岡八郎が一人玉木勢と戦って討ち
死にした所です。「太平記・巻五の大搭宮熊野落」にこのエピソードが記載されており
ます。
その後、ここを通過する人達が片岡八郎を悼んで花を供えたことから花折塚という名
がついたのこと。
いつもは勤行して八郎の冥福を祈るだけだったのですが、今回は田辺市から来た早稲
田さんという行者が花を密かに持参してきており、供えているのを見て私は大変感動
いたしました。
前半は多少の登り下りはあってもおおむね玉置山(1078m)からの下り道でしたが、
昼食休憩以降は香精山(1121m)、地蔵岳(1250m)を越えて南大峯の名山、笠捨山
(1352m)への登りの道となります。
地蔵岳は痩せ尾根の険しい大峯有数の難所として知られたところですが、山が近づい
てきたとき、山腹に赤い花々が咲いているのを見て我々は、シャクナゲがあんなに咲
いている!と喜びました。(地蔵岳はシャクナゲの名所なのです)
ところがそばまで行ってみると、なんと、それはアケボノツツジだったのです。
「うわー、きれい!」「私、初めて見ました」とみんな口々に歓声をあげておりました。
私は大峯を何十度となく歩いておりますが、アケボノツツジに出逢うことはあんまり
無く、このように一面に咲いているのを見たのは初めてのことでした。
地蔵岳第一のクサリ場です。
地蔵岳は岩場と木の根っこのはい回る痩せ尾根の連続で、同行したNHKのビデオカ
メラマンにここは大峯らしいところだから是非、撮っておくようにと先にクサリ場の
崖の上に上がってもらいました。
第二のクサリ場です。ここはほぼ垂直に登っていくところで、鞍部をはさんだこちら
の岩場の上にカメラマンに待機してもらい、導師が登って行くところを写してもらい
ました。この録画は6月ころに熊野という特集で4分間ほど放映されるということです。
料理の腕と車の運転はプロであるまるいちの大将もここでは初心者、必死に登ってい
きます。
岩場を登り切った奥の狭い尾根から見た眺めです。
笠捨山の頂上直下です。ブナやヒメシャラ(右端の橙色の木)が林立しております。
仙ヶ岳という名の山だったのですが、西行が奥駈に参加したときにこの登りに難儀し
て笠を捨てたことから笠捨山と名付けられたそうです。
そう言えば西行は大峯山中で沢山の歌を詠んでいるのに笠捨山での歌がありません。
(私の知る限り)
右側が笠捨山主峰です。
笠捨山をだいぶ下りてきたときに空が急に曇りだし、ときおり雷鳴もしだしました。
笠捨山の下りが終わるとすぐに今夜の宿、行仙宿小屋に到着いたします。
到着は午後5時15分。(持経宿組は午後3時半にここを発ったとのことでした)
9時間45分の歩行に全員疲労しきっておりますが、最後の行、水汲み行がまだ残っ
ております。小屋から往復30分かけて急峻な坂を下り、谷間の水場に水を汲みに行
く行でして、空身で下りていくときはいいのですが、登りはもうヘトヘト。喋る元気
もありません。
しかし、先発隊はまだこの先の持経宿小屋まで3時間半も歩くのですから弱音は吐け
ません。
奥駈中は禁酒ですが、酒が無くとも夕食の美味しかったこと!
今夜の夕食の材料はすべて新宮山彦ぐるーぷと青岸渡寺関係者7人が下の林道からの
急坂を30分かけて担ぎ上げたのです。
新宮山彦ぐるーぷの世話役代表、玉岡憲明氏(76歳)です。
銀行マンでありながら転勤を一切拒否し、停年まで平で通したという信念の人です。
明治以降、昭和50年代まで完全に廃道となっていた南部大峯の奥駈道を新宮山彦ぐ
るーぷのメンバーを率いて刈り拓け、今では誰もが安全に歩ける立派な登山道にしま
した。
足かけ3年に渡るその刈り拓け行を我々は‘千日刈り峰行’と称しております。
玉岡氏と新宮山彦ぐるーぷは奥駈の道の復興だけではなく、玉置山から持経宿小屋ま
での行程があまりにも長すぎるのを憂慮し、吉野、熊野、京都の各修験寺院や多くの
有志たちから1800万円の浄財を募り、ここ行仙宿に山小屋を建てたのでした。
また、我々熊野修験団だけでなく、他の修験団の奥駈の折りにも途中落伍する人達を
山から連れ降ろしたり、行仙宿小屋における食事の世話などの接待をするなど、まさ
に奉仕と南部大峯の管理を一手に引き受けているのが玉岡氏率いる新宮山彦ぐるーぷ
なのです。
私が熊野修験と出会ったり、アルバトロス・クラブと出会ったのもすべて玉岡氏と巡
り会ったことがきっかけでして、15年前に大峯で新宮山彦ぐるーぷの人と知り合わ
なかったら私のその後の人生は今とは相当違ったものになったことでしょう。
人格高潔で実行力のある玉岡氏は私の人生と人生観を大きく変えた人です。