修験道の旅・人との心の触れあいの旅(大峯奥駈修行レポート)

奥駈春の峯入り

5/1 2001

大峯奥駈とは紀伊半島の背骨とも言われる大峯山脈を和歌山県本宮町から奈良県吉野
町までの平面距離90キロの行程を途中の行場、霊場で勤行していきながら歩き通す
山岳修験道の代表的な修行の一つです。
大峯山脈は、本宮町の熊野川河畔あたりでは海抜100メートルくらいの低い丘陵か
ら始まって様々な起伏を経ながら最高点八経ヶ岳で1950mとの高さとなり、北に進む
に連れて徐々に標高を下げ、女人禁制の山上ヶ岳、桜の吉野山を経て吉野川のたもと
で終わりとなります。
紀伊半島の代表的な河川、熊野川(途中で十津川と名を変える)と吉野川(和歌山県
内では紀ノ川と名を変える)の二つに接する大峯山脈は関西を代表する山域だと私は
思っており誇りにしております。
全行程を走破するには5泊6日の日数を要しますが、一般社会人の参加を広く呼びか
けている我らが熊野修験団(那智山青岸渡寺副住職・高木亮英師主宰)は全行程を日
帰り、1泊2日、2泊3日の3回に分けて、4月、5月、9月に実施しております。
4月14日実施の今回は大峯最南端部の本宮町から出発し、玉置神社がある玉置山ま
での日帰りコースなのですが、我々大阪から参加するものは前日に現地に入っておか
なければならないため、4月13日午後にM・リエさんと一緒に大阪を車で出発いた
しました。

 
本宮町に着いたのが、午後の8時。旧本宮大社跡そばの熊野川河原にテントを張り、
ここで夜営しました。
ここで落ち合い、一緒に夜営した小田さんは熊野修験団の重要な行者なのですが、あ
いにく足首捻挫のために今回はサポート隊に回ることになりました。
彼は学生時代、社会人・学生の空手選手権でチャンピオンになったことのある豪の者
でして、信義に篤く、男気にあふれたその人間性は多くの人を魅了し、私たちは義兄
弟の盃を交わしております。


奥駈参加者はこの熊野川河原に集合となっておりましたので、やがてアルバトロス・
クラブの仲間たちがやってまいりました。
左から田辺市のカツラさん、東京から来た姉妹であるマホさん、マスミさん、大阪の
リエさんです。

 
修験道のマスコットガール・マスミさん。

彼女は2年前に初めて奥駈に参加して以来魅了され、昨年は女人禁制の山上ヶ岳を除
くすべての奥駈道を走破し、立志神社柴灯護摩にも2年連続参加して神社近くの山中
での滝行にも男達の中の紅一点として参加、そして私が紹介した小田原の役行者のお
寺も訪ねていって役師の指導で足柄山での滝行、小田原市内での托鉢行などもやると
いう今どきちょっといないお嬢さんです。
母親と姉が奥駈に参加したのも彼女のあまりの思い入れの強さに惹かれたとのこと。
天真爛漫で性格が良く、底抜けに明るいマスミさんは今や、熊野、吉野、近江、小田
原の修験者たちの間で絶大なる愛情と支持を受けております。私にとっても自慢の大
切な娘の一人でございます。

奥駈修験団結団式

今回は峰中に入る人数としては過去最高の104名の参加者。
9時間に及ぶ山歩き、しかも場所によっては狭い尾根の険しい登り降りの続く大峯山
中を104名も無事に連れていくことができるものか、といささか緊張しましたが、
過去8年間、先頭先達を勤めてきた私は、今までの実績から落伍者はどんなに悪くと
も10名を越えることはない、大丈夫、大丈夫、と自分自身に言い聞かせながら出発
したのでした。




対岸の大峯最南端部にとりつくため、全員、熊野川を渡渉します。
104人が一斉に川の中にざぶざぶと入っていく様は壮観でして、ガンジス川の光景
もかくやと連想してしまいます。


「たちのぼる 月の辺り雲消えて 光重ぬる七越の峰」と西行が山家集に歌っている
七越の峰のジグザグ登りです。隊列の最後尾ははるか下の方で写真には写りません。


小学校4年生の男の子もお父さんに連れられて参加しており、大人たちの心を和ませ
てくれました。この少年ともう一人の5年生の少年も最後までばてることなく走破い
たしました。


七越の峰頂上で地元テレビ報道陣の要望によってビデオ撮影される法螺師たち。
腕時計も鉢巻きもウエストバッグもイメージを崩すからと全部外させられ、なかなか

に手間のかかる撮影でした。ありのままの方がリアルでいいと思うのですがね。
ここから到着点直前の大森山山頂まで写真はありません。
「列を乱さない!」「足元注意!」「間隔をあけない!」「危険地帯!気を引き締めて!」
など厳しいかけ声をしょっちゅうかける先達の私が行中、しょっちゅう振り向いてデ
ジカメをかまえていたら示しがつかないので撮れなかったのです。
後で、高校同窓会のHPに掲載することを知った導師の高木亮英師は「それなら気に
せずにもっと核心部を撮ってくれたら良かったのに!」と残念がっておられました。


このコース中、苦しい登りが続く最後の大きな山、大森山頂上です。
ここでは最後尾がかなり遅れて到着するくらい各自の疲労度の差が大きく出てくると
ころで、全員揃うのを待つため、30分の休憩をとります。


アルバトロス・クラブの仲間たちだけで記念写真。(リエさんはそばにいなかった)
若者たちはさすがに強く、マホさん、マスミさんの姉妹は夜行バスで来てそのまま参
加というのにケロッとした顔をしております。
丸坊主の一見本職の青年僧侶かと見間違えるハナイさんは大手洗剤会社の研究室に勤
務しているサラリーマンです。今の若者たちの中にこんな人がまだいるのか、と思う
くらい素晴らしい青年で、昨年12月に結婚しました。私はこの青年のクローン人間
をたくさん作って知り合いの多くのお嬢さん達と結婚させたい欲求にいつも駆られま
す。(危ない発言ですが)

マホさん、マスミさん姉妹もハナイさんを最良の兄と思っており、あまりにも慕って
いきますので、「君たち、アケミさんという奥さんがいるのだからもう独身時代のよう
に接してはダメだよ」と注意しなければならないくらいです。気持ちはよ〜く、解る
のですが。
右端のカツラさんは田辺市の地方紙記者で、最初、奥駈の取材のために参加してきた
のですが、私の奥駈記録文を読んでA4判9ページの手紙を下さったことから急激に
親しくなり、親子ほど歳が離れているにもかかわらず、「アニキ、アニキ」と慕ってく
れます。
そして左端の松下チエさん(熟年ゆえに私と同じくさすがに疲れが出てきておりまし
たが)はわかやま絵本の会という団体を主宰する女性で、ご自身、素敵なタッチの挿
し絵の絵本を多く出版してきております。特に「役ノ行者物語」が私は好きです。


最終地、玉置神社に着きました。
玉置神社は標高1076mの玉置山の頂上近くに鎮座する古い神社で創建は崇神天皇の
時代と伝わっているそうで、樹齢3000年と言われる神代杉などの巨木の杉に囲ま
れたこの境内は非常に霊気を感じるところです。
宿坊の極彩色のふすま絵も素晴らしく、以前は登山者達をこれらの部屋に宿泊させて
いたそうですが、彼らの自炊する湯気などでふすま絵が傷むということで、今は別の
部屋にしか泊まれなくなってます。
私も何度もここの宿坊に泊まりましたが、夕暮れや明け方の窓から見られる巨大な杉
林は心の浄化されるような何とも言えぬ安らかな気持ちにさせてくれます。
明治時代初期の廃仏毀釈が徹底的に行われた十津川村の全村民の信仰を受けて玉置神
社は存在し続けてきており、それは今も変わらぬようです。
私はここで立志神社柴灯護摩供えに護摩木を奉納してくださった人達の身体安全を祈
り、妹尾編集長、興平殿、由紀子さんらよいよい会に無くてはならないビッグスリー
の身体安全、そして飛行機に乗る機会の多い江口君、下川君が乗る飛行機が決して気
づくことの無いよう祈願いたしました。
私の神頼みを笑ってはいけませんよ。

ジャズライブの横田君も肺ガンの手術をしたとき、ここ玉置神社と行仙宿お堂という
大峯の二霊場で導師にお願いして祈願してもらったら、彼は7年後の今も元気に生き
続けているのですから。
合掌して祈願するのは、そうあれかし、と思って計り知ることのできない大きな存在
の前で敬虔な気持ちになることに大きな意義があると私は信じております。
玉置神社は他の風景を写しておりませんので、インターネットで見つけたHPの写真
を転載させてもらいました。

玉置神社襖絵

玉置神社宮司です。

丁重なご挨拶をいただいたのですが、そのご挨拶がいささか長くなりまして、吉野ま
での帰りを控えている私らが焦りだした頃に、「このような山中に起居しておりますの
で、皆さんがたにお会いするとつい人恋しさの思いに引きずられ、ご挨拶が長くなり
ました。深くお詫び申し上げます」と言われるものですからいっぺんにこの人間くさ
い宮司さんが好きになってしまいました。


解散式の後、例のごとくアルバトロス・クラブメンバーで撮った記念写真です。
104名の参加者中、2名の落伍のみで走破できたことはかなりの上首尾の奥駈でし
た。カンカン照りでもなく、雨天でもないほどよい天候に恵まれたことが一番の要因
だったと思います。
午後6時半、玉置神社を後にして駐車場に着いてみると貸し切りバスが3台控えてお
り、サポート隊の新宮山彦ぐるーぷのメンバーがコーヒーやお茶にぜんざいなどを用
意してくれているのですが、先を急ぐ私はマホさん、マスミさん、リエさんをせきた
てて小田さんが回送してくれた私の車に乗り込み、小田さんの運転で一路吉野に向か
いました。
「宮司の話しが長すぎたな。このまま走っても吉野の蕎麦屋に着くのは8時半ころに
なるから、温泉はもう諦めてもらわなければならない」と言ってレーサーを志したこ
とのある小田さんはもの凄いスピードで車を走らせるのでとうとうリエさん、マスミ
さんが車酔いし、リエさんは吉野到着直前で車外に出て嘔吐する始末。

そして8時半きっかりに吉野の蕎麦屋・丸一に到着。
3日後のよいよい会吉野山ツアーの帰りに昼食をとった店であります。
お酒はやめておきます、と言っていたリエさんも冷たい梅おろしうどんを食べると急
に元気になってき、途中からビールもお酒も口にするようになりました。


お腹もすっかり満腹となったころ、私らの強い要望に最初は断り続けてきたリエさん
が立ち上がり、口でハミングをとりながらインド舞踊を披露してくれました。
リエさんの踊りに誘発されて、マホさんもバリダンスを披露してくれます。

マホさんは外務省の某下部組織で働く東大出の才媛なのですが、おっとりとした性格
にどこか抜けているようなところがあるという何とも言えぬ愛嬌さを持った女性でし
て、一緒に居るとこちらまでポワーンと‘おっとり’モードにはまってしまう不思議
さを醸し出します。
それでいて非常に廉潔な性分でして、こんなエピソードがありました。
2年前のことですが、夜中の9時ころに突然、彼女から電話が入り、まだ職場なんで
すが明日からインド出張なので、今日中にお伝えしなければならないことがあります、
と言ったきり、電話がぷつんと切れるのです。
急いでこちらから職場の方に電話すると男性の声で、彼女は今席を外している、とい
う返事なのです。そしてしばらくするとまた彼女からの電話。「すみません、公衆電話
なもんで、小銭が切れちゃった」と言うので、携帯電話を持たない彼女が私用の電話
をするときは事務所を抜け出し、ビルの最上階から一階の公衆電話のところまで降り
てくることを初めて知ったわけでした。
テレホンカードも持たずに大阪まで電話してくるところが彼女の楽しいところでして、
このような抜けたところがあることに誰もがいかにもマホさんらしい、と言って彼女
を愛するのだろうと思いました。
出張で訪れたフィリピンのバナハウ山いう霊山に彼女は深い感銘を受け、私を除く今
日参加したアルバトロス・クラブメンバー全員を誘ってバナハウ巡礼の旅に去年出か
けたのです。そのときハナイさんは山伏装束で行ったそうで、恐らくフィリピンを姿
を現した最初の山伏ではないでしょうか。
蕎麦屋丸一のオーナーは小田さんの友人でして、今夜はこの店でごろ寝させてもらう
つもりだったのですが、奥様が風呂も入らなければ女性達が可哀想だから家の方に泊
まって下さい、としきりに勧めてくださるので我々はそのご厚意に甘えることにし、

小田さんと別れて店から車で5分ほど走ったところの素晴らしく立派な造りのオーナ
ーの家にお世話になりました。
広い居間の掘り炬燵に入っておられたパジャマ姿のお母様が「まあまあ、こんな格好
でお迎えして失礼ですが、よくお出でいただきました」とご挨拶されるので、「いえ、
私もこのようなけったいな格好で参っておりますので」と装束姿を詫びますと、お母
様も我らが女性陣達も爆笑してしまいました。
いかにも世話好きでおおらかな気風のご婦人で、女性達に「貴女がたのような若いお
嬢さん達が奥駈修行をされるとは今の世の中も捨てたもんじゃないですね。本当に素
晴らしいことですよ」と言ってくださり、私も誇らしかったです。
次々とお風呂に浸からせてもらい、私たちは午後11時には就寝につくことができま
した。

翌日は滋賀県立志神社に向かう我々が早朝に出立することを知ったオーナーの奥様が、
朝は私たちはゆっくり寝るので何もご接待をしてあげられないけれど玄関の鍵を開け
てお好きな時間にお出かけくださいね、と言ってくださったので、我々は午前5時半
に起床し、ご夫婦にはお礼の置き手紙をして6時、立志神社に向けて出発したのでし
た。
滋賀県甲賀郡三雲までは約100キロの行程でしたが、西名阪道路のおかげで途中の
パーキングで朝食をゆっくり取ってなおかつ集合時間の30分前に立志神社に到着す
ることができました。
社殿の中の一室に導かれると新宮山彦ぐるーぷの面々、小田原の役師と藤沢市の堀端
さんもすでに山伏装束に着替えており、別室でリエさんたちが神社関係の女性達に手
伝ってもらいながら巫女姿に着替える間、私も山伏装束に着替えたのでした。
昨日の奥駈は肌寒い天候だったおかげでそう汗もかいておらず、汗くさい臭いもない
まま儀式に臨めるのが嬉しかったです。


巫女姿の我が娘達。
巫女装束に扮したリエさん、マホさん、マスミさんが姿を現したときの私の歓喜の気
持ちは我が娘のウエディングドレス姿を見たようなものでした。
去年に続いて二度目のマスミさんはともかく、マホさんとリエさんの光り輝くような
はしゃぎようは我ら男性陣にも多大なる感銘を与えるものでした。
特に神社に対して異常な関心を示すリエさんは、夢にまで見た巫女姿を実際に実現で
きようとは、と感激ただならぬ様子でした。
私は社殿の祭壇前に彼女らを誘い、記念写真を撮ったところ、なんとその一枚で我が
デジカメはバッテリーの充電が尽きてしまったのです。
従って、これ以降の立志神社柴灯護摩供えの写真を提供することができなくなりまし
た。
その後の模様は来年の柴灯護摩供え時の撮影を期待してお待ちください。

(これ以上書くのも少々疲れてきました)




代わりに立志神社の人から送ってきた写真を掲載いたします。
柴灯護摩供えの儀式を終えた後の午後12時半、我らはなおらいという打ち上げの宴
会には出席せず立志神社を後にし、2時間のドライブを経て新大阪駅で我が愛すべき
娘達とお別れしたのでした。