常照皇寺紀行 4/25 2001

 「そうだ、生っさん、常照皇寺に行きましょうよ!」

 庸っさんが言いだしたのは、車が蹴上げを過ぎて京都の町並みにかかった頃だった。普
段は、もうおたがいに一丁前の和尚になっているから、「清楽寺さん」「正統院さん」と呼び
合っているのだが、同参会で一昼夜を過ごしていると昔の雲水時代の呼び方がつい出てし
まうのだ。禅宗坊主には、修業をひととおりすませて和尚になるまでは諱(いみな)しかない。
僧堂ではその諱の上一字は重複することが多いので下一字で呼ばれる。それをさらに短く
促音して呼ぶ。だから、私は紹生(ジョウショウ)で「しょっさん」、鎌倉の正統院和尚は文庸
(ブンヨウ)で「よっさん」になる。だが、この車のもう一人の和尚、この人は如何にも東京人ら
しくシャイで無駄口をほとんどきかないのだが、谷中臨江寺和尚の場合はさすがに宗信「しん
さん」と、そのままだ。
ちなみに、この車の持ち主、真珠庵の住職は義正(ギショウ)で、本来なら「しょっさん」と呼ば
れるところなのだが、同音の私が先に入門していた為に、私がいる間は義乗(ギジョウ)と改
名して「じょっさん」になっていた。

 世間で同窓という関係を、僧堂の場合は同じ師に参禅する意味で同参という。私達三人は、
昨日からその同参会で、二十数名が大津堅田のはずれの或る寺に集まり、浮御堂に参り、
雄琴温泉に泊まり、今日午前中は安土城址、総見寺に詣で、坂本の鶴喜蕎麦で昼食をしたた
めたところで解散し、所用で先に帰った真珠庵さんがおいていった車で京都へ出てきたところ。
三人とも夕刻まで暇なのでドライヴでもしようかということになり、さて、それでは何処へ行く?
と首をひねった時だった。

 「常照皇寺。良いなぁ、それにしよう!」
 「で、何処でしたっけ?」
 「なんだ、あんたも行ったことないのか。たしか、周山街道の北の方だろう。」
 「まてまて、地図があった筈だ。えーと、何処だ、何処だと。ああ、此処だ。」
 「うーん?と。これなら、丸太町を西へ行ってくれ。」
 「えーっ。丸太町は今わたってます。」
 「そんなら、今出川を西へまっすぐ行って、妙心寺の裏から御室の仁和寺前へ抜けて、福王子
 神社から右へ曲がるコースだな。」

 それ目当ての花見客でにぎわう枝垂れの八重桜も、「散りかけ」と表示のある仁和寺を右に見て、
福王子の交差点を左へとると道は登りにかかる。周山街道の始まりである。御経坂峠を越え清滝
川に出て対岸の高山寺を過ぎると両側の山は有名な北山杉の美林。長い中川トンネルと笠トンネル、
短い粟尾トンネルを抜けると京北町の中心地周山。ここで、今までの国道162号が477号と交差する。
この交差点に始めて常照皇寺を示す道路標識を見て一安心する。
右に折れ477号を更に、5キロ程でようやく到着。京都の市中から約1時間半。

 門前の広場には、今真っ盛りの枝垂れ桜。自然石の石段が叢林の中に上っていく、そのとば口に
案内板。開山は光厳上皇とある。実はこのときには、森脇君が掲示板に書いていたことはすっかり忘
れていた。帰宅して、此処にアクセスしてからハッと思い当たった次第。石段の途中に簡素な山門
脇には山桜が一本、木立の中にポッカリと咲いている。脚光をあびるように華々しく咲いている桜は
それとして、こんなひっそりした風情も好きだ。さらに登り、いよいよ庫裏前の中門にまた大きく天蓋を
さしかけたように咲いている
のは、一枝で一重と八重を咲かすという「御車返しの桜」。今はないが、
往時は牛車が上がれるような道があったのだろうかと思う。玄関で拝観料を納めて方丈前へ廻ると、
両手をひろげたような枝ぶりの古木の桜。御所から株分けしたという「左近の桜」。残念ながら、片手の
方は枯れていてるが、代りの若木がしっかりと花を付けている。方丈の右側が六十坪ばかりの庭になっ
ていて、そこに十米位の高さから桜の枝が覆いかぶさっている。よくみると樹は四本ばかりで、奥の一番
高みでまだしっかり花
をつけているのは普通の桜。真ん中で、やや低く、それでもけっこうな高さから長く
枝を垂れ、柳に桜を咲かせたような観があるのが、有名な「九重桜」。これはもう花は終わりに近く、名
残りだった。近づいてみると、花は清楚な一重桜。高いところから折り重なるように枝垂れ、枝垂れて咲き
下がる風情を{九重}と呼んだのだろうかと推う。
 花叢の下を巡り方丈の縁先に戻って驚いた。牡丹が四,五株、遠目には、縁に沿って植えられている
ように見えるが、株の根元は縁の下なのだ。縁の下に侍る花精が上半身を大きく乗り出しているかのよう。
普通は、湿気を避けるため床下はすっきりさせておくものだが、室内から近々と花を愛でるためにこのよう
なことをしたのかと思った。これを書いている今にして思えば、或は雪よけの意味もあるのではないかと
思い当たる。いづれにしても、花を慈しむ人のやさしさの顕れならんか。創建当時からの習わしで、光厳院
をなぐさめる為の思いつきかとも思ったが、まさかにそれはないだろう。この牡丹、月末あたりが見頃だろう。
森脇君、その気があれば見てきて下さい。

 方丈にあがって、また驚いた。本尊がない。いや、あった。なんと中央の仕切り壁に、まさに、祭り上げら
れている
のだ。四十畳ばかりの広間の中央に読経座はしつらえてあるが、他はなにもない。いかにも、すっ
きり広々だ。いながらにして表と裏の庭園を見通しよくするための仕掛けだろうか。なんとも思い切った仕業
ではある。そういえば、さっきの桜の庭の隅に位牌堂があって、普通なら本尊の両脇に祀る類いの位牌が
並んでいたのがこの為であったのかと判った。方丈から渡り廊下で繋がる開山堂も同じ趣向で、本尊や脇
侍の像達が高みのギャラリーから見下ろす形式であった。

  「こんなに花に囲まれて、静かな寺の住職も良いでしょうねぇ。」
  「そうさなぁ。でも、たしか開山さんは法皇さんだったろう。それこそ、配所の月だ。心のうちは穏やか
 ばかりじゃなかったろうさ。こんな花や紅葉も寂   しいのを紛らすためもあったんじゃないかなぁ。」
  「ああ、そうか。そうですよねぇ。ああ、まさに御座所ですよ。ほら、この方丈の隅が一段高くなってますよ。」

 庸っさんと何気なく交わしたこの会話。帰宅して、森脇君が書いた光厳院の文を読みなおせば、当たらず
と言えども遠からず、か。これも帰宅して思いだしたのだが、この寺の傍らに山国御陵という光厳院などを
祀った陵があって、近在の人たちがずっとお守りしていた。幕末期にその人たちが山国隊という勤王の組織
をつくり歴史の片隅に名を残していて、今でも時代祭には1グループで参加している、のではなかったろうか?
うろ憶えで定かでないが、、、。

 帰途は、別のルートを採る。寺の前から東に向けて、大布施、花背から鞍馬へ抜けるコースで走り出し
たのだが、大布施の手前から灰屋、芹生を経て貴船へ抜ける近道を採った。「せりお(せりょう)」なんぞ
というゆかしい地名に惹かれた為だった。芹生は、十軒たらずしかない寂た集落だが、庄屋挌だろうか台
杉と大きな桜の清雅な庭のある家を見かけた。常照皇寺の庫裏もそうだったが、この辺りは屋根が
「むくり」といって外にふくらんだカーブになっているのが多いようだ。理由は判らない。
京都市街の北、千米未満の低山が畳々と連なるこの北山一帯は大学時代、部活動でよく歩き回ったの
で懐かしい。その当時は地道だったのに、今はこんな山中でも車が通行しさえすれば舗装されている。
いやはや、何と言うべきか。狭い道で大型乗用車では苦しいコースだが、山岳ラリー気分で面白かった。

 京都にはあしかけ十一年居たのだが、今回は錦水亭とこの常照皇寺、いずれも機会にめぐまれて、
思わぬことから長年の借りをかえせたような心地。秋の常照皇寺は紅葉の名所でもあるそうで、機会が
あればまた訪れてみたいと思う。