9/28 2006掲載

よもやま話 Part4
 
朝鮮通信使  その一
 
 
朝鮮通信使と言えば、その名前だけはどなたもご存知と
思いますが、私もその一人で、韓国よもやま話をまとめる
中でたどり着いた朝鮮通信使の事実には驚き、感動しました。
 
江戸時代といえば鎖国の時代とばかり思っていましたのに、
隣国、韓国(朝鮮王朝)との間に国家レベルにおける善隣
友好の文化交流が200年に渡って、続けてこられて
いたのです。
 
しかも両国がこの交流に費やした費用は、現代のオリンピックや
サッカーのワールドカップにも匹敵するもので、それ以上に
両国の文化の交流が、相互理解に大きな影響を与えたという事実に
私は深い感動を覚えました。
 
現在日韓両国のぎくしゃくした関係を考えますときに、私たちの
祖先が多大な努力の上に成し遂げた事実を振り返ってみる意味は
あるのではないかと思い、ここに私が調べた朝鮮通信使の実体を
大雑把に紹介したいと思います。朝鮮通信使は二つの国家間の
一大文化イベントとして、規模の大きさや奥の深さから回を分けて
紹介したいと思います。
 
 
歴史的背景
 
朝鮮通信使といえば、江戸時代を連想される方が多いのではないかと
思いますが、15・6世紀の室町幕府でも行われ、日本と朝鮮の関係は
おおむね平和な交流関係が保たれて来ました。しかし天正13年(1585)
関白となった豊臣秀吉の、2度にわたる朝鮮出兵、いわゆる「文禄・
慶長の役」によって朝鮮国全土は荒廃し、前時代までの両国の良好な
友好関係は崩れ去ってしまっていました。
 
 
 
 
 (朝鮮通信使を描いた、洛中洛外図(左側全体))

徳川家康は豊臣氏を倒して政権を得たとき、秀吉の朝鮮遠征によって
壊された国交の回復の必要性を痛感していました。発足まもない
徳川幕府の安定のために、朝鮮や中国との交流を通して物資を流入させ、
情報を交換させることは重要なことで、この両国と友好関係を築くことが
できれば、国内外に威信を誇る貴重な機会になると考えました。
 
 
 
  (対馬)

一方、地形的に作物を育てるという環境に不向きで、特に穀物の
自給ができない対馬の人々は、朝鮮からの米を絶たれ、戦争に
よって交易が出来なくなることは死活問題でした。そこで対馬藩
では日本軍が撤退すると、すぐさま朝鮮の釜山に数回にわたり
使者を送りました。対馬藩は家康の意向を受けて朝鮮王朝との
国交回復の実現を必死で努力して来ました。
 
 
 
 (北岳山下の平地に広がる王宮、景福宮全図)

朝鮮王朝側は秀吉の朝鮮出兵の結果、その被害の大きさに対日感情は
悪化していました。しかし朝鮮王朝側にもその頃、朝鮮半島の背後で
後に明を滅ぼして清を建国する女真族が急激に勢力を伸ばしつつあり、
南方の日本との関係を修復することが、女真族に備える第一歩であると
考えるようになってきました。そのため国交回復を願う対馬藩に対して
条件をつけました。戦で捕虜となった朝鮮人の帰国、朝鮮王の墳墓を
暴いた犯人の送還、家康が先に国書を通じること、などでした。
 
 
 
  (千俵蒔山 外敵の来襲を知らせる烽火リレーの起点)

1390名の捕虜の帰国は実現したものの、残りふたつの実現は難しく、
苦慮した対馬藩は、対馬の罪人を犯人に仕立て上げて朝鮮に送り、
家康から先に国書を差し出すことは、相手国に従うことですから
幕府がこれに応ずることは困難でしたので、家康の国書を偽造する
というギリギリの外交交渉を行います。宗氏の国書偽造はそのあとも
絶えず続けられ、国書の偽造によって日朝の国交は回復にこぎつけました。
 
 
 
 (釜山市の町並やビルをはっきりと見える展望台)

国交回復を確実なものとするための対馬藩の国書の偽造は、朝鮮側使者も
文章の形式や内容などで、うすうす感じていましたが、それを黙認しました。
国書の偽造は日本でも後に発覚しますが、徳川幕府も黙認し、対馬藩必死の
国書偽造、改作により交渉をはじめて四年振りの、慶長12年(1607年)に
ようやく和平が成立し国交が回復しました。対馬藩のなみなみならぬ努力の
結果、1607年に総勢504名からなる、朝鮮通信使が初めて日本を訪れました。
「通信使」とは、対等な交隣関係を持つ国に「信(よしみ)を通ずる」という
意味で派遣する使節で、朝鮮王朝・徳川幕府・対馬藩が「持ちつ持たれつ」の
関係にあったから成立したといえます。
 
 
両国の準備
 
朝鮮王朝は朝鮮通信使として遣わす正使、副使、従事官の三使に文才の
秀でた文官を起用し、儒学者、書家、画家、医師、僧侶、書記、通訳、
楽隊などは第一級の人物を揃えました。三使などは帰国後に政界で活躍し、
大臣の地位についた人々もたくさん居たということです。朝鮮通信使は
1回に300〜500人来日する大きなものでしたから、一隻が40mを超える
外洋船6隻が用意され、そのうち3隻には将軍家をはじめ御三家、道中
接待してくれる諸大名への贈り物が満載されていました。
 
 
  正使

         
朝鮮通信使を迎えるのに、日本側は国をあげての歓迎体制をくみました。
幕府は老中を総責任者とし、通信使の通る道すじの大名には、準備の
ための帰国を命じました。使館の新築、船団の編成、道路の整備、人足や
馬の調達など前の年から準備をするためでした。橋を補修し、木を植え替え
家並みを整えました。食事も毎回最上の豪華さで、当時の日本人が食べな
かったけものの肉も用意しました。通信使は、基本的には国家どうしの
交流で、てあついもてなしも、ある意味では日本の国力を誇示するため、
華やかな行列は幕府の威力を示すもので、民衆レベルの交歓ということは
考えられていませんでした。
 
 
  副使

通信使の接待に費やされた日本側の経費は毎回100万両、動員された
人足は33万人、馬は77600頭にのぼったといわれています。
この費用は幕府や大名だけが、負担したわけではありませんでした。
沿道の農民にも人馬を提供するように求められ、もし出せない場合は
金を納めなければなりませんでした。朝鮮側も6隻の舟の建造や贈り物
など年間30万両こえたといわれています。対馬藩も1回の通信使に
かける費用は20万両で両国とも通信使に要する費用は、1年の
国家予算に近いものでした。1両は現在の数万円と考えらていました。
 
 
 (釜山の草梁倭館)

日本と朝鮮の国交が正常化するまでの10年間、日本からの使節は
釜山近くの島に臨時に設けられていた倭館を使用していましたが、
対馬藩は交渉の窓口として朝鮮王朝の許可を得て、釜山に10万坪の
倭館を経営しました。長崎の出島の25倍といわれる釜山の草梁倭館は
わずか50km足らずの海峡をはさんだ二つの民族の交流と共存の
必要のあかしでした。日朝双方の国をあげての準備が整い、やがて
朝鮮通信使の一行は船出のときをまちます。

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